偶然撮れていたもの。最近はモノクロなキャッチアップ写真が多いから、カラフルに。
(しかしコレはいったい何を撮ったんだろう?)
山の麓の中古車展示場の幟は強風に音を立ててはためいていた。空の雲は低く、午後から気温は下がる一方だ。この調子では雪でも降りかねない。
さっきから黒いダブルのツイードコートを羽織った初老の紳士が、1台の車の前にずっとたたずんでいる。ストーブにあたってなりゆきを見ていた吾郎は、冷やかしじゃなさそうだなと独りごちながら、プレハブ小屋に毛が生えたような事務所から寒空の下に出ていった。
紳士に近づくと、さりげなさを装って声をかけた。
「今日はまた、一段と寒いですね」
ああ、凍えるねと紳士は頷いた。
「よろしかったら。中を開けましょうか」
「ああ、見せてもらおうかな」
吾郎はキーをかざしてドアロックを解除した。エンジンもかけてみましょうか、バッテリーあがってなきゃいいんだけどと言い訳めいたことを口にしながら、イグニッションキーを廻した。エンジンは鈍い音を発しながらボデーを震わせた。
「まだしっかりしてるよ。この頃のエンジンは頑丈に出来てっから」
「さっき通りかかった時に、偶然これを見つけましてね」
「ラシーンを、ですか?」
「うん。ぼくはこれが出たときに、すぐさま買ったんだ」
事情があって半年もしないうちに手放したんだがね、とは口にしなかった。
「ラシーン、根強い人気があるから。いまや希少価値があるってもんで」
「そうなの?」
「この時代に作られた他の車よりはね。どうです、パーツ取り換える箇所もいくつかありますが、10万キロ走って、この程度なら、悪くないと思いますよ」
「県内には、他に中古が3台あるね」
なんだこのじいさん、しっかり下調べしてるじゃないの。なにが偶然見つけてだよ。しらじらしいなあ、もっと素直になれよ……と吾郎は内心で舌打ちした。
「他ンとこのラシーン、ご覧になったんすか」
「ああ、北部の方の2台を。1台は黒塗りで、かなり改造が施されていた。もう1台は白。キロ数は10万を切っていた」
「へえ。値段はどれくらいでしたか」
「白い方はここの表示とほぼ同じだよ」
「でも、このワインレッド、なかなかいいでしょう?ラシーンだとベージュとか薄緑のような色が多いけど」
「そうだね。でも、いくぶん色あせた感じもする」
「そりゃまあ、20年近くも前に作られた車だからねえ……」
吾郎は、この紳士とのやりとりが、急に面倒くさくなってきた。なんとなく、気脈が通じない。日産ラシーンを欲しいのか欲しくないのか、さっぱりわからない。こういう煮えきらない態度の客が、いちばん対応しにくい。
と、自転車のキーッというブレーキ音が聞こえた。
女房の珠美が事務所に戻ってきたのを認めた吾郎は、大声で、おーいと呼びかけた。
「なあに?あたしいま買い物から戻ってきたとこなんよ」
「いいから替われ。おれ本部に呼ばれてんだ。三時までに来いって」
珠美は、わかったわよと吾郎に膨れっ面をしてみせたのち、とって返して紳士に愛想笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。ラシーンを、検討してらっしゃるんですか」
「うーん。買おうか買うまいか、迷っているんだ」
「かわいいですよね。スタイルが今風じゃなくて、個性的で」
「そうなんだ!」
紳士は突然に、珠美がびっくりするほどの大声をあげた。
「いまの車は、どれもこれも似たようなデザインばっかりだ。個性がない。行き交うクルマを眺めていても、つまらないよ」
「んー、でも軽にはけっこう、個性的なデザインあるかも。ラパンとかハスラーとか」
「ぼくには軽薄にみえるね」
「……ま、好みは人それぞれですからね。だったらなおさら、ラシーンの直線的なフォルムは、お客さんには魅力的ってことになりますね」
「きみは誘導が上手いね、旦那さんとちがって」
「商売ですから。買ってもらわなきゃあたしたち暮らしていけないもの」
ふたりは顔を見合わせて、ハハハ、と乾いた笑い声をあげた。
「ね。立ち話でもなんですから、事務所に入ってお話しません?」
珠美はキーを抜いてドアを閉めた。びょうと吹く風が紳士の耳を掠めていった。
粗茶ですが、と珠美は殊勝なことをいった。そんなせりふを口にするのはなぜだろう。この紳士の上品そうなたたずまいが、そう言わせるのだろうと彼女は思った。
「うん、美味い。なにせ外は凍えそうだったからね」
「ありがとうございます。
で、お客さん。ぶっちゃけ話そうか。うちに置いてあるラシーン、どうですか」
「うん。まだなんとも言えないな。ぼくは実はそれほど、車のことについて詳しくないんだ。いま乗っているトヨタのコンパクトカーも、ディーラーに言われるがまま購入したものだ。まだ5万キロしか走っていないし、悪い箇所はとくにないし。つまり……買い替える理由はないんだ」
