鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年2月のMedium

 

【はじめに】

MediumというSNSサービスがある。本国アメリカでは今なお隆盛なようだが、日本では(日本支社が撤退したせいもあって)苦戦している。ぼくもアカウントをもっており、昨年は頻繁に更新していたが、今年になって更新が滞った。書きやすさゆえ、やめるつもりはないけれど、あまりにもアクセス数が減少したため、反応も鈍く、書く意欲がわいてこない。この「はてな」にしてもサボり気味だけど、過去エントリーに訪問してくださる読者がいるので、それは書く際の励みとなる。そんなわけで、過去ぼくがMediumに投稿した記事の中から、いま読んでも面白いと感じたものを再掲しようと思います。では2016年2月から。

 

 

本能

ほんのう【本能】生れつき持っていると考えられる行動の様式や能力。動物が外囲の変化に対して行う、生得的でその種に特有な反応形式。(広辞苑による)

便利で、危険な言葉である。用法を間違うとえらいことになる。少なくとも、人に向けて言うべき言葉ではないと、私は思う。

それって本能だね、で片づけられれば、ひじょうにラクである。一切の説明が不要になる。だって本能なんだもの、と開きなおることも可能だ。本能とは烙印でもあり免罪符でもある。だからこそ容易に使うべきではないのだ。

私は或る話題の人物について、その行動様式を語る際に、名状し難いとしながらも、何らかの解答を導き出そうとした。萎縮とも保身とも内面化とも違う、その行動に至った理由は何かと考察したときに、私はあやうく「本能」という結論に飛びつこうとした。それこそ本能的に。

だからこそ戒めたのである。本能なる結論を導き出すのは、あまりにも安直ではないかと。

私自身に。(2月10日)

註:はて、「或る話題の人物」とは誰だろう?もはや忘れてしまったよ(調べない)。

 

クールなアタマとホットなカラダ

Men with cool heads but warm hearts(Alfred Marshall)

英国の著名な経済学者であるマーシャルの名言(の一部)を借りた理由は、経済についてを語りたいためではない。が、その精神のありようを謙虚に学ぶべきではないかと、私は最近とみに思うからである。

話は飛ぶが、ブラックミュージック(ここではアフリカン・アメリカンの創る音楽を指す)の極意とは、クールなヘッドにホットなスタッフだと聞いたことがある。出典は不明だけれども、そのことをブラックミュージックの愛好家に尋ねると、決まって「まったくだ!」と頷くのである。ジャズでもいい、R&Bでもいい、ソウルでもラップでもいい、かれらの生みだす音楽の基本的なアティチュードは、じつに一貫している。激しい脈動や迸る汗はまことにリアルだけれど、一方、その肉体を司る脳の働きは冷静である。醒めている、といってもいいだろう。

ブラックミュージックに耳をすますと、そこには状況を的確に把握し、自己の発する楽音を認識する演奏家たちの意思が読み取れる。司令塔の有る無しに関わらず、互いが互いの音に呼応し合っているのだ。これはブラックミュージックに顕著な特色であり、一般の西洋音楽とは一線を画すところだ。

つまり、構造的ではない。即興性の有無に関わらずスコア(ここでは楽譜に特定する)の規律に支配されていない。だからこそ奏者は、各自が常に神経を研ぎ澄ませつつ、瞬間を捉えようとする。そのためにはアタマがポッポしていては話にならないのだ。どんなに肉体を駆使していても、意識的にクールであろうと努める。私はそれがブラックミュージックの奥義であると、聴くたびに感じている。

スポーツにも共通するこの感覚とアプローチは、他の分野にも応用可能ではないか?

