鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

Björk Greatest Hits ビョークのハイパーバラッド

 

ビョークのベスト盤を救出。518円也。

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内ジャケット写真。自らの身体を無機質なオブジェにみたてている。生と死はビョークの一貫したテーマだ。


Björk - Alarm Call

初来日は観にいった。名古屋クアトロのビョークを至近距離で目撃した。楽しんだけれど凄いとは思わなかった。元気のいい女のこだなの印象にとどまった。後々これほどの大物になるなんて想像もしなかった。

ヨーロッパでは既に大人気だった。ロンドンに行けばシュガーキューブズ公演のポスターが至る所に貼られ、スペインに行けば雑誌の表紙は悉く『デビュー』だった。ぼくが惹かれたほんとうの理由は日本人にも似たルックスだったかもしれない。⑴

冒頭の「ヒューマン・ビヘイビア」はタイトルを含めて衝撃だった。何というか過去のポップスが一掃されるような爽快さを覚えた。それまでに聞いたことのない響きを有している、そんな気持ちになったのは実に久しぶりだった。①

ティンパニのサンプリングによるドラムンベースは、しかしカール・オルフの特徴であるオスティナートのようだった。ワンノートだけれども途中で半音あがる構成は、マイルス五重奏団の「ソー・ホワット」のようだった。ビョークの音楽は斬新だけれども伝統の礎があった。ダンスフロア/ハウスの意匠が、それをかき消していたのだ。

ビョークの代表曲として「ハイパーバラッド」が挙げられる。第二作目の『ポスト』に収められていた。誰もが「崖から物を投げ捨てる女性=ビョーク」を連想する、喚起力があった。それがどれほど衝撃的だったことか。つい先日も誰かが「ハイパーバラッドからもう二十年も経つんだな」とつぶやいていたが、当時の鮮烈な印象を如実に物語っている。②

手に入れた『グレイテスト・ヒッツ』の選曲にさほど異存はない。強いて言えばやはり「イッツ・オー・ソー・クワイエット」は入れて欲しかった。ビョークのおきゃんな魅力が発揮されている。マンガのキャラクターみたいなところがこの娘にはある。


björk - it's oh so quiet
 (「地下鉄のザジ」みたいだな。)

それは洗練されたアメリカン・ショービジネスのスタイルではない。アメリカの側からしてみれば、エキゾチックな外連であっただろう。当時のテレビ番組を観ると、ビョークの自由奔放さに戸惑う客席の様子が窺える。

が、挑戦は一国に止まらなかった。僻地であるアイスランドから地球全体を丸ごと見渡せる広範な視野を携え、ビョークはポップスの常識から逸脱していった。次作『ホモジェニック』の世界観はますます拡大し、射程の距離は遥か彼方に及んだ。ビョークの思考は常に人間の営みそのものに向けられる。生物としてのヒトが人として生きる意味とは何か?を真摯に問うている。奇矯にみえる舞台衣装や、野生児めいたパフォーマンスの数々も、人体の奇妙な働きや生命の強さと儚さを謳うための装置であり、それゆえ観るものの感情に強く訴えるのだ。③

そして、聞き手は未踏の領域を切り拓いてゆくビョークの孤高な背中を切なげに追うしかなかった。ぼくは『ヴェスパタイン』の一曲、「ペイガン・ポエトリー」に表現の極北を感ずる。痛いプロモーション映像を観るまでもなく、音に触れるだけで誰も到達していない境地に達したのだと理解できる。あんな楽曲を創りだすのは凡人では到底不可能だ。過去二十年間、性差を問わず、世界中の大衆音楽の中で、ビョークは最も高い場所に位置している。極端な私見だが、かの女以上にクリエイティヴな表現を達成したモダンアーチストは一人もいない。④

ただ、独創性は親しみやすさから隔たる要因ともなる。凄い。けど近寄りがたい。宿命ともいえるポピュラリティーの際どいバランス。ビョークの音楽は、しばしばマンネリと評される。パッと聞いた感じだと「どれも同じよう」に聞こえるのだ。それは現代音楽に慣れていない耳には現代音楽が騒音にしか聞こえない状態にも似ている。ビョークの強靭な喉による独特の歌唱法〈発声・音程・音符の把握、間・抜き差し・押し引き〉は、真似しようともできない唯一無二の個性を持つ(なにしろバート・バカラックジョニ・ミッチェルをカヴァーしてもビョーク節が勝ってしまう)が、その刻印ゆえ、いかにソングクラフトやサウンドメイクに工夫を凝らしても、新境地と気づかれにくい。そういった意味では損している部分もある。⑤

しかしソロデビューから二十余年を経過し、相対的な位置づけが可能になった今日だからこそ、ビョークの打ち立てた業績の数々を改めて見直せる良い機会なのではないか。ぼくは先日、ロード(Lorde)を聴いていて、歌から編曲へのアプローチにビョークと共通する要素を感じたが、凡そビョーク以後のポピュラーシーンで、かの女に影響されていないアーチストが果たして居るだろうか?皆無ではないか。好む好まざるに関わらず、強烈に意識せざるを得るまい。⑵

