鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ダンデライオンは嘘をつかない

 

◇初稿 2004年。原稿用紙換算枚数 30枚。書き写す際に最小限の剪定作業を施した。
 
 

「お母さん、次で降りるからね」

 ブーツカットジーンズがよく似合うスラリと伸びた細い脚。小6のくせしてわたしよりも長い。昇降口ステップにたたずむ茉耶の後ろ姿は、わが子ながらほれぼれするほど決まっている。
「いったいどっちに似たんだか」
 と嘆息まじりの母親を尻目に、娘は気もそぞろ、減速中のドアの前にへばりついて、席に腰かけたままのわたしを急かす。
「ほらあ、出遅れちゃうよ」
 そうだ、のんびりしている場合ではない。今日は子供服のバーゲンセールなのである。
 
 地下鉄の改札を抜けてB5と示された階段を上っていくにつれ、同世代と思しき親子連れがやたらと目についた。どこへ向かっているのかは一目瞭然、娘という娘は似たような意匠の服を着ているし、つき添う母親たちの汗ばんだ手には案内状の絵ハガキがしっかりと握りしめられている。
 長くて急な階段を上りきってようやく地上へたどり着けば、表参道とA通りの交差点に出くわす。たしかこの近辺に友人の代理で数日間だけアルバイトをした喫茶店があった。あのお店はいまも健在かしらと感慨にふけっていると、いらだち気味の茉耶に、淡い追想を断ちきられてしまった。
「お母さん、なにグズグズしてんの?」
「いや、ちょっと喫茶店を探してて」
「お茶してる余裕なんてないよ!」
 のろまな母親の手首をつかんで通りを北へと向かう。娘に引きずられるかっこうのわたしは未練がましく後ろをふり返る。確かめるまでもなく喫茶店は残っていないだろう。なにせン十年もまえのことだから。
「やっぱりー。こんなに並んじゃってる」
 ふくれっ面する茉耶。たかがバーゲンじゃない、もっと鷹揚にかまえてられないのと思ったが、行列の長さをみて納得、わたしもさすがに呆然となって、いったいこの列、どこまで続いてるんだろうと不安を口にした。すると、
「ブリット・ブラザースまでよ」と、すぐ前に並んでいた女性が疑問に答えた。
「あ、そうなんですか」
「そう。B・ブラザースの2階から3階までが、バーゲン会場になっている」
 ご親切にどうも。しかし、どっかで聞き覚えのある声だ。
「そんなことも確かめてないなんて。おっちょこちょいもあい変わらずね」
「まさか、ハルミ?」
「お久しぶり、杏子」
 