私はテキストを作成する際にも、「クールなヘッドとホットなペン先」を常に意識しながら書いている。(2月13日) 

だけどそのホットな部分が、たまにTwitterがしんどくなる理由でもある。Mediumにアカウントを作ったのは、クールになれる場所を欲したから。あそこは今ンところ意識高い系がほとんどだから、ぼくも遠慮なく「おすまし」ができるんだ。いわゆる「分人」の実践。けれども本質は変わらない。(2月15日/Twitter

 

相対化

【相対化】読み方:そうたいか 名詞「相対」に、接尾辞「化」がついたもの。(weblio日本語活用形辞書より)

相対化は、よく分からないまま世間一般に広く使われている言葉であり、私自身も理解しているとは言いがたいが、概して語尾に「化」がついた場合、眉につばしてかからねばならない。無効化やら内面化やら「化」をつけることによって、なんとなく小賢しげなポーズをとることができるから。「〜化」は「〜的」と並んで、レトリックに有効であると、未だに信じられているようだ。

が、相対化による論だての合理「化」は程々にとどめるほうがよい。なぜなら問題の本質を逸らすための便法として、相対化のレトリックを意識的(ホラさっそく「的」が出た!)に使う傾向が目立ち、とりわけ思想信条・主義主張を強く説く際に多用されている現状があるからだ。

私は必ずしも相対主義が問題であるとは思わない。対象となるをAとBに二分し、相対させること自体は間違いではないだろう。ただし、それはAとBを等しく分けた上で評価した場合において、という条件が付く。あらかじめどちらか一方にマイナスorプラスのバイアスを加えては、公平に相対化しましたとは到底言えまい。ところが巷間に流布する似非相対化の大半は、フェアネスを欠いている。最近見た例を示すと、

  1. Aはダメである
  2. Aはだらしない
  3. それに比してBはまだマシである
  4. ゆえにBを選ぶ他ない

と一方に誘導する。しかしこれは相対化に見せかけた詭弁である。

これは殊に、上のAやBを「政党」とする、政治的な意見対立の場において最も多く見られる。が、試しに括弧内を「組織」や「システム」に置き換えてみれば、勘のよいあなたなら思いあたる節があるだろう。あるいはまた「表現の自由」と「基本的人権」のように、本来なら併存するべき二者を対立項と見立てる向きにも、この相対化が濫用されている。すなわち「どっちもどっち」だと貶める目的で、相対化が利用されているのだ。

冷静にテキストを読めば、すぐに解ける陳腐なマジックだが、これが横行する背景には、情報をサクサクと処理することに長けた、現代人の忙しなさがあるように思えてならない。効率のよい考えをすればするほど、検証を怠りがちになり、弄言の罠に引っかかりやすくなる。

相対化の衣装をまとう、公正さの脱臼した言説に、読み手の心理の裏をかく詐術が潜んでいないか、私たちは留意する必要がある。もっともこの粗雑な感想が言わんとする旨など、賢明なMediumユーザー諸氏なら、先刻ご承知だとは思うが。

蛇足だが、私は固定ドによる絶対音感を持たない。が、移動ドによる相対音感なら備えている。(2月16日)

時代の最先端を突っ走っていると自認し、資本社会を牽引する立場にあると自負する者は、往々にして庶民の生活を想像の埒外に置き、他者の痛みに鈍感であるが、それは或る政党が選挙になると標榜する「頑張った人(だけ)が報われる社会を」なるスローガンと親和性が高い。※()内はイワシの付け足し(2月16日/Twitter

 

適当

てきとう【適当】①ある状態や目的などに、ほどよくあてはまること。「__した人物」「__な広さ」②その場に合せて要領よくやること。いい加減。「__にあしらう」(広辞苑による)

私はバラの写真を自分のライブラリーの中から適当に選んでいる。

適当に選んではいるが、内容とリンクする、適当な写真であると思う。

ところで、この「適当」は、何時頃から「テキトー」の意味で使われるようになったのだろう?当に適うという、上掲①の意味が本来ではないのか。それが今では殆ど②の意味を指す語として使われている。

おそらく日常会話における、使われ方の変容だろう。例えば昭和時代の中頃の小説で、倹約することを「経済である」と表した文章によく出くわすが、それと同じように、「全体キミの考えは適当ぢゃないか」などという仲間うちでの符丁めいた言い回しがやがて遍く普及し、主に②の意味で使われるようになったのではなかろうか。

