「誰にでもいい顔をしてはだめ」
ぼくがインターネットを始めたのはずいぶん遅くて、2007年だった。もちろん最初は見るだけ専門で、書いてみようだなんて思いもしなかった。「内田樹の研究室」「村野瀬怜奈の秘書課広報室」「The Journal(コメント欄がとくに楽しかった!)」「阿修羅」「きっこのブログ」「ネットゲリラ」などを頻繁に訪問していた。今では自分でも信じられないけど「ちきりんの日記」や「世に倦む日日」にもよく通ったものだ。とにかくいろんなブログを読んで、自分が好きだと思えるポジションを探していた。ふり返ってみれば、それらの記事を読むことで新聞やTVの報道に対する不満を解消していたんだ。でも楽しかったなあ。読むだけで満足していた。
やがて有名ブロガーたちが、挙ってツイッターに移動しはじめた。それに釣られてツイッターを読んでいるうち、なんだか自分にも書けそうだなと錯覚して、2010年11月にアカウントを開設した。ね、3年近くは読むだけだったんだ。というのも、ネットで中途半端に文章を書いていたら、肝心の創作ができなくなるんじゃないかと心配したので。ぼくは独りで小説をこつこつ書いていたから、着想を小出しに発しているうちにエネルギーを殺がれちゃうような気がしたんだね(その懸念は当たっていた)。
ま、いったん始めてしまうと歯止めが利かなくなって、今に至るわけですが……
いや、書きたいのは我が事ではなく、該当ブロガーのような存在について、です。
最初のうちはツイッターでもきっこやヨニウムをフォローしていた。けれども次第におもしろくなくなった。ブログのときのようにときめかなかった。何故だろう。きっと自分が書くのに夢中になったからだろうと思っていた(でも、そうじゃなかった。わずか140字に、書き手の意識が垣間見えたからなんだ)。
ぼくは有名アカウントのフォローをやめてみた。どうせかれらの情報は放っといても誰かがリツイートする。その代わり、自分が「おもしろいな」と思える人だけをフォローするようにした。するとツイッターの風景が少し変わって見えだした。風通しがよくなったように感じた。
今でも注目している著名アカウントはいくつかある。cdbさんとか小田嶋隆さんとか。だけど目に飛びこんできたら読むようにしている程度だな。たぶん批判したからだろうが、ヨニウムやちきりんからは(光栄なことに)ブロックされている。いずれにせよ、自分からアプローチはしないように決めている。
だけど最近ツイッターのほうで、ぼくはちょっと視野狭窄気味というか、情報の偏りすぎているきらいがあるので、自分の意見とはやや趣の違うリツイートを見つけたら、その先へ訪問するように心がけてみた。すると、ぼくの知らないところに結構いるわけだ、アルファ・ツイッタラーが。いちいちアカウント名は挙げないけれど、それぞれ相当な(万単位の)フォロワー数を誇っている。ツイッターはパラレルワールドだって常々思っているけれど、これほど多くの著名アカウントが存在するとは、想像もつかなかったな。
かれらはそれぞれに独自のスタイルがあるから十把ひとからげにはできないけれど、全体に社会に対しての眼差しが辛らつで、斜に構えている感じがする。こうしたら現状を改善できるんじゃないかというような具体的提言は殆どなく、「いやまったくひどいもんだね。でもそれが現実じゃん」という姿勢を崩さない。その上で、読む側の負担にならないような、軽妙洒脱な解説をしてみせる。「つまりはこういうことだよね?」という。どなたかが「深夜放送のハガキを投稿する常連さんみたい」だと評していたが、そういう手つきが文章ににじみ出ている。手馴れてくるんだな。情報にやたらと深入りせず、手際よく切り結ぶには、対象をせせら笑う身振りを採用するのが、いちばん妥当な方法だとして。
現代人が忙しい日常を乗り切るのに、気楽に読めて使い勝手のよいアルファ・ツイッタラーらの感想は、ラクになるための処方箋であり、日々を合理的に生きていくためのメソッドであるのかもしれない。だからこそ一万強のフォロワーがついているのだろう。
で、こうしたアルファの一群(と敢えて呼びます)は「ナルホドうまいこと言うね」の立ち位置をキープしつつ、現在の評判を積み重ねてきたのだろうけど、最近どうもかれらのスタンスに陰りがみえてきたような気がしてならない。てなこと言うと、おまえ過去を知らないくせして何を言うと罵声が飛んできそうだが、何ちょっと覗けば連中の思想信条なぞ透けて見えるさ。そのくらいの目は養っているつもりだよ。
要するに、確固たる定見はないわけ。ただ、当座の情報を手際よく処理しているだけ。だから時おり、おそろしく薄っぺらな認識を示す。政治にかんしてはもとより、社会福祉や基本的人権の分野などで、とくに脆さが露呈するのな。だって係る問題をまじめに考えていないし、気分や思いつきで喋っているのに等しいもん。
かれらアルファの共通項は、真剣な議論を疎むってところだ。マジに捉えられるのがいちばん苦手。だからはぐらかす。論点を巧みに逸らす。逃げようがないところまで追いこまれる前に撤退する。それはネット上の処世術として必要なことかもしれない。が、「なに熱くなってんの、加減を知らない連中は困るねぇ」といいながら問題をやり過ごしているうちに、自分が大きな流れの中に、あるいは枠の中に組みこまれていることへの自覚が足りない。
それをぼくは、アルファの限界と呼ぼう。
かれらは、どんな社会が到来しても、自分は独力で泳ぎきられると高をくくっている。よほど自信があるのだろう。世の不条理や生き辛さを訴える意見にはとことん冷淡だ。そんなの自分で解決すれば?って、うっかり口にしてしまいがち。けど、それがこの20年余で日本の風土に定着してしまった新自由主義の典型的なふるまいであることに、残念ながら気づいていない。
たぶんアルファたちは、自分が言いたいことを、好き放題にのたまえる今のポジションを失いたくないのだろう。それを根っこから覆す事態が起こるとは想定しない、いや予想したくないのだろう。で、畢竟こういう題目をくり返す破目になる。
「だって現状こうじゃん。それに従うしかないだろ!」
いつの間にかかれらアルファは、自分がかつて標的としていたマスメディアと同様の身振りをしている。自分の大事な支持を、フォロワー(数)を失いたくないために、現状維持で構わないんだと言い張るようになる。
悪いけど、それ欺瞞だから。
これほど釘を刺すのには理由がある。
自分もまた、その罠に捕らわれかねないと感じているからだ。アルファには程遠いけれども、今までに培ってきた信頼を損なわないよう、用心しながら発言している自分に不信感を抱いている。なにカッコつけてんだイワシ、と自身を蹴り飛ばしたくなっている。
認証アカウントだとか、パワーユーザーだとか、アルファには栄えある呼び名が冠せられている。だけど結局は一個人に過ぎない。複数の目による検討や精査を経たのち慎重に発信されるプロ仕様とは比較にならない(そのプロだってたまには炎上する)。しょせんアマチュアなのだ。それをプロよろしく巧くやってのけようと調子に乗っていたら、思わぬところで馬脚を現すことになる。
冒頭に示した「誰にでもいい顔をしてはだめ」は、ありきたりな警句だけど、ええカッコしに腐心するがあまり自己を見失っていないか、アルファ諸氏は今一度、八方美人な営業活動のあり方を省みるべきではなかろうか。
さて、ぼくも自分が自己弁護に感けていないかどうかを点検してみるか。
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(註)
世に倦む日日や、ちきりん以外に、Twitterでぼくをブロックしている有名アカウントをお教えしよう。
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