鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

不動岩 県北紀行⑴

 
 シルバーウィークの4連休、中日に一日だけ休みをもらった。外はいい天気だ。家にいて部屋にこもっているのも勿体ない。ぼくはクルマを走らせ、ラジオの音量をあげた。NHK-FMで「プログレ三昧」という番組が始まっている。10時間ぶっ通しでプログレッシヴロックをかけるという奇特なプログラムで、4回目にして初めて聞いてみた。好きな曲が矢継ぎ早にかかるのは嬉しいけれど、ゲストのスターレス高嶋(兄)と岩本晃市郎の放言にだんだん腹が立ってきた。それが芸風なのかはしらんが、ずいぶん傲岸な物言いである。でも、そのハラスメントというべき差別意識と優越感の入れ混じったトークを面白がるのが、この「三昧」を楽しむ流儀であるらしい。おれはちょっとセンシティヴに偏りすぎるんじゃないか、無意識に放たれたことばに反応しすぎなんじゃないかと、自分自身にちょっとうんざりしながら、当て所なくクルマを転がし続けた。
 行く先は自然と県北に向かっていた。田畑の畔に咲き乱れるヒガンバナ。そうか時節はお彼岸だった。そしてその、赤い花の向こうにうっすらと、不動岩の威容が現れてきたのである。
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 不動岩は、山鹿市(旧鹿本町)の北東、蒲生山の斜面にそそり立つ巨石である。ぼくはその、屹立した男根にも似た奇怪な形状が、前々から気になってしょうがなかった。不動岩のふもとに行ってみよう。できるだけ近くに。そう決心したぼくは、目測と勘を頼りに、蒲生山のふもとから、細い山道にハンドルを切った。
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 不動岩のふもとには、みかん畑が広がっており、青い実がわずかに色づきはじめた間を縫うようにして、狭い道が走っている(あとで人から聞いた話だと、この山の麓のミカンは超がつく高級品だとのこと)。車幅ぎりぎりで、コンクリートの斜面にはところどころ亀裂が走っている。ハンドルを切りそこなったらまっさかさまだなと、ぼくはヒヤヒヤながら、不動岩のすぐ傍の、狭い駐車場に到着した。
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 ついに岩のふもとまでたどり着いた。感慨ひとしおと言いたいところだが、下から見上げても、あまりにも巨大なので、いまいち全貌がつかめない。「不動明王」と記された鳥居をくぐると、小さな祠が先日の台風で粉々になっていた。ぼくは岩の傍まで近寄り、変はんれい岩(礫岩)のざらざらした肌をさすりながら、おい、このまま帰っていいのか? と自問自答した。
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 岩はなにも答えない。ただ黙してそこに在るだけ。ぼくは100mと記された岩の根回りを一周したくなった。80mあるという岩の頂上のさらに上から覗きこみたくなった。征服欲とは少し種類は違うが、なぜだかムキになっていた。そのとき、ふと茂みに目を向けると、散歩コースと書かれた札が立ててある。この小径から、中不動の展望台、つまりこの岩の後ろにそびえる、二つ目の岩のてっぺんまで登れるようだ。よし、登ってやろうじゃないかと、ぼくは茂みに分け入った。
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 しかしぼくは山道を、少し甘く見すぎていたようだ。五分も歩かぬうちに、足の運びが急に重くなり、息が切れはじめた。階段状に設えてはあるものの、思ったよりも勾配が急なのだ。莫迦な、これしきの登りで息があがっちまうなんてと、日ごろの不摂生に呪詛を唱えた。
 さっききちんと祠にお参りしなかったのがマズかったかな、さざれ石の巌となりて、に起立しなかったおれは、不敬そのものだもんな。この岩山は山伏の修験場だったらしいが、そんな神聖な場所に、何の備えもなく入るのは間違いだったのかな?
 口の中がからからになり、耳の奥がキーンと鳴る。目が翳み、手足の先がジンジン痺れる。一段を踏むのさえ、ひどく億劫だ。ぼくは何度も歩を止め、雑木に囲まれた斜面を見渡す。このへんで引き返そうかと、つい挫けそうになるが、その弱気を振り払い、コノヤローと唇を噛んで、また一歩を踏み出す。
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 20分ほど歩いただろうか? 次第に細くなっていった小径は、ついに道の形を失い、目の前には礫岩の斜面だけが、ごろんと横たわっている。見上げるとすぐそこに、頂上があるように思える。けれど頂に至るには、この岩を登らなければならない。ぼくは既に汗びっしょりだったが、ここに至って、違う種類の汗が背中を伝った。岩から転落すれば、それこそまっさかさまだ。命の保障は、ない。
 
 躊躇しているいとまはなかった。一か八か、登るしかなかった。なにを大げさな、と思われるかもしれないが、そのときのぼくは、そこまで追い詰められた心境だった。
 出っ張りを掴み、足場を確かめ、慎重に慎重に、膨らんだ岩の面をよじ登った。血の染みこんだような赤紫色の礫岩はもろく、足をかけた部分が、パラパラと崩れ落ちていく。こんなときになんだが、ぼくは「クレヨンしんちゃん」の作者のことを思いだしていた。白井義人氏は荒船山の頂上から転落したんだった。あの険しい山容をぼくは見たことがある。草津に行く途中の、吾妻線の車窓からだった……。
 