あてにならない空想である。間に受けないで、適当にやり過ごしていただきたい。私がこの記事で訴えたい主旨は、確かめようのない言葉の変遷についてではなく、現在における「適当」の使われ方への違和感だ。

私は「適当」を①の意味で使いたい。なぜならば適当は含蓄のある言葉だと思うからである。適切とか適正とか適度では弾力性に欠ける。「適当」の復権が今回の目的だ。

テキストを書く際に、私はなるたけ素早く書き上げたい。語句を選びながらだと、着想を逃しそうだし、閃きから思考にいたる展開を阻害するきらいがある。だが、いったん書き上げたテキストを編む際には、じっくりと時間をかけたい。どんな言葉が文章に一番適当であるかを、吟味したいのだ。

「うむ、この箇所は「自意識」ではなく「自己省察」が適当であるな」

というふうに「適当」を適当に使いたいのだ。

適当の本来の意味が①であるかどうかは調べていないから分からない。私は今回かなり適当に書いている。勿論この場合の「適当」は②の意味である。万事適当な性分ゆえお許し願いたい。(2月20日)

@pochima14 ありがとうございます。返信にある「語彙」という適当な語彙が、思い浮かばなかったのが悔やまれるところです(笑)。「数学的適当」って表現はいいですね。(2月20日/Twitter

返信先のアカウントは藤野麦作さんといって、自分ではめったにツイートしなかったけれど、優しそうで好きだったな。残念なことにこのやりとりの数か月後、アカウントを閉じてしまった。

 

アウェイ感

Mediumに投稿し始めて二週間。

ここはアウェイだと、ひしひしと感じる。それはネガティヴな意味あいではない。むしろ歓迎すべき感覚なのである。私は雑念を取っ払って書くことに特化した場所を設けたかった。Mediumは格好のフィールドだ。

ここでは誰にも気兼ねすることなく、思う存分筆を揮える。周りを見渡すと、今までの自分とは殆ど関わりのない人々ばかり。起業やイノベーションスキルアップとは、とんと無縁の人生だった。場違いもはなはだしい私だが、その孤立感がむしろ愉しい。

この感覚を何に例えよう。そうだな、一人で海外に旅して、異国の町を歩いているような感じだろうか。いやいや、それほど格好よくはない。もっと身近な感覚だ。部活で隣町の中学校に遠征した時の感じかしら。自分とこの学校と似たようなグラウンドだけど、どこか勝手が違う、居心地の必ずしも良くない校庭。

でもそれは不快ではなく、むしろ普段とは違った雰囲気の中で、余計な邪心も入らず、意識が研ぎすまされ、結果いつもより集中できて良いタイムを出せた時に一番近いかな。

尤もMediumでは今のところ結果を出していないし、今後目覚ましい記録を出せるとも思わない。でも、構わない。何もない真っ新なスペースを、今は15分くらいで息を詰めるように走り書きするのが爽快だし、私自身にとっては文章を鍛えるに絶好のトレーニング場所とも言えるから。

私は、素早く反応しながら書くTwitterは短距離、じっくり腰を据えて書くブログは長距離のようなものだと考えている。

そして鈍足の陸上部員だった私は知っている。中距離走がいちばん過酷であるということを。(2月25日)

註:箸休めっぽいエントリーだけど、私的には気に入っている記事。

 

駅前書店の保護について

ねえ 事を逆にして考えてごらん 今 急に 駅ふきんが野っぱらになったとしたら きっとキミは なき自転車置場を いたむよね (大島弓子『四月怪談』より)