 十年年ぶりかに再開した城戸春海。
 彼女とは大学の同じ学部で、修めたゼミも一緒だった。夏はテニス、冬はスキーといういい加減なサークルまでも。ふたりとも勉強そっちのけで遊びほうけた。同じ男の子を奪いあったこともあるし、その男に失恋したときはふたりして一晩じゅう泣き明かしたこともあった。いわば青春の1ページを飾りあった仲なのである。大学を卒業したあとも、春海とはたまに会って食事をしたり、電話で話したりしていたが、次第に話題がかみ合わなくなり、疎遠になっていった。ちょうどバブルが弾けたころ、わたしは夫となる男性に出あう。結婚式にはもちろん招待したけれど、出・欠席の返事が返ってこないまま、音信不通になっていた――
《いつ結婚したの? いまどこに住んでるの? 最近は、どうしてるの?》
 訊ねたいことが山ほどあって、だけど言葉にならなくって、やり場のない沈黙がしばらく続いた。が、やがて春海のほうから会話の口火を切ってきた。
「堕ちたものよね。トラディショナルの総本山が、子供服ブランドに軒先貸しちゃってさ」
「あのころ、ブリットのボタンダウンシャツって、男女を問わず憧れだったもんね」
「そう。だのにM屋なんかにさ。プライドはどこへいったのって感じ。M屋ってもともと竹下通りにあった安手のブティックでしょ?」
 シンラツ。だが、その鋭い舌鋒のおかげで、久しぶりの気まずさもいくぶんか解消する。
チバラギの中学生にしか見向きもされなかったのに、急成長したものよね」
 数年前、大手アパレルメーカーのWが吸収合併してからM屋の快進撃がはじまった。小学校の高学年の女子をターゲットに絞りこんで。
「バブリーなママの財布を狙った、戦略?」
「イエス。見栄っ張りな世代を照準に」
 再会を懐かしむかわりに、ふたりは人目もはばからず大声で笑いとばした。ところが、
「もう、恥ずかしいからやめてくんない?」
 と、茉耶が口を尖らす。春海のほうに目を向けると、同じように不機嫌そうな顔をした女の子がいた。
「M屋の悪口、ここだとヒンシュク買うよ。わかってる?」
 はいはい悪かったわねと、茉耶の二の腕をさすりながら、わが娘を春海の前に突きだした。
「これウチの子。茉耶、ご挨拶なさい」
「誰に?(このオバサンに?)」
「(このオバサン)わたしの親友、えーと……」なに春海になったんだろう?
「城戸春海です。よろしく、マヤちゃん」
 すかさず旧姓を口にする春海。はて?
「この子は友里。6年生なの。あなたは?」
「同じです。わたしも小6です」
 ついで春海は、茉耶の着こなしにも着目する。
「茉耶ちゃん『ボン・ボヤージュ』派?」
「そうです」自分のトレーナーを指しつつ、「これがいちばん好きなの」とほほ笑む。
「お似合いよ。お母さん似でスリムだから」
 友里ちゃんは、「ダンデライオン」というタンポポのキャラクターが描かれている茶色いジャンパーを着ていた。動きやすそうだねとわたしが声をかけると、友里ちゃんもじもじして母親の陰に身を隠した。はみかみやさんなのかしら。春海には悪いけれども、容姿から受け応えにいたるまで「勝った」と思った。茉耶は淡白な顔立ちだけど、髪をひっつめにしておでこを強調し、表情に翳りがない。パリのエスプリふう「ボン・ボヤージュ」のトリコロールカラーがよく似合う。一方の友里ちゃんは一言でいって地味。母親譲りのつぶらな瞳をしていても瞼が重たげだ。アメリカンカジュアルふうの「ダンデライオン」を着ているけれど――でも、どうしてブランド名が松任谷由実っぽいのだろう?――そのスポーティーなデザインに見合うべくスマートさに欠けている。
 そんなわたしの意地悪なまなざしに気づいたのか、春海はボソリとつぶやいた。
「いつもこれしか着せてないの。せめて一着くらいは軽めの上っ張りを着せてあげたくってさ」
 黒目がちな瞳の輝きは次第に消えうせて、目のまわりの小じわが余計に目立つ。
「ついつい、バーゲンにやってきました」
 やがて長蛇の列がゆるゆると動き始めて、御影石づくりのビルに飲みこまれはじめる。と、春海はこっそり耳打ちする。
「ね、何着くらい買ってあげる予定?」
「んー、2、3着かな」いちおう3万円程度の予算を立ててきた。
「そっか。だよね、バーゲンだものね」春海はことさら大げさに嘆いてみせた。
 それにしても尋常ではない変わりようだ。わたしは春海と同じ歳だが、これほどくたびれてはいない。むかしの彼女はボヤいたりしなかった。少々鼻につくほどお嬢さま然としていた。それがいまではボディーラインは跡形もなく崩れ、かつてジュディー・オングそっくりと称され、オトコどもを魅了していた小悪魔的雰囲気はみじんも残っていない。
 子どもがいるのに旧姓のままだということは離婚したのだろうか? とは限るまい。ダンナさんが養子に入ったのかもしれないし……。
 ともあれ春海からは生活の逼迫をひしひしと感じてしまう。わが家の経済状況も決して自慢できるものではないが、ひょっとしたら城戸家の暮らしぶりは相当切実なのではないか?
「軽めの服を着せてあげたい」という言葉だけが、むかしの春海と変わらなかった。
 
