鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年3月のMedium

 

挨拶ぁ抜きだ。サクサクッと転載するぜ。

DATA

只今データを作成中である。自分から率先して、ではなく、頼まれたから仕方なく、である。

私は会議の席で、業績が堅調であることについて二、三の感想を述べた。すると、それを裏付けるデータを提出するよう命ぜられた。面倒だが、これも仕事だと割り切って、データをかき集め、ソートし、「業績堅持、やや上向き」のエビデンスを抽出しようとしている。

だが、こんなデータをいくら拵えようとも、それは単なる気休めに過ぎないのではないかと、訝しがりながら報告書をしたためている。

なぜなら良い面だけをアピールしているからである。「○○が好調の原因でした」と結論づけたところで、それはただの現状追認でしかない。肝心なのは問題点をあぶり出すことであり、弱点を探り当てることである。それこそがデータ提供の真の目的ではないか。

私の報告など、組織全体からすれば傍流の、参考程度にしかならないものだ。けれども問題点の反映されていないデータが、はるか天上界の安心材料でしかないのであれば、そんなデータは作成しない方がまだマシだ。


前の仕事で新宿に通っていたころ、若松町内閣府統計局の傍を通っていた。あの建物の中には国勢調査を始めとする、膨大なデータが蓄積されているのだろうと想像をめぐらしていた。優秀な国家公務員が、ありとあらゆる角度から、さまざまなデータを精査し、厳密な統計学に基づいた資料を日夜作成しているのだと。そしてそれは、「数字は嘘をつかない」の理が示すように、公平で、信頼の置けるものであろうと思いこんでいた。

しかし昨今の社会情勢の中で、公的機関の作成したデータを根拠として論を展開するものが増え、それが一種の錦の御旗、あるいは葵の御紋よろしく絶対的なものとして示されるケースを散見する。

確かに数字は嘘をつかない。だがしかし、その数字から何を読み取るかは、読む側の意識や捉え方で全く異なる様相を呈する。

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上掲のPDFファイルは厚生労働省の調べによる「保育所等関連状況取りまとめ(平成27年4月1日)」である。これを注意深く読んでいけば、保育所に於ける待機児童の問題は(もちろん地域差はあるけれども)国全体に係る喫緊の課題であることに疑いはないだろう。

ところが、ここに挙げられた表の劣悪版⇩がネット上に流布しており、これを使った「2010年から2012年までの3年間が待機児童数のピークであったから、その頃の政権の支持者が現政権に対して文句を言える筋合いはない」との珍説を方々で見かける。

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私はMediumで政治的な問題を扱わないことに決めているのだが、その劣悪版に関しては、棒グラフにかなり恣意的な色付けが施されており、しかも余計な注釈が付いているので、データとしての価値は殆どないと断じたい。既にこの図の信ぴょう性については、多くの疑問が寄せられている。

また、この表の棒グラフで示された、人数の推移のどこに着目するかで、評価も180度変わってくる。増減という観点で、09年から翌年の急激な増加と、その後3年の漸次減少を見れば、この表を作成した側の思惑とは違った結論を導き出すことも可能である(とMediumだから控えめに指摘しておこう)。

つまり同じデータであっても、それを見る側使う側の立場によって多様な解釈が可能なのだ。なるほど数字は嘘をつかない。しかし推移の何処に重きを置くかでデータが示す意味あいは全く異なってくる。私はだから、政治的なイシューである保育所等の待機児童の問題に、データを持ち出して相手の鼻を圧し折るような手法は得策でないというよりは逆効果ではないかと考える。今そこにある・目に見える問題を、無闇に表や数字の羅列を使って遮へいしようとすればするほど、問題に直面する当事者は、あべこべに不信の感情を抱くものだから。


久しぶりにMediumを使った。そのせいか、長々と書いてしまった。願わくは賢明なるMediumユーザー諸氏におかれては、過度にデータに依存せず、損得にも傾くことなく、公平無私な視点から資料にあたることを、どうか心がけてほしい。エビデンスという名の、納得ゆく材料を得るためにデータを補正してはならないし、読み解く際にバイアスを加えてはならない。

ただいま私はデータを作成中だ。データそのものには手を加えないが、「まとめ」に二、三行、ちょっびりシビアな意見を添えておこうと思う。(3月10日)