芳林堂書店が倒産したとのニュースを聞いて、私は十年ほど前の事をぼんやりと思いだしていた。

国立(正確には国分寺)に住む当時の同僚がこう言ったのだ。

S武線沿線はT一族の愚民化策により満足な本屋が少なく、よって民度が低い。

私は内心憤った、《何が「民度が低い」だ。原武史かぶれたような私鉄沿線論をぶちやがって。わが野老にだって本屋くらいあるわい。プロペ通りには芳林堂書店だって》と。

しかしその半年くらい後に、元からあった商店街の店舗は畳まれ、駅ビル2階のみが残った。マンガと雑誌が主体になった芳林堂の新しい店舗には、自然と足が遠のいた。

私が故郷の町に戻ってから3年が経つが、むかし住んでいた町の夕暮れに賑わう駅前の光景を時々懐かしく思いだす。郊外に住み、玄関から職場までマイカーで通勤するという今の生活サイクルには、本を買う目的がない限り、本屋に立ち寄る機会はない。この地方都市に、私がまともだと思える書店は、市の中心部に3店舗しかなく、そのうち2つは老舗、もう1つはジャンルを特化したセレクトショップ的な書店である。通勤途中には巨大なショッピングモールがあり、中には紀伊国屋書店も入っているが、広いフロアの割には書棚に魅力がない。本を買うならやはり長崎書店で購入したいが、買うという目的がなければ、市内まで足を運ぶ機会はなかなか訪れない。

だから気軽に本屋に立ち寄れる首都圏の環境がうらやましい。私はTwitterでこんなふうに呟いた。

仕事の帰りに改札を出てから駅前の本屋にちょっと寄って書棚に並ぶ本をざっと眺めるだけでも社会の流れや今の動きを感じられるんだが、それが都会に住むことのアドバンテージだってことに気づいたのは今いる地方都市に戻ってきてからだね。

都会と、その周辺に住まう人々にとって、駅前に立ち寄れる書店があることの有り難みはなかなか感じられないかもしれない。だが、本屋とは本来構えていくような場所ではない。ふらりと寄ったついでに何冊か立ち読みし、面白いと思ったらとりあえず買ってみる。当たり外れもあるだろうが、そうした偶然の出会いが新しい知覚の扉を開くケースだってある。そこまで期待しなくとも、出版社が推すところの平積みされたベストセラーや、書棚に並ぶ雑誌の表紙を飾るタレントの顔ぶれ、流行のメイクを一目瞭然にすれば、書店にいるだけで「時代の今」を肌で感じられる。

その「一目瞭然」が意外と重要なのではないかと、私は思うのだ。

時代の最先端を捉え、情報の波打ち際に遊ぶMediumのユーザーたちは、この私の意見をノスタルジックな感傷だと笑うだろうか?店頭販売という、時代にそぐわぬシステムは淘汰されるべきなのだろうか?しかし、考えてもみてほしい。

あなたは、書店のない町に住みたいか?

私は駅前の書店が健在である社会が望ましい。少なくとも本屋のある街並の方が好きだ。本屋のない町なんて、彼奴が言ったように民度の低い証拠だ。意識の高い諸君は、必要な書籍をamazonで手に入れるだろう。それで構わない。だけど急ぎでないなら(一週間は待たされるかもしれないが)駅前の書店で予約してみてはどうだろう。あるいは定期購読の雑誌を、発売日に書店で買う習慣をつけてみてはどうだろう。

それは文化財保護の目的であると、この際わり切ってしまおう。駅前書店を存続させて、その代りに、どしどし意見を寄せればいいのだ。注文の内容によって書店の質も変わっていく。あそこには良い本がないと嘆く前に、良い本が揃う本屋に育てていくべきだ。

冒頭の、大島弓子作品の引用を読み返してもらいたい。両義的な意味に捉えられるだろう。かつて在ったものが無くなってしまうことは進歩する社会の必定か?時代の趨勢には如何せん抗えないのか?はたして駅前書店は終わったコンテンツなのか?再生の道なぞ最早ないのか?

私は、都市部に住む方々に保護をお願いしたい。駅前の書店を絶滅させないで、と。(2月27日)

※註:ちなみにぼくは、原武史さんの書いた本を好んで読みます。