鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

内牧:小一時間のタイムスリップ

 
今日、阿蘇市の親戚のところへ挨拶回りに行った帰り、内牧に寄ってみた。
昭和のたたずまいが良い塩梅で残っている、ひなびた感じの温泉街である。
f:id:kp4323w3255b5t267:20150827161303j:image 「いつまでも あると思うな 火の見櫓」
よく、行楽地に逗留してみたけれども、なんだかなーと思うことありません?
内牧温泉はまさにそんな気分を味わえる、格好の観光スポットだと思います。

f:id:kp4323w3255b5t267:20150827161217j:image いちばん賑やかしい交差点。

あんまりレトロ調だと、かえってシラけちゃうよね、川越とか豊後高田とか。
その点、内牧は適当に煤けていて、わざとらしさのないのが丁度いいンです。
f:id:kp4323w3255b5t267:20150827161244j:image こういう店の構えを見ると嬉しくなってしまう。
曲がり角の多さも、蛇行した川を渡る橋のアーチも、いい湯加減なのだなあ。
つげ義春の『~の犯罪』のヨシボーよろしく、みんなに教えてあげたくなる。
f:id:kp4323w3255b5t267:20150827161324j:image なぜだろう公園の濠に小舟が繋留されている。
 
 
ついさっき「すべての問題は『老後の不安』に尽きる」という、おそろしいタイトルのブログを読んだんだ。すると、こんな一行が目に留まった。
思うに任せぬ自分の身体の絶え間ない苦痛が続き、あらゆる快適さや快楽から「見放された」精神がそれでも長く続くのである。それはすなわち「地獄」というよりほかはない、、、、というのが「老後」の実相である。岩下俊三のブログ : すべての問題は「老後の不安」に尽きる より
ぼくは、大きな窓から阿蘇五岳を望める結構なロケーションの座席がある、ベーカリー「ゲンキ」で、この達文を読みながら、なるほど確かに快楽の悦びは、放物線を描きながらも漸次衰えていくものだよなあと頷きつつ、150円の大辛カレー入りナンを頬張って、ほろ苦いコーヒーを味わった。マイケル・ジャクソンのナンバーをボサノヴァにアレンジしたBGMが流れている快適な空間で(じつは、内牧には、コ洒落た店舗も少なくないのです)。
旨いとか不味いとか熱心に追求するほうではなかったし、外食店めぐりにもあまり関心はなかったが、この歳になってみると、美味いものを食べた記憶よりも不味いものを食べたときの記憶のほうが、勝っていることに驚く。
あれはもう十年前か、家族旅行で草津温泉に泊まったおりに、土産物屋の立ち並ぶ狭い路地の、ひそりと開いた食堂に入って、ぼくは卵とじカツ丼を注文したのだが、いや、その不味かったこと、いまでもその味覚が瞬く間によみがえるくらいだ。食堂の壁の色(薄緑のモルタルだった!)や、テーブルクロス(赤と白のギンガムチェックに黄ばんだ透明のビニールが張ってあった!)や、白いタイル張りの厨房からプラスチック製の箸入れまで、イヤになるほど鮮明に覚えている。そのとき赤い小型のテレビに映っていた番組が「メレンゲの気持ち」で、ゲストが何故かギタリストの押尾コータローだったことまで覚えている。記憶のすべてが、あの不味かったカツ丼の味とセットになっているのだ。
おそらく内牧のどこかに、草津のそれと似た、やる気のなさそうな食堂があるに違いない。小一時間ほど散歩して、それとなく目星はつけておいた、次に阿蘇に来たときにはトライするつもりだ。
そして、その不味かった(であろう)味覚の反すうを老後の密やかな楽しみとしよう。
 (老いの境地は、そんな甘いもんじゃないのだろうけれども……)
 
【さらに追想】
あー阿蘇といえば、一の宮町の映画館で『ガメラ』を観た帰りに、いとこと一緒に阿蘇神社の門前にある食堂に入って、ラーメンを食べたのだった。あれも麺がのびていて不味かったなあ。そーだ、ボーイさんが当時の流行歌手にそっくりだったから、「三田明がいる!」と何度もわめいて、いとこから「黙って食え!」ってドヤされたことまで思いだしたぞ。 
 註:この「いとこ」は、『阿蘇のふところで』kp4323w3255b5t267.hatenablog.com のいとこです。 『パラフレーズkp4323w3255b5t267.hatenablog.com のいとこではありません。