註:この記事は、ちょうど「保育園落ちた、日本死ね」の頃に書かれた。

 

ハピネス(Happiness)

I never seen you looking so bad my funky one/You tell me that your superfine mind has come undone/そんなに鬱ぎこんだきみを見たことがなかったな/きみの言う「超元気主義」はどうしちゃったの?STELLY DAN “Any Major Dude Will Tell You”

ハロー、私はケイティ。最近毎日がスゴく充実している。ポジティヴシンキングが功を奏しているって感じ。それは、次に挙げる5つのモットーを必ず実行しているからよ。

  1. 朝起きたら先ず、「ハピネスが此処に」と唱え、直ぐに活動開始。
  2. 就業前に今日やるべきことをぜんぶリストアップしておく。
  3. たくさんの人とできるだけ交流して人材という財産を増やす。
  4. オフィスを出たら仕事のことはきれいさっぱり忘れ、アフターファイブを愉快に過ごす。
  5. 今日の充実を神に感謝する。

どう?このたった5つを心がけているだけで、驚くくらい物事がスムーズに運ぶの。

生きているって楽しい!

そうイメージするだけで、可能性は限りなく広がっていくの。それは思いこみだよってからかう人もいるでしょう。けど、ネガティヴな思考をしていると、萎縮したイメージしか紡げない。思いこみも一種の才能よ。私はできる、私はスゴいって唱え続けているうちに、思いは現実化するものなの。

マイナスイメージを意識から排除しなさい。

そりゃあ私だって凹むコトがあるわ。劣悪な労働条件、安すぎる給料、理解のない上司、使えない部下、不味い社食のランチ、未決事項の山積、列挙すればキリない、ため息つきたくなる現実。

でも、そんなの弾きとばしちゃえ!

アゲンストに立ち向かう勇気。今を嘆くばかりじゃダメ。何が問題なのかをしっかり見極めながら、常にアップデートしていく、絶え間なく改善していく。周りの環境を変えたいのなら、先ずは自分から変わっていかなくちゃ。

そう思わない?

だから私は愚痴らない。否定的な言葉を口にしない。政権批判とか以ての外よ。そんなの、自分に自信がない証拠。自分の能力をフルに発揮しない人に限って国や社会の所為にする。それってムダな労力。そんなことに感けている暇があるなら、スキルアップに勤しむべき。時間は有限なんだから有効に活用しなさい。誰かからの宛てがい扶持を期待しないで。活路は自分で切り拓くものだから。

私、いいこと言うでしょ?

あなたに素敵なことを教えてあげるわ。人の持つ潜在的な能力は、それこそ無限なものなの。計り知れないパワーが潜んでいる。それを引き出すのに、とくに技術は要らない。自分を信じること。

Believe!

信じるって唱えてごらんなさい。自分自身を、信頼できる仲間を、そして神のご加護を。それがハピネスを獲得するための秘訣なの。

私はケイティ。毎日を楽しく過ごしている。羨ましい?ううんホントは強がっているだけよ。私は誰かさんと一緒、不安で胸が張り裂けそうなの。明日はあるんだろうかって、いつも脅えている。あなたと同類の、臆病な一人です。

だけど、負けるもんか!

 

……や、superfine mindで書いているうちに、なんだかその気になっちゃった。言霊ってあるんだなあ。私も明日の朝に、とりあえず「ハピネス」と唱えてみよう。幸せになれるかな?(3月12日)

「ハピネス」は辞書にも載ってる通りで/幸せなんて人それぞれ…… ムーンライダーズB.B.L.B”

註:これはMediumの上昇志向をおちょくった記事。もちろん支持は得られなかった(でも好き)。

 

 

Technique

それは肉体に還元する技術。

数多くの情報をいったん脳内にインプットし、取捨選択し、自己の肉体を使ってアウトプットする行為。

その「表現」を確かなものとする技術を指す。

テクニックそのものを、だから目的にしてしまうと、表現は陳腐なものに成り下がる。今まで何を見聞きし、何をチョイスし、新たな何かを付加したのかが、表現者に問われるところだ。

ただ手先の器用さを開陳するばかりが、テクニックではない。予め収められたレコード(記録)を忠実に再現できることが、テクニックではない。少なくとも私は、オリジナルをなぞるだけの表現には何の感興も湧かない。

これはスポーツなどにも援用できる概念かもしれない。が、私は今回、音楽について考えている。


世界的に著名な音楽家が亡くなった。自死である。私はこの何日間か、ずっとその意味を考え続けている。

Keith Emerson’s girlfriend says he killed himself because he feared disappointing his fans.