「けど、なんだか気になるんでしょ、ラシーンのことが」
「ああ。発表されてすぐに購入したんだ。いまから20年前のことだ。当時でも珍しいあの四角張ったデザインに魅了されてね。でも、故あって手放さなきゃならなかった」
「それを後悔して?」
「後悔はしなかったけれどもね。いや、やはり未練だろうか」
「で、最近になって、やっぱり気になるってことですね」
「うん。ぼくはラシーンを手放してからしばらくは、車と無縁の暮らし向きだった。都内で仕事をしていた関係もあって、自動車が必需品ではなかった。だからその間の、ETCの普及やらハイブリッドの興隆やらそれに伴うエコカー減税などの一連には、とんと無知だったんだ」
「世紀末前後の十年がすっぽり抜け落ちているんですね」
「そうだ。しかしきみは調子を合わすのがうまいね。
郷里に戻ってきてから、車が生活の必需品になった。ぼくはずっと、車なんか走ればいい、所詮は足がわりだと思っていたんだが、最近になって、どうも気が変わってきて。うまく言えないんだが、つまりなんだろう、車検を通すたび、買い替えたくなる衝動が膨らんできたんだ。もっと自分に相応しい、自分のいちばん納得する車種に乗り換えたいと」
「それが、ラシーンだった」
「それでもね、中古車を欲しいなんて、思ってもいなかった。そこで新車をいくつか検討してみた。でも、ダメなんだ。まったく好きになれない、いまの日本の自家用車のデザインに」
「いまの車は流体力学っていうのかな、いかに空気抵抗をロスなくするかがデザインの根本にあるんだそうですよ。だから流線形になる」
「でも、シックじゃないんだ。ぶくぶくと膨張していて、美しくない。同じ曲線でも、いすゞ117クーペのような流麗さが、そこにはないんだ。ぼくの理想のクルマはボルボP1800es。子どものころに一度だけみて、窓だけ開くハッチバックに憧れた。あれを凌ぐしなやかなデザインはない」
珠美は内心ため息をついた、やれやれ、このエンスーじいさんのうんちくにつきあっていたら、日が暮れちゃいそうだわ、と。そこで現実的な話に戻そうとした。
「で、日産ラシーンなんだけど。ネットに載ってる情報だとね、いま日本中にある中古車は、おおよそ200台なんだよね(と、ディスプレーを指し示した)。
もちろん、こういった検索に引っかからない物件もあるだろうけど、そんなに多くはないの。そして、それぞれのデータを参照してみたらわかるけど、出荷時の状態で、純正のパーツで、しかもキロ数が6万以下のものなんて、もはや皆無なのよね。かりに前のオーナーが丁寧に乗っていたとしても、劣化や腐食は避けられようがないし、とくにラシーンの場合は、セルモーター・ラジエーター・各種電気系統・サーモスタット・前後ブレーキパッドなんかが摩耗していたり作動しなくなっていたりってケースが多いのね。まあ、ボデーの中身はサニー/パルサーだから、部品の交換にはさほど苦労はしないけど、問題は外装よ。たとえば窓の形状なんか特殊だから、あれに合うゴムパッキンのパーツなんか、けっこう探すの難しいと思うよ」
珠美は、一息で言いきったあと、紳士をグッと見据えた。
「つまりね。マジで買うんだったら、それなりの出費を覚悟しなさいってこと。今うちが掲示してるコミコミの額の、そうね倍くらいはかかるって見こんでおかないと――」
「こんなはずじゃなかった、って泣きをみることになる?」
「なんだ、わかってるじゃん」
「ああ、先日見に行った北部の中古車センターでも、つなぎを着たお兄さんに同じこと言われたよ。買った後でも、ずっとメンテが必要になります、って」
ちょっとふてくされたような紳士の口調に、珠美は思わず吹きだした。
「そのお兄さん、誠実だよ。そこのを買えばいいじゃん」
「ん。でも黒塗りなんだ。それにローライズというのかね、車高が低いんだな」
「ラシーンてさ、都会派のおしゃれな人だけじゃなくって、けっこうそっち系の評判もいいんだよね。いわゆる、ソフトヤンキー?」
「ああ、でもぼくは、改造を施しているのは、あまり好みじゃないんだ」
「わかるー。お客さんオサレだから、やんちゃな改造お嫌いでしょうね」
あたしもどっちかといえば、そっち系なんすけどネ……と思いつつ、紳士の困惑にも一定の理解を示す珠美だった。
おいしいお茶でした、と紳士は礼を言った。なんにもお構いできませんで、と珠美は返した。なんだか縁側で話す年寄りのようなやりとりだなと、珠美は苦笑した。
「さて、帰る前に、も一度ラシーンを開けてくれませんか」
「お安いご用です」
停めてある車のもとへ戻り、珠美はドアを開け、イグニッションキーを廻した。そのあいだ紳士は、車のまわりを仔細に点検していた。