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 ようやく頂に着いた。が、情けないことにぼくは立ち上がれなかった。岩のくぼみに腰を下ろすと、そのままへたりこみ、仰向けに横たわった。菊池川流域の景色を眺めて楽しむ余裕なんてなかった。ただ、ひとつの目標はなんとか達成した。ぼくはあえぎながら、青くさえ渡る空を見あげた。けれども、そこで考えていたのは、崇高なことでもなんでもなく、ある一つのブログ、ぼくと同じ「はてな」を使ったブログについてのことだった。
「自意識をひっぱたきたい」と題されたそのブログを、ぼくはたびたび訪問していた。そして、最近投稿された記事に、ぼくは文字通り頭をひっぱたかれた。それは性嫌悪についての長い論考であると同時に、個人的体験を告白した内容のものだった。それを読んだぼくは、はたしてこれほどの文章が自分に書けるだろうかと狼狽えてしまった。内容について、ネット上でさまざまな意見が飛び交っていた。ぼくはツイッターで「これは青年にしかかけない、中年が書いてはならない種類のものである」と、言いわけめいたことを書いた。だけど翌日になっても心のどこかに、しこりのようなものが残っていた。わだかまりの解消されないまま、小説でもないのに、途中まで太宰治だったのが後半で村上春樹になってしまったと、批判めいたこともツイッターに書いた。ブログ主のかれが目にしたかどうかはわからない。が、書かなくてもいいような、つまらない感想だった。
 ぼくは、安保関連法案をめぐる一連の事柄を考えることから、いったん離れたいと思っていた。今日一日は頭の中をからっぽにしたい、と願っていた。ほんとうに、分からなくなってきたのだ。国会前の抗議活動の是非(敗北を総括するか否か等)についてや、共産党の提案による野党の協力体制についてや、国勢調査マイナンバー制度による国民投票への橋頭堡や、そういったもろもろから逃れようと、「プログレ三昧」に浸り、のんきなドライブにうつつを抜かしていた。そしてそれは、不動岩に登るという思いつきで、達成する予定だった。ところが、思わぬ伏兵に脇から刺されてしまった。
《ぼくは、これからいったい、なにを書けばいいんだろう?》
 もしも、ほんとうに切実なことを、書かなければいけないような、抜き差しならない事態に陥ったら、ぼくはなにを差し出せばいいのだろう。その供物が自分にとって誠実なものであっても、読む人のどこに触れるかは、まったく予測不可能なものなのだ。しかもそれが、いくら自覚の上で書いたにせよ、あるいは他愛ない種類での、お気楽な戯言に過ぎなかったとしても、無意識な領域で暴力性を帯びる場合だって、じゅうぶんにあり得る。さっきぼくが、ラジオ放送のフリートークに、思い上がった特権意識を発見してしまったように……。
 爽やかでなければならない山頂での感慨は、このように恐ろしく低レヴェルな、くそくだらない、偏狭で、屈折した感情のとぐろを巻いたものになった。そこでぼくは、いつまでも悔恨に浸っていても詮ないやと、岩肌に這いつくばったまま、スマフォをジーパンのポケットから取り出し、おずおずと、さっき見あげた巨根の岩を撮影しようとした。が、ここ中不動から見下ろした岩の頭は、台風でなぎ倒された雑木にさえぎられ、あとで見てみると上に掲げたような、しまらない姿しか捉えられなかった。あたりまえだ、岩の先端に立つこともできなかった怯懦が、反映された結果なのだから。
 ぼくはふり返って蒲生山の山頂に目を凝らした。たかが389mの小高い山である、三の岩の山影が、ぼくにはとうてい征服不可能な、巨大な山脈のように映った。
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 萎えた足を懸命に踏ん張りながら、さっき来た細道を恐るおそるおりていくと、大学生ぐらいの男女数人のグループが、遊歩道を登ってくるのが見えた。折り返しの場所で登りきるのを待っていると、先頭の男性が、「こんにちは」と朗らかそうに挨拶した。
「思ったよりもハードだったよ」とぼくが弱音を洩らすと、
「みたいですね。ちょっと甘く見すぎてたかな?」と笑いながら、かれ・かの女らは、軽やかな足どりで、次々にすれ違っていくのだった。
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 復路も厄介だった。足に踏ん張りが利かないというのに、来る前とは裏腹に対向車がやたらと多く、そのたびにぼくはリアにギアを入れ、幅員の広い所まで慎重にバックしながら、離合するのだった。
 だけど、往路のときに感じた、路肩から落ちるんじゃないかといった不安は、ずいぶん解消されていた。
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 岐路に「鞠智城」 の看板を見かけた。どうせあとは帰り道だからと、少し遠回りして菊池方面に向かった。発掘された遺構を整備し、当時の建物を復元した公園だ。ぼくは高床式倉庫から八角形の楼を撮影した。どこからどう撮っても、じつに構図がさまになる。けれどもたいしておもしろくはなかった。資料館が開いていれば、むかし遺跡を発掘していた身だもの、それなりに楽しめたんだろうが、夕刻五時を回っていたため、施設はみな閉館していた。
 説明するのが億劫になってきたので、興味のあるかたはリンクをご参照ください。
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  物産館の前のベンチで、しばらくボケッと座っていたら、五歳くらいの男の子が、階段の手すりを滑り台にして遊んでいた。何度もなんども、飽きもせずに、滑る遊びをやめようとしない。ほんとうに楽しそうだった。いつまでやってんのぉと呆れている母親に、ひとこと断って、一枚撮らせてもらった。
 クルマに戻ってエンジンをかけると、ジェネシスの『怪奇骨董音楽箱』のB面1曲目、「セヴン・ストーンズGENESIS - SEVEN STONES - YouTube がかかった。
《は? 7つの石かよ……》
 意表をつかれたが、そこでようやくぼくは、いつもの自分を取り戻せた、
 ような気がした。