「彼は彼のファンを失望させたくなかった」との(彼と連れ添った女性の説明した)理由が、自裁の全てを物語っている。

神経を患い、指先が思うように動かなくなって、以前のようなプレイができなくなったことを、彼は悩んでいたという。かつて彼はインタビューで「あの曲を弾けたことは私の誇りだ」と語っていた。演奏家としての矜持。そしてサービス精神。彼は自分の演奏で観客が楽しんでいることを、至上の喜びとしていたに違いない。往年のレパートリーが巧く弾けないことで、ファンが失望する事態を怖れたのかもしれない。己のプライドが、それを許さなかったのだ。

でも、だけど。

誰かがTwitterでつぶやいていた、

ただ居てくれるだけでよかった。ステージに現れ、元気な姿が見られるだけで、僕らは満足だったのに……

と。同感である。ホロヴィッツが最後に来日したとき、彼は既に満足に弾けなかった。かつての輝きは、もはや望めなかった。だけど観客は失望しただろうか。昔ほど弾けなかったことを残念がっただろうか。

私は、彼のパフォーマンスを直に観ていない。映像ではしこたま観ているくせに。できれば生きているうちに観に行きたかった。いや会いに行きたかった。

なぜなら彼は私を夢中にさせた。私の青春は彼に捧げられたようなものだ。彼と、彼の仲間が創った「物語」を、私は飽くことなく繰り返し聴いた。物語を創生した者に対して誰が失望するものか。私はサービス満点なパフォーマンスや華麗なアドリブよりも、彼の右手と左手がたどる音階の道筋や、ピアノやハモンドオルガンモーグシンセサイザーが轟かせる、倍音たっぷりな音の塊が何よりも好きだった。

それは彼の肉体を経由して伝えられることによって、説得力を持ち得たのである。そのテンポに揺らぎがあろうとも、指さばきに粗っぽさが目立とうとも、それを含めての表現であった。私の言及したいテクニックとは、まさにそこである。巧拙や再現能力ではない。

老いの入舞と世阿弥のいう、幽玄の境地とはほど遠いかもしれないが、彼を外連(ケレン)の文脈で片づける向きには、断固として違うと唱えたい。彼の残した粗削りに見せかけた稠密な彫塑を、永遠の謎とすることなく、私は私の領域で、継承していきたいと思う。

さようならキース・エマーソン。(3月15日)

 

Desire

ボブが誉めてくれた、「君の“Hallelujah”は素晴らしい。作るのにどれくらいかかったか」と。そこで私は「5年だ」と答え、「私は“I And I”が好きだけど、どのくらい時間をかけたんだ」と逆に訊ねた。すると彼は、「15分だ」と答えた。15分!あの長い歌詞をだよ?(レナード・コーエン

ボブ・ディランの歌詞はす早く書かれる。もちろん推敲も書き直しもするけれど、基本的には最初のインスピレーションをそのまま外に放り出す。言葉は時に意味が通じなかったり辻褄の合わなかったりする場合も多い。が、その粗削りな彫りあとが聞くものの耳に引っかかるのだ。彼は誰を指弾しているのか、敵か、彼自身か、それとも彼の恋人か。錯綜する意識を詮索しながら、聞き手はボブの紡いだ「物語」にいつしか没入していく。

レナード・コーエンは正反対だ。彼は戦車のように頑丈な詩を拵える。手造り靴の職人が皮をなめすようにコツコツと、誰が聞いても誤読不可能な語句を当てはめる。試行錯誤を繰り返した挙句、作詞は完成まで数年に及ぶ。一つのテキストに対するアプローチの相違は作風にも現れる。だからレナードの歌は、発表された瞬間から古典としての貫禄を備えている。

けれども、今朝がた私はボブ・ディランの『欲望』について、こんなことを呟いた。

洞窟の壁面に刻まれた古代人の文字が現代人の抱える問題や苦悩を偶然に照らしだすように。

彼が書きとばした言葉の羅列は、40年の隔たりを超えて、今ここにある苦悩を照射するに恰好の材料となっている。昨夜に書かれたものだと言われたらうっかり信じてしまいそうなほど、生々しく、血の通った感じがする。それは“Isis”や“Joey”に今の混乱や葛藤を仮託した、引用者の心情とダイレクトに結びついたがゆえにであろうが、ボブ・ディランの警句もまた、経年の風化を免れた稀有な詩として、ディラン・トマスやT.S.エリオットと並んで、後世まで語り継がれるに違いない(ということを本当は語りたかったのだと想像する)。