「なるほどマフラーなんか、かなり腐食が進んでいるね」
「もちろんお買い上げの際には、新しいのと交換しますけど」
「あー、このスペアタイヤを支えるアームなんか、ひどく錆びているね」
「それは錆を落として、再塗装するしか道がないな」
エンジンルームを開けてほしいと紳士は頼んだ。珠美がボンネットを開くと、ああやっぱり痛んでいるなあと何度も頷いた。
「こいつは走らないんだよねえ。車重のわりにはパワー不足で、スタートがのろいし、燃費は悪くてリッター10キロに届かない。新車のときでさえ経済的な車ではなかったよ」
「でも、忘れられないんですよね」
「そうだ」
真剣な目をしてエンジンが震える様子を見つめている紳士。ラジエーターまわりがやはり錆びているとしきりに欠点を指摘する。だが、その横顔になんとも寂しげな翳りが見える。
ホントは欲しいんだ。だから粗さがしして、諦めようとしている……
珠美は、「シートに座ってみませんか」と紳士をうながした。彼を運転席に座らせると、自分は反対側のドアからまわりこんで助手席に座った。
「どうですか。ハンドルを握った感触は」
「うん。なつかしいね。それに、このチェックのシートも昔乗ってたのと同じものだ」
「最新式じゃないけど、CDプレーヤーもついていますよ」
「それはぼくには重要じゃない。第一、初期のラシーンではCDが聞けなかった」
余計なことを言ったかなと珠美はほぞを噛んだ。紳士はかまわず二の句を告げた。
「元の持ち主の気配は、なるべく感じたくないんだ。灰皿が汚れているね。煙草を吸っていたのだろう。そういうところも、気になる」
「お言葉ですが――」カチンときた珠美は、そこできっぱりと言い放った。
「それでしたら、中古をあたらず、新車を買ったほうがよくはありませんか。お客さんの望みはわかるけれども、正直いって、そんな状態のいい中古のラシーンなんて、日本中どこへいっても、もう存在しないと思うの。他の車よりもユーザーに親しまれた車種ですから、みんなぎりぎりまで手放さなかったと思う。もしも故障とか劣化が気になるんでしたら、東京や大阪、福岡にもあったかな、ラシーンを専門に扱うところもいくつかありますから、お値段は少し張るけれども、そこを当たってみてはどうかしら」
「しかし、過剰なレストアを、ぼくは好まないんだ」
「たしかにお店によっては、そういう側面もあります。だけど、ラシーン専門店で買ったほうが故障に悩まされる心配は少ないかもしれない。パーツも豊富に揃ってますからね。例えばこのスペアタイヤに被せるカバー、純正だと確か15,000円するんですよ。それ一つを取ってみても、ラシーンは、ラシーンに詳しい業者に委ねるのがいちばん正解かもしれない……」
うちみたいなところじゃなくて、と珠美はあやうく口にするところだった。
「うん……」
紳士はハンドルを握ったまま、その手に顎をのせて考え続けている。かれが買うか否か、珠美には分からない。だけどこんな風景をどこかでみたことある。助手席からみた男性の横顔が、忘れかけていた頃のことを、なぜだか思いださせる。
「ぼくは結局、浦島太郎なんだよな」
初老の紳士が萎れた風情で昔語りをはじめる。
「車を持つことが誇らしくて、ステイタスとなり得た時代。でもぼくは、豪華な装備も豊かな排気量も必要なかった。無駄なものがいっさい備わっていない、質実剛健で、長くつきあえる車が欲しかった。その念願をかなえたのが、日産ラシーンだった。
けれども幸せは、長く続かなかった。実際に所有してみると、いろんなところに不満を感じた。もう少しスピードはでないのかとか、取り回しが利かないなとか。身長の高いぼくには天井が低すぎたし、後部座席は足がつかえるほど狭かった。そういう欠点があったからかな、事情があって手放したときには、さほど辛くはなかったよ。
だけど今こうしてね、ハンドルを握っているとね。なぜだろうあのころの自分に、一瞬だけ戻ったような気がするんだよ。
おかしいだろ?自分でもみっともないなあとは思うよ。けれどもぼくが、ラシーンにいま一度乗りたいと思うのは、所有欲ではない、なにかたとえようのない感情なんだ」
「わかります」
珠美は頷いた。その気持ち、一緒じゃないけど分かります。車って、そういう部分があるよね。きわめてパーソナル?な領域に訴えかける何かが。でも、それがあるから、いい大人たちが、車が好きですきでたまんなくなるのよね。
「分かる……けどよく考えて。今度買い替えたら、あなたはこの車と毎日つきあうことになります。実際問題、故障したときとか車検のこととかを、ちゃんと計画しておいた方がいいです。思ったよりも調子が悪いから手放しちゃえ、じゃ、この子もかわいそうでしょ?