 色とりどりの風船をあしらったゲートをくぐると、そこから先はもうお祭り騒ぎ。案内ハガキを提出するスキを狙って、娘たちは係員が配るキャンディーを口に放るやいなや、親の制止をものとせず、お目当てのコーナーめがけて一目散にダッシュしていった。
 キャラクターデザイン満載の、カラフルな洋服の山々に少女たちが群がるさまは圧巻である。この狭いスペースの中にいったい何百人が詰めこまれているだろう? 千人単位かもしれない。会場内はオンナの熱気でムンムンし、汗と化粧の入れ混じった甘酸っぱいにおいが充満している。この異様なムードに圧倒されたのか、ちらほら見かけるお父さんたちは、かわいそうに会場の隅っこで小さくなっている。
「あんまり遠くにいっちゃダメよ!」
 あわてて茉耶を追っかけるが、すぐに見失う。人波をかき分けて行くのも億劫だと途方に暮れていると、背後から春海が寄ってきてわたしの背中をポンと叩いた。
「どうせ会場の中にいるんだからだいじょうぶよ。それよりカウンターがあるじゃない。服選びはこのさい子どもらに任せてさ、杏子、わたしたちだけでお茶しない?」
 人ごみにウンザリして、ひと息入れたかったわたしは、一も二もなくその提案に乗った。
 
 苦めのエスプレッソのせいか、最初は互いに口数少なめだった。どこに住んでいるのかおずおずと訊ねると、春海はキューポラのある街だと答えた。
「なんだ、わたしと一緒のサイタマじゃん。チバラギのこと、あんまり笑えないよ」
「同じ北関東だかんね」
 苦笑いした春海は、トートバッグからタバコの箱を取りだして、百円ライターの火を点した。
「やめられないもの。薄荷いりの煙草」
「メンソール椿の花を落とさないで、ね」
「ああ懐かしいな、そのセリフ。誰だっけ?」
 紫煙をくゆらしながらあらぬかたを眺めている春海。近況を語りたくないみたい。ならばと話題を変えてみた。
「懐かしいといえば、さっきの曲ね」
「ああ。ええと何だろ? ワム! のウキウキ、なんとか、ウェイクアップ?」
「それそれ。正解。じゃ、いまかかっているのは?」
「ダンシング・イン・ザ・ストリート。杏子はデヴィッド・ボウイ派だったよね?」
「違うよ。断然ミック・ジャガーストーンズなら任せて。いまだに大・大・大ファンだから」
「恥ずかしげもなく、よくいうよ」春海は鼻の穴をふくらまして笑った。
「さっきからベストヒットのオンパレード。いったい、いまはいつよ?」
「もちろん21世紀。だけど、わたしらの年代が喜びそうな音楽を意図してかけているみたい。リサーチされてるのよ。1980年代が青春のママの嗜好にあわせなきゃ、こんな派手なデザインの服、売れっこないもの」
「80年代の気分を味わうサービスだ」
「80年代後半はバブルの真っ盛り。お金かけまくって遊んだ、莫迦親たちに向けて」
「莫迦親が バーゲンなどに 引っかかる」
「子どもには 湯水のごとく 注ぎこむ」
 周囲の怪訝な顔をものともせず、似た者同士おおいに笑う。だが、ひとしきり笑ったあとで、春海は急に神妙な顔になった。
「杏子。結婚式に行けなくて、ゴメンね」
「べつに、いいよ」
「あのころ、いろんな厄介ごとが重なってね。最近また、こじれちゃってるけど」
 無理して言わなくてもいいのに。
「離婚の係争中。親権だとか養育権だとか。……でも、友里は渡したく、ない」
 やっぱり離婚か。わたしはふたたび話題を逸らした。いまかかっている曲名は? と。
Everybody Want To Rule The World
 流暢な発音だった。大学時代はDJが目標で、FM局に就職が希望の春海だった。
「世界は秩序を求めている、か。まったくよ。だのに紛争ばっかり。状況はどんどんひどくなる一方」
 と早口でいいおよんだ春海は、鮮やかな手つきで携帯電話を取りだして、杏子の番号とメルアド教えてといった。わたしは番号を交換しながら、慎重に提案してみた。
「ねえ、最近、地域に根ざしたFM放送が盛んでしょ。そういうのって、案外いいかもよ」
 だけども春海、顔の前に手を振って、
「ムリムリ。オバサンには通用しませんよ」
 と、次の言葉をさえぎると、椅子からスッと立ち上がった。彼女の目の先には、上気した顔でかけ寄る友里ちゃんの姿があった。
 あれ? わたしの思い過ごし? さっきと友里ちゃん、どうも印象が違う。霜降りのTシャツ一枚きり。茉耶と同学年なのに母親似のグラマーで、バストが上下に揺れている。それはさておき、茶色い「ダンデ」のジャンパーを羽織っていたはずだが、蒸し暑いから脱いじゃったのかしらん?
  わたしの困惑を知ってか知らずか、春海はことさら陽気にふるまうのだった。
「お気に入りの一着が見つかったらしいわ」
「ああ、そう」よかったね、を飲みこむ。
「会えてよかった。懐かしかったし」
 春海は握手を求めた。汗をかいているせいか、手のひらがしっとりしていた。
「杏子。あんたが幸せそうで安心したわ」
 といい残して、人ごみに紛れていった。
 
