鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

やさしさに包まれたいなら

 

やさしくはないんだな、ぼくの場合。とりわけ同世代には、やさしくないヤツが多いね。この国の「長」とか(ぼくより少し年上だけど)典型的だ。基本的に、他人に興味がないんだ。すごく冷淡。自分のことしか考えていない。

世代論にしたくはないけど、それはやっぱり今の50代の世代的な特徴なんだよ。そのくせ「いきすぎた個人主義は云々」と人権を侵害したがる。テメエは人権にめいっぱい擁護されてきたくせにさ、他人の人権にはまるで無頓着なんだよね。

どうしてなんだろう?

どうしてぼくたちはこうも拙い?

どうして日本の中高年男性は、かくも醜いのだろう?

 

子どものころは、やさしさがちまたにあふれていた。コマーシャルも流行歌も、やさしさの重要性を説いていた。70年安保の終わったあとに青春期を迎えた世代。それがぼくたちだった。

シラケ世代と名づけられた。三無主義ということばもあった。いつの世も大人たちは自分が納得したいため、理解しがたい若者にレッテルを貼りたがる。ぼくらはしらけていただろうか?それほどでもないように思う。ただ、前の世代に比べると声高に主張をしなかった。自己主張は損だとの意識が根底にあった。オレはこう思う、と正面きって語りだされると、とても困った。ぼくも困ったし、きみも困った。みんな困ったので、誰も主張しなくなった。

成人の日には決まって「青年の主張」という放送があった。あれが大嫌いだった。まじめな学生さんが、苦労しながら自己実現にまい進するのを聞くのは堪えがたかった。そのことを他の同世代にこっそり洩らすと、オレもわたしも嫌いだと頷いた。みんな嫌いだったのだ、きれいごとの弁論大会を嘘くさく思っていたのだ。それを知ってぼくは、あゝみんなと同じだと安堵の息をついた。

やがてお笑いブームが到来した。タモリが皮肉たっぷりに「意味のない歌がいいよね、思想のある歌はイヤだねえ」とフォークソングをやり玉にあげ、ビートたけしが権威の滑稽なふるまいを嘲笑しながら毒ガスをまき散らしていた。ぼくらは快哉をあげながら彼らの「ホンネ」に同調した。

……と、ここまで書いて、なんだか情けなくなってきた。

 

じつは「鰯の独白」が書けなくなってしまった。素材は常に蓄えているのだけれども、なんだかそれもむなしく思えてきた。浮かんだ考えを、いちおうの結末まで導くのが億劫になってきた。そのプロセスをたどっているうちに、妥協があったり、諦めがあったり、衒いがあったり、投げやりになったり、まあいろいろとあって、書きあげる気持ちがくじけてしまった。

たとえば上の文章から、いくらでも枝葉を広げられる。白状すると「やさしさ至上主義」というタイトルの記事を八割がた書いて削除した。当時のフォークソングに代表される、やさしさの押し売りに辟易した少年イワシにとって、唯一リアルに思えた歌詞は、RCサクセションの『シングルマン』に収録されている「やさしさ」だけだった。

誰もやさしくなんかない きみと同じさ いやらしいのさ

誰もやさしくなんかない だからせめて 汚い真似はやめようじゃないか

忌野清志郎が痛烈に批判した「やさしさ」とはなにか、同時に渇望した「やさしさ」とはなにか?そこを掘り下げる作業が、今はとてもシンドい。その当時(70年代中盤)に流行した「やさしさ」の大安売りをいまさら典型例を挙げて糾弾することもあるまい。と、中途でしらけてしまう習性が身についてしまっていることに、堂々めぐりで先へ進めないディレンマに、うんざりしてしまう。

あのころ抱いたぼくの心情を、もっとも的確に描写した小説は、橋本治の『桃尻娘』シリーズで、とりわけ「無花果少年」の空虚さには自分との共通点にドキッとしたものだが、それも今は手もとに本がなく、記憶を頼みに書くのもなんだか気がひけるので、橋本治についてもいずれ書きたいが、目下棚上げ中である(それもこれも、前に書くと宣言しておいて未だに放ったらかしの「パンタ&HALのマラッカ」についての記事が尾を引いているからだ。なぜなら、パンタについて書くならば、否応なく橋本治にも触れなければならない)。

なんだろうな、このドシャメシャ感は。どうしてこんなに混乱してしまったんだ?