私は先ほどロード(Lorde)の歌を聴いていた。言葉に対する鋭敏な感覚を持つアーチストが久々に現れたという印象がある。彼女は詩作について過去の作家らから多くを学んでいるようだ。そういう表現者は強い。ニュージーランドから出現したことも興味深い。アイスランドからビョークが出てきたように、時代を刷新する才能は、今後はむしろ(敢えていうが)辺境から現れるような予感がする。

日本語もまた例外ではないと言い添えておこう。世界の中心から外れた今だからこそ、彼ら西欧が耳にしたことのない、新たな統語論の発生する余地がある筈だから。

★と同様に新星を待ち望む。それが私の秘かな欲望だ。(3月22日)

註:★とは言わずもがなだが、デヴィッド・ボウイのことです。

 

脊髄反射

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脊髄反射」は「お花畑」と並んで、私の最もきらいなネット・ジャーゴンである。

よくよく考えもせず、即座に反応することを指すが、揶揄し、蔑む語調がいやらしい。

もう使われだして随分経つと言うのに、一向に衰えることのない罵倒語。「それ、脊髄反射なww」と書かれた文字面の虚しいことよ。

そも、脊髄反射とはどういう意味であるか。

大脳皮質を経ないで、脊髄にある反射中枢を介して起こる反射。膝蓋腱反射、アキレス腱反射など。(大辞林より)
脊髄反射/せきずいはんしゃ/spinal reflex/脊髄を中枢する反射の総称。刺激を受けた感覚麻痺がインパルスを脊髄に送り、これが運動神経に伝達されて反射が起る。脳を介する反射と比較して単純で原始的なものが多く、一般的に、刺激を受けてから反射を生じるまでの時間が短い。(ブリタニカ国際大百科事典/小項目事典より)

なるほど、単純で原始的な、と言いたい訳か。しかし何らかの感想を文字にして起こすという一連の働きは、それが如何に取るに足らない意見であろうとも、いったん脳を介して表出されたものである以上、脊髄反射という言葉を用いることは、語義本来の意味を考えると「正しくない」。それこそ挙げ足取りのようだけれども、脊髄反射と誹ることこそ、脊髄反射的であるとも言えるではないか。

土台SNSという場において、読んでいて、書いていて一番スリリングな展開は、熟考しないままのレアな感想を即座にポストすることであり、だからこそヒートアップしたやりとりが注目されるのである。そのつば迫り合いの中から、傍観者は書き手の力量を推し量り、どちらに分があるか、固唾を飲んで見守るのである。一方に基礎知識と教養の体系があり、もう一方にそれが欠けているとすれば、勝負は歴然としている。が、往々にして食いさがる側に、知の欠如のうかがえるケースは多い。とっくに斬られている事に気づかぬまま、いつまでも「粘着」するのだ(あゝまたネット・ジャーゴンを使ってしまった!)。しかも、そういう者に限って「脊髄反射ww」のような常套句でまとめたがるのである。

だから結論を急ぐと、脊髄反射と評されるネット上の即時反応は、決して悪いものではない。ほぼ無意識に直感的に選ばれた言葉が、正鵠を射る場合が往々にしてあるのではなかろうか。

先刻Twitterで私は、それこそ脊髄反射で反論した。あまりにも不当な断言に腹を立てたのだ。この場合、思いついたら即座に反応しなければならない。言葉を選んでいるうちに感情の昂りを逸してしまう。そうなるくらいなら、単純で原始的な言葉を放りこむのが一番だ。その言葉の中に含蓄を認められないなら、憤りを感じとれない受け手側の方が鈍いのだ。と、お花畑な私は思うのである。


ところで、Spinal tapの意味を正確に知ることができたのは、今回の収穫だった。脊椎穿刺のことなんだそうな。誰が名付け親なんだろう、あの架空のバンド名は?(3月28日)

註:同名の映画『スパイナル・タップ』を参照のこと(不親切イワシ)。