 やがて、色とりどりをカートに満載した茉耶が、息を弾ませながら戻ってきた。
「3着だけって約束したじゃないの」
「これは候補。これから最終選考するの」
「じゃあどれがいいか、一緒に決めようか」
 試着室前にたどり着くと、ああ、また列なして待っている。中に入るまでしばらくかかりそうだ。茉耶とわたしは茹だるような熱気に汗だく状態で、友里ちゃんじゃなくたって上着を脱ぎたくなるほどだった。
 春海ったら、まるで逃げるように、あわただしく去っていったな……などと考えているうち、ようやく列の前が空き、茉耶はいそいそと試着室に入っていった。そうだいまは服選びに専念するときだ。へんな服を選ばないように気をつけてないと。
「お母さん、ちょっと、ちょっと」
 ところが茉耶、試着室のカーテンを半開きにし、おいでおいでの手招きをする。
「なあにどうした、サイズ合わないの?」
 カーテンを割って覗きこむと、茉耶はさまざまな服が山と積まれたかごを無言で指さす。そこには買うにいたらずと判断された品々が乱雑に脱ぎ捨てられている。
「この中に、いいと思う服があるの?」
 呑気に問いかけると、茉耶は「ううん」とかぶりを振って、黙って中の一着を差しだした。それは友里ちゃんが着ていたのと同じ、茶色い「ダンデ」のジャンパーだった。
 値札はついていない。襟もとはよれよれ、袖口は汚れている。念のためにとポケットをまさぐると、街頭で配られている消費者金融のポケットティッシュが無造作に詰めこまれている。
 間違いない、友里ちゃんのだ。
  わたしの懸念をよそに、茉耶は茉耶で、しきりに不安を訴えた。
「どうしよう。お母さん、これ、さっきまであの子が着てたジャンパーだよ」
「とは、限らないでしょ」
 とっさに口をついて出た言葉に、いちばん驚いたのはわたし自身だったかもしれない。
「わたしさっきまで友里ちゃんのお母さんとお茶してたじゃない? そのときも友里ちゃん、これと同じジャンパー着てたもの。うん、たしかにちゃんと着ていた」
 ウンウンとうなずくわたしのわざとらしい仕草を、茉耶は不審のまなざしで見つめる。ときとしてこの子の勘はおそろしく鋭くはたらく。うまくごまかせるかどうか?
 わたしはいったん手にしたジャンパーをぞんざいに放りやり、
「定番じゃない。着ている女の子をたくさん見かける。きっと違うわよ。つまらないこと考えてないで、ホラさっさと選ぶ、選ぶ」
 早口でまくしたてた。が、茉耶はぜんぜん納得していないし、それどころかこんな指摘までした。
「だって、あの友里ちゃんって子、なんだかビンボーそうって思ったんだもん」
 小6、あなどれず。残酷だが鋭い洞察力。ことの本質をしっかと見据えている。
 それから茉耶は、浮かない顔をして、こうもつぶやいた。
「今日はこれだけでいい。なんかケチついちゃったし」
 ダブルベルトのジーンズを適当に選ぶと、茉耶はもう行こうよとわたしをうながした。おかげさまで予算の半分もつかわずに済んだのだけど、なんだろう、この口の中の苦い味は?
 