そのことは音楽を聴けば分かる。ビョークの作ったアルバムに駄作はない。弛れた部分など微塵もない。どれもが高品質で、斬新なアイディアが試され、過去の焼き直しもなければ捨てカードもない。全身全霊をかけたハイテンション。その密度は否応なく聞き手に集中を要求するが、どこかに何か新たな発見を見出せた時、あなたは再びビョークの虜になるだろう。

ぼくは『グレイテスト・ヒッツ』に収められた初期の四枚に愛着があり、その後の変遷にさほど詳しくない。が、04年の『メダラ』は凄かった。楽器を殆ど使わず、声だけで構成された楽曲群。猫の旦那がいい味だしているプロモーションビデオをご覧あれ。

(削除されるかも、です。) 


Björk - Triumph Of A Heart (Official Music Video)

奇しくも二点ともスパイク・ジョーンズ監督の手によるクリップを選んでしまったが、こういうコミカルな演技もビョークの魅力なのだ。

 

ビョークをいくら礼賛しても讃えきれない、換言できないもどかしさでいっぱいだ。かの女が正当に、その音楽性をまともに論じられる日はいつだろう。今日も批評家の手の届かぬ遥かなる高みを、ビョークの「ハイパーバラッド」は軽々と通過してゆく。

 

 

 

【追記】

ビョークの東洋的な風貌は(西洋の)美の概念に揺さぶりをかけた。誰も言わないけど、ビョークが先に現れなければ、宮崎あおいは登場しなかったんじゃないかと思う。

 

⑵この四半世紀、すぐれた女性歌手は何人もいた。エイミー・ワインハウス、ベス・ギボンズ(ポーティスヘッド)、レディ・ガガ、アデル等々。しかしかの女たちとの決定的な違いは、ソングクラフトからアレンジメント、さらにはプロモーション展開にいたるまで基本的にはビョーク本人に決定権があるという点だ。かの女は決してコントロールフリークではない。が、表現の核がビョーク自身のアイデンティティに拠するものである以上、結果的に自らが責任を引き受けなくてはならない宿命にある。すべての表現は、かの女の体内で統合されたのち、外に放たれるのだ。

 

⑶参考までに、比較的ポピュラーなナンバーを何本か掲げておく。

 人間の)ふるまい、態度、行動、挙動、行儀、素行、生物の)行動、生物の)習性、機械などの)運転、動き

4種類のビート(32, 16, 8, 2)が織りなすパルスの複雑な模様にも注目したい。超高速のスローモーションといった趣がある。

シンセベースのシーケンスがキープしたまま、歌う旋律だけが半音上ってぶつかるあたりは、マイルス・デイヴィス『ジャック・ションソン』のようだ。類い稀な音感の持ち主である。

エウミール・デオダードによるストリングスアレンジメントが秀逸。ビョークは意外なほど伝統フォームに忠実である。「少年ビーナス」ではラーガを、「ハンター」ではリディア旋法を、きっかり守っている。

ビョークの歌声はホワイトノイズの轟音にも決して埋もれない。だからアレンジャー/エンジニアは思う存分に実験を試みられる。


Bjork - All Is Full Of Love (amazing live performance)

このライブの歌唱はスタジオ録音をはるかに凌駕する。

(閲覧注意)→ Bjork Pagan Poetry HQ

コード進行とメロディーの運びは、ロバート・ワイアットの“Alifib”や、ブルーナイルの“Let's Go Out Tonight”に通じる。下の記事に示した日本のテレビ(NEWS23)出演時の映像も併せてご覧ください。

レディオヘッドトム・ヨークとのデュエット。鉄橋のシーンは印象的だが、私的にはあまりおもしろくない楽曲。映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の挿入歌だったら法廷のシーンにおける「ミュージカル」がよりすぐれている。
björk - bachelorette

この曲なんか殆ど「ど演歌」に聞こえる。ニッポンの演歌もこれくらいアクレッシヴなアレンジメントを施してみたらどうだ?したらワールドワイドで展開できるかもよ。

 

まだいくらでも挙げられそうだが、飽きられたら台なしだので、ここらで止めておく。 

 

 

【追記:6/30】

 

【追記:12/23】

Bjorkが音楽業界におけるセクシズムを告発 | すべての女性が多様であれる世界を求めるメッセージ(全文訳) - FNMNL (フェノメナル)

 

【2017年に発表の最新作】

これは『ヴォルタ』以降では一番好きな作品かもしれない。ビョークの音楽の特徴である「圧倒される感」が少なく、木管楽器のような柔らかい音響は穏やかさと優しさに満ちており、いつまでも浸っていたくなる。