 

つまり、なにが言いたいかというと、ぼくは人にやさしくした経験がほとんどないという事実に突きあたってしまうので、金縛りにかかってしまうんだ。

ぼくは自分でも薄情だと思うことがある。ふつうならここで泣くんじゃないか、あるいは悔やむんじゃないかといった局面に立つたびに、自分でも吃驚するほど冷淡な態度をとる。 それを冷静さと好意的に受けとられる場合もあるが、たいていはぼくという人間の本性を見て、人は離れていく。

ぼくは、やさしくなんかない。

このあいだ、Twitterでエラソーにやさしさが必要だと講釈を垂れた。

ぼくは本心から語ったつもりでいたけれど、でも、ほんとうに今の自分がやさしいかどうか、怪しいもんだと思う。

やさしいそぶりをしているだけではないかという疑念がまとわりついて離れない。

80年代半ばに、ザ・ブルーハーツが「人にやさしく」と歌っていた。ぼくの性格上あの歌にはかすりもしなかった。が、今ふり返ると、あれは単純だが、単純なだけに内容の深い歌詞ではないか、それを見過ごしてしまっていたのではないか、と最近になって考えを改めている。

人にやさしく してもらえないんだね

ぼくが言ってやる でっかい声で言ってやる

ガンバレって言ってやる 聞こえるかい、ガンバレ!

こうやって書き起こしているだけでも恥ずかしくてたまらない。でもなぜだろう?何故ぼくは「ガンバレ」を素直に口にできないのだろう。ガンバレと励ますことを恥ずかしく感じるのだろう。その感性はいったいどこで育まれたものなのか。

偽善のにおいがするからか?しかし善意の発揮を片っ端から偽善だと断じてしまったら、あとに何が残るだろう。草も生えない荒地ではないか。光の届かない暗野ではないか。

一括りにされてはたまらないと思うかもしれない。が、ぼくはあえてぼくらと言う、

「ぼくら50代の精神はあまりにも貧しい」と。

 

先日のTwitterを再度ふり返ってみたい。最初、お子さんが生まれたばかりの@なすこさんが、先日の津久井での事件について、こんなふうにつぶやいていたのを目にした。

障害者やその家族がどんな思いでいるかというと胸が苦しくなる。誰もが安心して生きられる社会にしたいし、そう思っている人もたくさんいるはずなんだけど、どうしたらいいんだろう。

 それを読んだぼくはこんな返事をしたためた。

お花畑かもしれませんが、それは優しさだと思います。社会からちょっとずつ優しさが失われている。人に優しさをもたらすには自身がつよくなければできない。けどほんの少しでも思いやりを持てば、さつばつとした世の中も暮らしやすくなると思います。

 そのときの気持ちは、たぶん混じりっけなしの本心だったと思う。これを読んだ別のかたからは、こんな意見もいただいた。

老人や障害者を社会の厄介者扱いする、政治の制度や社会の仕組みを、 老人も障害者も、一人の人間として尊重し合えるような、政治の制度や社会の仕組みに変えなければならないですね。

ぼくはこんなふうに答えた。

はい。きれいごとかもしれませんが、お互い尊重し合うことこそが人道なのだと思います。

冷笑派からすれば歯の浮くようなせりふに見えるだろうが、これも本心からだった。

そして、@なつおさんから(ぼくが眠っている間に)こんな感想をちょうだいした。

いつからでしょう、誰もが暮らしやすい世の中にしたい、助け合って安心して生活できる世の中になってほしい、という願いがお花畑思想だと言われるようになったのは。 やさしい花一輪も咲かない世の中に何があるというのでしょう。

翌朝この返信をみて、ぼくは少しうろたえ、つまずいてしまった。ほんとうにいつからだろうと自問してみたが、すっきりした回答は導きだせなかった。

いつからだろう?優しさの否定はたぶんぼくらがシラケ世代と呼ばれた辺りかな。インターネットの普及でさらに加速した。確かに上っ面の「優しさ」には胡散くささを感じますが、建前を否定し続けた結果シニシズムに陥ったのがこんにちだと思うのです。