 熱気のこもった会場を抜け出してA通りに一歩踏み出せば、肌身を刺すような冷気にさらされる。おお寒、いまが冬だってことすっかり忘れていた。
 おなかが空いたと茉耶はいう。腕時計をのぞくと、入場してから2時間も経っている。わたしたちは横断歩道を渡ってすぐの、通りの斜向かいにある、タンシチュー入り揚げパンが評判の、老舗のデリカテッセンに入った。
 わたしは本日2杯目のデミタスカップを口に運びながら、探偵みたいに推理をめぐらしていった。
  1. わたしと別れたときの友里ちゃんは、ジャンパーを着ていなかった。
  2. 脱ぎ捨てられていたジャンパーのくたびれ具合と、ポケットティッシュは、持ち主のいる明白な証拠だ。
  3. 断定はできないが、着古したジャンパーを脱ぎ捨てて、新しい服に着替えたのち、会場をあとにした……
 さて困ったぞ、どうしよう。
 考えれば考えるほど、疑惑の要素が整っていることに気づく。願わくは根拠のない憶測であってほしい。代わりの服を購入して、前に着ていたジャンパーを捨ていっただけなのかもしれない。いやいや、それってやっぱり不自然。要らないからって置いていくなんて、考えられない。かりに春海が、友里ちゃんの着替えを黙認していたり、あるいは着替えなさいと唆していたりするなら、たとえいままで着ていた服を残していったにせよ、それはまぎれもない窃盗なのだ。
 ああ、なんて浅はかなまねをしたの。よりによって盗みとは、あまりにも短絡的だし、刹那的だよ。むかしながらのともだちに、あらぬ疑いをかけたくはないけれど、そう思わざるを得ないじゃないの。
 わたしたちは人一倍見栄っ張りなバブルの申し子だ。「誰のためにおしゃれするの?」と問われたら「わたし自身のために」と答えるような。だけど、自分がブランド品で着飾れないぶん、せめて娘にだけでもと思う親心も持っている。とことん家計を切り詰めて、娘にジャンパーを買ってあげる心意気があるのなら、なおさら「見栄」を張らなきゃならないよ、春海。
 わたしは携帯の待受画面に表示された11ケタの番号を見つめた。いっそのこと春海に電話してみようか。なんて切り出そうかと、頭の中でシミュレーションしてみた。
〈あ、春海? さきほどはどうも。いや、たいした用件じゃないんだけどさ……〉
 ダメ、とてもじゃないが訊けない。もしもこっちの勘違いだったら、ずいぶん失礼な話だ。ああどうしよう、どうしよう。わたしは携帯を握りしめたまま、かけるか、かけまいかの堂々めぐりにおちいっていた。
 ところがそのとき。
 視界の端に城戸親子を、見まちがえるはずもない、春海と友里ちゃんが、いちばん目だたない隅の席に座るところを発見してしまった。M屋の春・夏カタログを読みふける茉耶の、死角になっているのは幸いだった。こちらの視線に気づいていないことも、これまた幸いだった。
 ただ、残念なことに、ゆりちゃんの着ている上着は、やはり茶色の「ダンデ」ではなかった。
 
 怒りがふつふつと煮えたぎってきた。
 春海の莫迦。なんでこんな近場でウロウロしてんのよ? 見つかったらどうするの、さっさと逃げちゃいなさいな!
 あなたたち親子を目のあたりにしたくなかった。平気な顔をして食事を済ます神経が信じられない。友里ちゃんが「いただきます」と唱えるのをまともに見ていられない。母と子の絆が強ければ強いほど、胸がつかえて息苦しくなる。
 どうしてああも陽気にふるまえるのか? 罪意識はないのか? それともこんなことは、日常茶飯事なのか? わたしの思考は極端な方向へどんどん膨らんでいった。
 もう我慢できない、ハッキリさせなきゃ!
 わたしはおもむろに席から立ち上がった。
「食べ終わってないのに、もう行くの?」
「ちょっと、お手洗いに行ってくる」
 とりあえず茉耶に言い含めると、わたしは化粧室にこっそりと移動した。子どもの耳に入れることではないし、ましてや、子どもにやらせることでもないでしょう、春海?
 
