鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

12月は枯葉の季節

 

 12月は枯葉の季節。落葉は絶えず四方に散らばり、地面を覆いつくさんばかり。いくら掃いても拾っても、きりがないほど降り積もる。清掃の労を嘲笑うかのように、乾いた風が吹くたびに、一か所に集積した落葉は吹き飛ばされ、きれいに掃いた小径にも、あらたな枯葉が舞い落ちる。

 自然は無情だなあと思う反面、自然のままでもいいじゃんと思ってしまう。葉っぱのじゅうたん、すてきじゃないか。落葉の上を歩くとふわふわして愉快だし、思いきって寝転んでみれば、心地よいことうけあいだ。大の字になって仰向けになれば、抜けるような青い空が、はてしなく広がっているだろう。

 

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 The Beatles- Because - YouTube 

 Because the sky is blue, it makes me cry   Because the sky is blue......

 

 そういえば数年前、遺跡発掘の仕事をしていて、川崎のはずれにある丘陵地帯を、何日か調査したことがあった。ちょうど季節は今ごろだった。小高い丘の上に縄文時代の遺構があって、住居の跡やら落とし穴やら、竹林の底に眠っていたのだ。

 昼休みにぼくは丘の頂上までいって、鉄塔のふもとに空地を見つけた。そこだけ円形の舞台のようで、陽のひかりがまんべんなく降りそそいでいた。周囲はブナやナラの木が生い茂り、それらの落葉で、地面は覆われていた。

 ドカジャンに作業着姿のぼくは、そこへ躊躇なくからだを投げだした。天を仰いで雲のゆくえを追っかけているうちに、うとうとと眠ってしまった。どれくらい眠っていただろう、2,30分くらいだったかしら。でも、そのときの睡は怖ろしく心地よかった。天国というものがもしあるのなら、これじゃないかと思えるくらいに。

 気温は低かったはずなのに、寒くもなく、冷たくもない。陽光は柔らかな毛布のようだ。穏やかな風に木々の葉が触れあって、かさこそとざわめいている。ときおりどこかしらか、名の知れない野鳥の啼く声が聞こえてくる。

『このまま、野垂れ死にしてもいいかな。木葉に埋もれて、白骨化して』

 そんな考えが頭を過った。もちろん休憩後には作業に戻ったけれども。

 あのときの尋常ならざる心地よさを、ぼくは忘れることができない。

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Bill Evans - MASH Theme (Suicide is Painless)_ - YouTube

永遠のスタンダードナンバーといえば「枯葉」。枯葉といえば、ぼくはすぐさまビル・エヴァンスを思いだす。ピル・エヴァンスのピアノはなんというか、天国から奏でられている竪琴のようだ。この音楽などは、俗世から離陸する寸前のように聴こえる。

 

 勘違いしてほしくないのだが、厭世的な気分になっているわけではない。 ただ、なんていうのかな。最近になって生死というものが、観念から実感へと、変わってきたような気がする。

 これまた誤解されそうだが、人間が宗教もしくは崇高的な存在へと惹かれる理由も、ある程度だけど理解できるようになった。不確かな・見えざる・大きな存在があるに違いない、あると思わざるを得ないという心境に至る過程を、その心理的メカニズムを。

(ただし、だからこそ、それは中学生の使う道徳の教科書などに載せるべきことがらではないように思われる。)

 死は、そして人類の観念の産物である天国は、意外と近くにあるような気がしてならない。それはぼくが年齢を重ねたからでもなく、あるいは若いころほど無理が利かなくなったからでもなく、きわめて感覚的な部分での反射/反応に近い。換言するのがなかなかむずかしいが、最近とみに、死を敏感に察知するアンテナが備わってきているような気がする。

 だから今日の一日いちにちを、ぼくは慈しむように記録したがるのかもしれない。今日一日が、平穏無事に過ごせたことへの安堵とか、感謝の気持ちとかを書き表しておきたい――これは、ぼくの欲望だろうか?

 一日の作業を終えて、沈む夕陽を眺めつつ、ともに働く仲間らと缶コーヒーを飲みながら、薄暮の空に「一番星」が点るのを見あげている……。そんな些細なことども一切を、もらさず書き残しておきたい衝動に駆られる。それは自分が此処にいたことを証明したいがための、あがきのようなものなのか。

 自然に囲まれていると、ときどき空恐ろしくなる。夜のとばりが下りてきて暗闇が辺りを支配すると、やたらと心細くなる。人間の存在なんて、ほんとうにちっぽけなものなんだなと感じてしまう。だから人間は、「園」をこしらえ、自然を制御する空間に憩いを求めるのかもしれない。人間にとって、ありのままの自然はあまりにも凶暴だから。絶えず草を刈り、絶えず枝を打ち、絶えず枯葉を集めなければ、不安にさいなまれ、此処に居続けることができないだろう。

 

 雑木林を歩いていると、ぼくはときどき高野寛さんの「やがてふる」を口ずさむ。

 かれは佳い楽曲をたくさん書いているが、「やがてふる」の〈B〉部分の歌詞は、とりわけ秀逸である。

 一番では、「自然にしたい 自然といたい」。

 二番では、「自然をみたい 自然といたい」。

 三番では、「自然でいたい 自然はいたい」。

 この、微妙な「てにをは」の変化に、複雑なニュアンスと熟慮した考察が含まれていて、そこがぼくは好きだ。

 ぼく(ら)は、自然に憧れ、自然を慈しみ、自然に慄き、自然に畏怖する。

 それがすべてだ、とはいわないが、それが「不可視の大いなる存在」ではないかなと感じる、今日このごろである。

 

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高野寛 ソング・ブック 〜tribute to HIROSHI TAKANO〜 : Trailer - YouTube

上述した「やがてふる」は、サードアルバム「CUE」収録。プロデュースはトッド・ラングレン今年、高橋幸宏がカヴァーしている。

 

【追伸】今朝(12/5)、とてもすてきなツイートをみつけたので、紹介しておこう。

指輪物語」のJ・R・R・トールキンが言っていたと聞いた。彼は「木」にとても惹かれていた。「木と繋がりを持ちたい。木がどんなことを感じているのか知りたいんだ」