鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ワレリアさん

 

 今日は母と買い物に行った。カシマにあるショッピングモールに行ってみたいと言うんで、クマモトの北の外れから南の端までクルマを走らせた。

 道すがら、例のムラヴィンスキーレニングラード響(※二つ前の記事を参照のこと)を低い音量で流してたんだけど、しばらくしたら母が、あらこの曲知ってるわよ、聞いたことあるものと、とつぜん言いだした。
「子どものころに、よく流れてた。お父さんは音楽が好きで、家には蓄音器とレコードが何十枚もあった。そのなかにコレもあった。うん、たしかに聞いた」
「これはチャイコフスキー交響曲だよ。第四番」
「そう。お父さんゴビ砂漠に野菜を植えるんだと宣言して、故郷のタマナを離れて満州に渡った。
 満州にはロシアの人たちがおおぜい住んでいて、私が通っていた女子校にも、クラスメートがいたわ。
 ワレリアさんっていうね、とても仲のよい友だちがいた。この音楽を聴いていると、かの女のことを思いだす」
「ワレリアさんの家族はむかしから新京(長春)に住んでたの?」
「いや、もとはモスクワ。ワレリアさんのお父さまは満鉄に勤めていた。技術者だったのよ。もとは位の高い家柄だったらしい。赤軍から逃れてきたのよね。
 ワレリアさんは、私と身長が同じくらいで、まっ青な瞳が印象的だった。私といちばん仲良しだったし、私はそれが自慢だったな。よく一緒に新京の街を歩いたし、ワレリアさんのお宅に何度かお邪魔したこともある。大きな暖炉とペチカがあった。私が帰る段になると、いつも大きな焼き立てのパンを、お母さまが持たせてくれるの
「ロシアのパンだね」
「香ばしくて、美味しかった。
 ワレリアさんは賢くて、勉強もよくできたけど、かの女の一家は途中で奉天瀋陽)に移ったから、新京の女子大には進まなかった。一緒に通おうねって約束していたんだけど。
 まあ、そのころになると、戦局が悪化していたせいか、ある日とつぜん、大学が封鎖されていて。それっきり通えなくなった。だから私の扱いは大卒じゃないのよ。京都か奈良の女子大に編入する資格があったはずだけど、そんなの引き揚げた後には考えられないものね。生きるのに精いっぱいで」
「ワレリアさんとは、それっきり?」
「うん。音沙汰なし。手紙の宛先も分からないし。そもそも満州に住んでいたかどうかも定かではないし。
 で、大学の寮から汽車に乗って自宅に戻っているとき、客車に回転式の機関銃を持ったソヴィエトの兵士がどかどか踏みこんできて、『ダバイ!』と大声で喚くのよ、銃の先を突きつけて」
(何度も聞いた話だけど、続ける)
「私は恐ろしくって、ガタガタ震えながら、膝の上にトランクを乗せて、覆いかぶさっていたの。奪われるもんかって。
 だけど、そう頑張っていたら、隣りの乗客が私の肩をトントンと叩いて。
『お嬢さん、トランクを開けなさい。そうしないと、ロシアの兵隊は納得しないよ。私たち日本人の乗客が、ころされるかもしれない』と。
 私は観念して、トランクを開けた。中には私の着物があった。赤軍の兵士たちは着物を奪うと、意気揚々と、笑いながら客車を出ていって、汽車はふたたびゴトンゴトンと動き始めた。
 すると周りの乗客が慰めてくれた。『お嬢さん、あなたのおかげで私たちは命拾いしました』って。だけど私は悔しかった。涙が溢れて止まらなかった
「ロシアの音楽、とめようか?」
「ううん。音楽はいいのよ。お父さんはロシアびいきだったし、私もロシアのことを嫌いじゃない。ただ、あの日の出来事は忘れられない。引き揚げのときの辛さと同じくらい。だから、赤軍は憎い。いくら理想的なことを言ってても、共産主義を好きにはなれない。
 もう、ソヴィエト連邦はなくなったのだから、こんなこと言っても詮ないけれどね」
 認知症が進行しつつある母が、これほど情熱的に語るとは、ぼくには思いもよらなかった。こうして、母の話す内容を思い出しながら書きだしていても、その記憶の饒舌さに圧倒される。
 母の話は、引き揚げたのちから職場を退職するまで、まるで大河ドラマのごとく延々と続くのだが、そのことは触れないでおこう。
 ただ、いずれにせよ、音楽が記憶を引き出す呼び水となったのだ。チャイコフスキーが流れているあいだ、母は幾度も、ワレリアさんを思いだすわと口にしては懐かしんでいた。それはまるで、同じ主題を何度もくり返す、三大交響曲のようだった。
 
 f:id:kp4323w3255b5t267:20150707222411j:image これはアナベル。
  
 母はたぶん、チャイコフスキーを聴いた瞬間に、ワレリアさんと親しかった十七歳のころに戻っていたに違いない。
 
 
 
(7月7日、iPhoneより投稿)