 わたしは柱の陰に隠れて、春海のようすを窺いながら電話をかけた。番号を確かめた春海は、怪訝な顔をしていたが、やがて携帯を耳に押しあてた。
〈杏子? 誰かと思った。さっそく電話してくれたんだ〉
 屈託のない声に一瞬ひるんだが、気持ちを無理やり奮いたたせ、震える声で質した。
「友里ちゃんから離れたところに移動して。そして、いまから訊くことに正直に答えて」
 春海は店舗の外の脇道へといったん出た。
〈いったいなによ? どうしたのそんなに改まって〉
「茶色のジャンパー、どうしたの?」
〈……意味わかんない。どうしてそんなこと訊くかなあ?〉
 春海、しらばっくれる気だ。ならば仕方ない。単刀直入でいくしかない。
「試着室に、友里ちゃんの着ていた『ダンデライオン』のジャンパーが脱ぎ捨ててあった。この目で確かめたけど、間違いなかった」
 春海のヒューッと息を呑む音が聞こえた。
〈へえ。なんでそう言いきれるわけ?〉
「襟もとのよれ具合と袖口の汚れ具合。まだ着られるのに、どうして捨てちゃったの?」
〈捨てちゃいないわよ。いまも着ている〉
「うそ。友里ちゃん違うの着ている」
 春海は言葉を失った。
「春海、わたしはいま、あんたがよく見える位置からかけてる。友里ちゃんがなにを着ているかもわかるわ。明るいベージュ色のハーフコート。そうじゃなくって?」
 動揺するようすが手に取るようにわかる。
「買ったの? 買ったんだったらいいんだけど。でも、ひょっとしたら試着室ですり替えたんじゃないの。だとしたら、それって……」
 追及していいものかと、わずかにためらう。
「それって……窃盗だよ。友里ちゃんのためにも、そんなの、ぜったい良くない!」
〈……だとしたら、どうするの?〉
 開き直ったその声は驚くほど低かった。今度はわたしがことばを失う番だった。
 
 先の晩、夫が洩らした言葉を思いだした。
「いまの仕事を続けてたら身が持たない」
「あら、弱音を吐くなんてめずらしいな」
 軽くあしらって発泡酒を注いだのだが。
「会社を辞めようかとおもう」
 と、思いつめた表情で、夫はコップの中の泡が弾けるさまをいつまでも見つめていた。翌朝、夫はいつもと変わらぬそぶりで会社に向かったけれども、その告白はいまもなお錘のように、わたしの心の底に沈みこんでいる。
 わたしと春海の差異はほんのわずか。夫がいるかいないか、ただそれだけの違いだ。立場が逆転して抜きさしならない状況に追い詰められたら、わたしだってなにをしでかすか、わからない……。
 
「必要なら、いくらか出そうか」
 わたしはとっさに口にした。ところが、その提案を耳にした春海は、やおら声を荒げた。
〈あんたの態度、はなっから気にくわない。わたしと友里を見くだす視線のありようが!〉
 ああ、そんなふうに感じてしまうのか。
〈幸せな杏子に、いったいなにがわかるの? わが家の窮乏? お金を貸してくださるって?ハン、いったいナニサマ、見くびらないでよ!〉
 容赦ない罵声を浴びながら、わたしはわたしの家族、夫と茉耶のことを考えていた。そう、確かにわたしは恵まれている。そんなに悪くない今までを過ごしてきた。
 だけど……
 春海は、かけがえのない親友だ。学生時代からずっと。音信不通の期間が長かったとしても、こんな些細なことがらで破綻するような間柄じゃない。だから。だから勇気をふり絞って伝えなければ。
「ねえ春海、落ち着いて聞いて。あんなことを子どもにさせてはいけない。これからわたしと一緒にあのコートを返しにゆこう。そしてもとのジャンパーをとり戻すのよ」
 すると、声のトーンはいっそう低くなった。
〈そんなのムリよ。いまさらできっこない。第一、友里になんて説明すればいい?
 ……ねえ、ともだちのよしみで、見逃してくれないかな?〉
「あんたにはプライドってもんはないの?」
 わたしは呆れはて、ついに激昂してしまった。
「確かにわたしたちはバブルの申し子だよ。だけど誇りを捨てたらおしまいじゃないよ。正々堂々と生きてゆこうよ。それが母親たるわたしらの務めじゃないの? 違うかな? 正直者の姿を娘たちにさらそうよ、春海」
 説得に夢中だったわたしは、まわりがまったく見えていなかった。ただ、押し黙る春海に向かって、懸命に呼びかけていた。
「いまからそっち行くから。そのまま切らないで、いい? とにかく話を最後まできいてーー」
 そのとき、ちょうど脇腹あたりに、なにか柔らかいものが押し潰される感覚がした。と同時に、ものすごい勢いで体重が圧しかかってきた。
 友里、ちゃん?
「これ以上、お母さんを責めないで!」
半べそかきながら、強い力でしがみついてくる。
「わたしが悪いんです。わたしがこの洋服を欲しいっていったから。とても高くって買えそうにもないのに……つい」
 腫らした目を大きく見開いて涙ながらに訴える。その勢いにわたしは気圧される。
「自分で返してきます。だからどうか、お母さんを許して!」
 友里ちゃんの重みを支えきれないわたしは、その場にへなへなとしゃがみこんだ。お願いですお願いしますと、耳のそばで懇願をくり返す友里ちゃんの荒い息づかいが首筋にかかっている。なんだこの子、ちゃんと自己主張できるじゃないの。わたしは震える肩をトントンとたたいて、友里ちゃん、と小声でささやいた。
「だいじょうぶよ……もう責めないから」
 
