映画には、明るくない。
以前住んでいた野老の図書館の視聴覚室で、レーザーディスクのライブラリーを洋・邦問わずかたっぱしから観たので、古典とされる映画には一通り目を通したけれど、系統的な知識もなければ、情熱もない。1990年代以降の映画となると、まったく詳しくない。いまも山ほど映画が公開されているけれど、映画館に行くことも滅多にない。コーエン兄弟くらいは抑えておきたいところだと思いつつも、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス/名もなき男の歌』しか観ていない。シネコンで最後に観たのは、『かぐや姫の物語』だった。
今回のエントリは、そんなヤツの戯言である。どうぞ笑いとばしていただきたい。
数年前、シナリオライター志望の「掘り師」サイトー・マサさん*に本をもらった。更衣室に置かれていたのを興味津々とながめていたら、持ち主のマサさんから「読みますか?」と訊かれたのである。
「よかったらイワシさんにあげますよ。おれもう一冊、持ってますから」
その本は、こんなタイトルだった。
『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』
あらかじめ16枚のシート(短冊)を用意し、そこにエピソードを書きいれ、ひとつのシークエンスに必要な要素をあてはめ、しっかりした土台の脚本を仕上げてゆく。具体的な作業を丁寧に解説した、シナリオ・クラフトの教則本である。きわめて実践的で、たくさんのノウハウが詰まった良書だと思う。が、ぜんぶを通して読んだ感想は、おれは脚本家にはなれそうにもないなーといった嘆息まじりのものだった。
三幕構成ということばを知ったのも、この本においてだった。というよりも「映画の脚本の構成は三幕で構成される」を提唱しているのが、著者シド・フィールドその人であるからだ。詳しくはウィキペディアを参照していただきたい。
玉石混淆のウィキペディアだけども、このページは詳細な「玉」だ。
三幕構成(Three-act structure)では、ストーリーは3つの幕 (部分) に分かれる。それぞれの幕は設定 (Set-up)、対立 (Confrontation)、解決 (Resolution) の役割を持つ。3つの幕の比は1:2:1である。
だ、そうです。ちなみに前述の本では、Confrontationを「葛藤」と訳していたが、それがひどく印象に残った。すなわち、物語の主人公は、さまざまな葛藤を経験し、そういった過程を経て解決(物語の結末)へといたる、んだそうだ。
葛藤……してないんじゃないの?
ぼくは最近、物語性の高いメディアを避ける傾向にある。映画はもちろん、TVドラマもそう、大衆小説もしかり、長編マンガでさえも。あまり観たくないし、読みたくないのだ。娯楽だと思えないでいる。
たんなる老化現象、好奇心の減少だとは思う。人のこしらえた「葛藤」にはあまり係わりたくない。そんな態度で臨むと、おもしろおかしく表されたものさえ、愉快ではなくなる。むしろ苦痛でしかない。
なんでも三幕構成は、映画の脚本における常識的な作法なんだそうで、これを踏まえていないような脚本はハリウッドでは端から相手にされないのだ、という(ホントかしらん?)。あーでも、そうなんだろうなあという気がする。2時間という枠内に物語を要領よく収め、観客を退屈させずに、主人公に共感させ、結末を納得させるためには、ある種のフォーミュラが、どうしたって必要になるだろう。
まあしかし、三幕構成なんて、ギリシア悲劇のむかしからある手法だ。オペラもたいがい三幕からなりたっているし、日本の謡曲だって「序・破・急」が基本だ。さらにいうなら、小津安二郎の映画などは、三度の法則でなりたっている。同じカットが三度でてくるし、同じギャグが三度くり返される。そういう「お約束」の例をいちいち挙げていったらきりがない。連続テレビドラマにも視聴者の興味を惹きつけるために確立された手法があるだろうし。だから、ハリウッドスタイルの脚本の指南書のみを、ことさら槍玉にあげる必要はないのだが。
だがねえ。
ぼく、はっきりいって、もうそんなの欲しくないんだよ。
創り手は、観る側に、感動を与えようとする。
そのために、脚本に、さまざまな工夫を施す。
その工程が最近、露骨に表れすぎてやしないか。
なんだか、過剰に、ドラマ仕立てになっている。
それはドラマだけじゃなく、マスメディアが、そして一般市民の日常までもが。
なんだか、「設定 → 葛藤 → 解決」のサイクルにすっぽりと収納されているような気がしてならない。
そのテンプレートにあてはめることによって日々の作業やら家事やらがさくさくと滞りなく進んでいく。
そのコンフリクトをかぎりなく寡少にすることによって人はスムースな社会生活を営められる。
だがそのシナリオからこぼれ落ちた予測不能な逸脱を自分も他人も許せなくなってきている。
この日本という社会が巨大な劇場と化しており人々はたえず他者という観客を意識せざるを得なくなっている。
だから、
ぼくは2時間の枠内に3つの幕を用意した「物語」を楽しめなくなってきている。
どうしても、その「構成」を意識してしまうがゆえに、
どうしても、その「構造」から逃れるすべを考えてしまうがゆえに、
他人のこしらえた「葛藤」を無邪気に愉しめなくなってしまったのである。
昨日は、3月11日だった。
4年前のことを、よもや忘れちゃいまい?
だけど記憶は、いやおうなく「風化」していく。
忘れないでいるために、ずっと覚えているために。
私たちは記憶にさまざまな意匠を凝らし、忘却に歯止めをかけようとする。
だけどそのデザインが過剰だと、記憶そのものが別の色彩を帯びてくる。
ぼくは昨日、こんなツイートを投稿した。
① 現実を「物語」として回収してはならない。いまなお続く問題や営みを、三幕構成の枠内に流しこむのは。
② 3.11は「悲劇」ではなく「感動するお話」でもない。ましてやドラマを仕立てあげて一丁あがりとする事柄ではない。そこに心の交流や、励ましあい助けあう場面があったにせよ、そこだけをクローズアップして「解決」へと安易に導いてはならない。ところが日本は、国が率先して物語化に血道をあげる。
③ 問題は何一つ解決してはいないのだ。映画のシナリオのように、観客が納得のゆく結末を用意するのは、4年前の記憶を希釈する行為に他ならない。
国家は、マスメディアは、そして国策に加担するクリエーターらは、積極的に「復興」の旗印を掲げる。その巨大なモニュメントは、被災地にではなく、首都に造られる。記憶は書き換えられる、あいまいな色彩で、懐かしく親しげなふうを装って。
ぼくはその、国を挙げての「神話づくり」に加担したくない。
2015年3月11日の夕空。奇妙な雲筋。
ごめん、映画のシナリオのことなんてまったくわかってないくせに、自分で自分の首をしめるようなことを、うだうだと書き連ねてしまった。
得意の音楽にすればよかったな、こんなふうに。
- ジェー・ポップのシングルはたいてい4分半だ。
- 大半は、Aメロ(16小節)-Bメロ(8小節)-Cサビ(16小節)という構成だ。
- イントロからCサビのアタマに到達するのは、ぴったり1分だ。
こんど計ってみてごらん。たいていそうなっているから。
ここ4半世紀、うわべの編曲は時代の移ろいとともに変わっても、その構成だけはちっとも変わっていないんだ。
怖ろしいとは思わないか?