たとえば邦ポップスの歌詞に頻出する奥行きのないポジティヴさや、公に流布される美辞麗句のスローガンに、ケッと鼻白む感情は自分の中にも抜きがたくありますが、しかし善意を偽善と一絡げに放擲してしまっては、社会そのものが成り立たなくなる危険があると思うんです。

「本音で喋ろうぜ、建前は抜きだ」的な風潮の行き着いた先が、対話する相手を尊重せず、揶揄するに長けた、現状追認型の言説に塗れた今です。けれども鼻先で嗤う仕草が標準となったら、この言語空間はますますサツバツとなり、素朴な感情の発露を踏みつぶすばかりとなる。

だからせめてぼくは抵抗の意志として、自らを「お花畑」だと称しているんです。ま、これも皮相な見方をすれば、逆張りの変奏曲かもしれませんが。

長々と返信、失礼しました。鰯

などと書いているうち、自分の陰気さに滅入ってきた。どうしてぼくは素直に語れないのだろう。自分の内側にようやく芽生えた善意のつぼみを自分で手折ってしまうのだろう。オレは決して善良ではないよと、ことさら偽悪を装ってしまうのだろう。

ぼくはなつおさんの率直な問いかけにじゅうぶん答えられなかった。いつの間にか我が事に感け、やさしさの真意を追求できなかった。それはぼくが長年培ってきた韜晦の仕草である。おまえきれいごと言っているが、それほどの人格者なのかよと誰かに問われているような気がしてならない。それでこんなひねくれたものの見方をするようになった。

自分の周囲にいた友人・知人が、ぼく同様に皮肉屋だったわけではない。だけどぼくはかれかの女らに、からかわれるんじゃないかと怖れていた。「おまえ何かヘンな宗教にハマッたんじゃないか」と言われないだろうか?などと、取り越し苦労としかいえないような思考回路になっていた。ぼくはセンシティヴすぎるのかもしれない。自分の好きなものを否定されたらどうしよう。「へえ、おまえそんなものに興味もってんの」と鼻で笑われないだろうか。笑われないにしても相手が心の中でぼくの思考や志向や嗜好を軽蔑してるかもしれない……ぼくはそんな邪気にまみれた人間なのだ!

だから言い訳めくが、ぼくにとって、他人に寛容であったり、やさしさを発揮したり、誰かが困ったときに手を差し伸べたりすることは、とても難しいことなんだ。

心の裡では思っている、やさしくあらねば、と。

だが、それをことばにすると、うそに感じてしまう。

そしてさらに、やさしさを行動に移すさいには、途方もないエネルギーを要す。

自分のなかに棲む、冷ややかに笑う魔物を、打破しなければならない。

それは弱虫の言い逃れにすぎない。わかってる。だけど、勇気が湧いてこない。

ぼくの行く手を阻む、好意の萌芽を邪魔だてする、もう一人のぼくがいるから。

 

そしてぼくはその日の晩、苦し紛れにこんなツイートを投函した。

「思い」と「ことば」と「行動」を、ていねいに結びつけることが大切だ。どれか一つだけでもいいんだけど、できれば三つをバランスよく統合したい。

やさしさを唱えるのは簡単なことだ。文字に表すのも難しくはない。だけど、やさしさを実行するには、自分の今までの人生を、もう一度洗いなおす必要があるように思うのです。

 

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これは今年の父の日にパートナーが贈ってくれたマドラスチェックの半袖シャツです。着心地いいので、たびたび洗濯しては毎日のように着ています。古着屋で買ったと言っていたけど、かの女はどうしてぼくの好みを熟知しているのだろう。

着ているとなんだか、やさしさに包まれたような気がする。お返しにぼくからかの女になにかを与えられるんだろうか。いずれにしても、自分がやさしさに包まれたいなら、先ずはやさしさを自然に表せるような精神力を培いたいと思う。だってほんとうにやさしい人は、おそらくこころに余裕のある人だから。