 バーゲンセールの会場に戻るのは気が重かった。しかし、主催者にスプリングコートを返却するのがわたしたち母親の務めだった。ロッカールームみたいな部屋に案内されたとき、わたしは最悪のケースを覚悟していた。ところが、まだ二十代前半と思しき売り場の責任者は、じつに意外な対応をしたのである。
「本来なら、所轄の警察署に届け出さなくちゃいけないんですがね。まあ今回、こうやって商品も戻ってきましたし、お咎めなしにします」
 あのですね、ただでさえ忙しい期間中にですよ、警察へ連絡やら、監視カメラに記録されたビデオの確認やら、本社への報告やら、いちいちやってられませんから、という説明に、拍子抜けしたというか、そんな理由で許されていいのかなと思ってしまったが、それでもわたしと春海は、平謝りに謝った。すると、バックヤードを辞す際に、責任者の青年は、ふと思いついたような口調で、こんなことを言いそえた。
「ぼく、寛容ゼロって違うと思うんです。それって子どものこころに傷を残して、その子の将来に暗い影を落とすだけだもの。ダンデライオンは嘘をつかなかった。それでじゅうぶんじゃないですか」
 その言葉を聞いて、春海は、泣き崩れた。
 
 
 くたびれきったときには、奮発して特急に乗るに限る。電車が滑るように池袋駅を発車するなり、茉耶はいつもの憎まれ口をたたいた。
「あんな大声でわめいてたらバレバレじゃん」
 なんと言われても平気。茉耶には感謝している。あのとき、泣きじゃくる友里ちゃんの背中を撫でさすっている茉耶の姿を見た瞬間、わたしはスーッと胸のつかえがおりて、ふだんの冷静さをとり戻せたのだから。
 わたしは座席を倒して目をつぶろうとした。ところが茉耶ったら膝の上に、見たことのない、茶色のタオル地に黄色い絵柄の描かれた、かわいらしいハンカチを広げているではないか。
「なによそれ、『ダンデライオン』じゃない。あんたそんなの、持っていたっけ?」
 すると茉耶、フフンとふくみ笑う。
「さっきね。友里ちゃんと交換したんだ」
 ま、娘っこ同士で交流なんかしちゃって。
「ねえお母さん、これなんて書いてあるの?」
 こういうときだけお母さんかよ。わたしはハンカチを受けとる。わたしに英文を読ませる気? どれどれ。
「んー『タンポポは賢く育つ』って感じ?』
 次の行も訳してよと娘はせがむ。けれども今度は、わたしがウフフと笑う番。
「えーずるい。教えてくれないの?」
「中学に上がったら、そのうちわかるわよ」
 春海みたく巧く発音できないから、わたしはこころの中で唱えてみた。
Dandelion Don't Tell No Lies
 そして、窓の外に広がる武蔵野の、肌寒い早春の景色を眺めながら、ちょっぴり愉快な想像をしてみた。
 タンポポの種子、遠くまで飛んでいけ!
 
 
 ツッコミどころ満載だけど、言い訳はしません。ご笑読ください。