ね。もう少し調べてみてもいいんじゃないかな。今ある車の中にもきっと、あなたの好きになる車があるかもしれないし。それでもどうしてもダメだっていうんなら、もう一度いらしてください。そのときには、ラシーン売れちゃって、もうないかもしれないけれど」
珠美のすげない言いぐさに、紳士は次第に萎れていった。
「……どうして、今の車に、ぼくは興味が持てないんだろう?」
「それは、二十年前と今では、時代が違うからですよ」
「時代?」紳士は口の端をゆがめ、こめかみに指をあて、皮相な笑みを浮かべた。
「そうか時代か。ハッ、変わったんだよなあ、何もかも。ぼくは旧い価値観や美意識を更新できないまま、今に至っているんだ!」
いささか芝居がかっているなあと思いつつ、珠美は努めて落ち着き払った。
「さあ、もうエンジン停めて。いつまでもつけっぱなしにしないで」
紳士が頷いてキーをまわすと、エンジンは唸りをあげて静まった。
キーを寄越してくださいと珠美はいい、紳士は黙って鍵を手渡した。
「で、そこまで話しといて、そのまま帰しちゃったの?おまえ、なにやってたんだよ」
「うーん、なんだかかわいそうになっちゃって」
「なにが。正当な商談だぜ。騙してるわけじゃないんだ。どこに憐れむ要素があるよ」
なに言ってんのと珠美は憤った。吾郎こそなによ、面倒くさくなって途中で話をほっ放りだしちゃったくせして。どうせ本部に行くとか適当な口実で、どこかで油売ってたのに決まっているわ。
「あたしは、見込みあると思ってるよ。あのシブい紳士、きっとまた来るわ」
「また来たとしても、おまえ目当てだろうさ。珠美はどうも、客の話を長々と聞いちゃう傾向があるもんな。しかし爺さまのノスタルジーに、実際よくつきあってられっな」
「ノスタルジー、ばかりじゃないよ。車と人との間には、それぞれに深ーい歴史ってもんがあるのよ。そこを理解してあげなきゃ、中古車販売なんてやってられないじゃないの。吾郎ももう少し考えなくちゃね、でないと今月の成果ゼロ、目標達成しないよ!」
「なんだとこの……」
腕を振り上げるしぐさの吾郎をサッとかわして、珠美は保育所にお迎えいってくるわとママチャリに飛び乗り、幟はためく寒空の下、ヘッドライトが行き交う薄暮の街道を猛スピードで突っ走っていった。
【参考】
ラシーン ラシーン インデックス 日産・ラシーン - Wikipedia
【自動車CM】 RASHEEN LUCINO CEFIRO PRESEA CURREN VIVIO - YouTube
(この秀逸なコマーシャルソングは、あがた森魚さん)
【お断り】
※この稿は、初め上に掲げた写真があって、次に「偶然の赤」というお題を作り、それから心象風景を織りこんだエッセイ風を書こうとたくらんだものですが、なぜだか日産ラシーンにまつわる人情話になってしまいました。なお、半分くらいは実話(笑)です。
【もう一つの書き出し】
しかし色っていうのは大切ですね。かくいう『鰯の独白』にしても、ボウイ関連の記事は黒文字で統一しましたが、むかしの記事をのぞいてみると、いや下品にいろんな色の文字を使っておりましたですね。文字は一記事につき二色程度にとどめたいものですな。
そうだ、文字色が30色も選べるのだから、フォントも30種類くらいは揃えてほしいものだぜ、はてなブログ!
少なくとも明朝体は欲しい。あと欲をいえば縦書きも……(以下略)
【参考までに……】