もう一丁、mixi日記からアーカイブ(悪いね、過去ログは退屈だろうけど)。
このエントリには、現在にも通底する、重大な問題提起が含まれていると思うので。
併せて松っつん、退会したユーザー、そしてC-moonさんのコメントも掲載しておく。
事後承諾、お許しを。
(しかし、このころのほうが、しっかり考えて書いていた。ひたむきに、建設的に。
最近のぼくは、あきらかに脱力している。成長せずに退化している。過去に、見習わなくちゃね)
2011年2月6日
先日、「自らの手で地域の文化芸術を育てていくこと」なんて、偉そうなコメントを書いてしまって、その後ずっと、喉に小骨が引っかかったような感じがしていた。
これは簡単なことじゃない、ひどく難しいことなんだ。
1月9日、こんな記事が時事通信からひっそりと配信されていた。
http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a5%b9%a5%dd%a1%bc%a5%c4%c4%a3&k=201101/2011010800205
続報もあった。かいつまんで記してみると、
スポーツ基本法案、議論開始=3月にも国会提出へ-民主議連
(時事通信 2/3)
同法案では「地域スポーツの振興」を主要な柱の一つとして提示。国民全般にスポーツを行う権利を保障する「スポーツ権」の確立に加え「スポーツ庁」新設などを盛り込む意向。
とある。理念自体は結構なことだと思うし、記事を知るきっかけとなった小冊子にも、こう紹介されていた。
61年に制定された現行「スポーツ振興法」が時代に合わなくなっているのはもはや「常識」であり、(後略)
だからこそ「問題はその中身である」と結んでいる。
(本論からやや外れるが、現行法が旧くなっているから刷新せよ、との論調をよく目にする。しかしそれは、改憲を促す「運動」にも繋がっているようで、簡単には首肯しかねる)
さて、「スポーツ基本法案」に対するぼくの懸念は、「地域スポーツの振興」を主要な柱のひとつとして提示、している部分だ。
ぼくの想像では、その新法に沿った形で、行政がいくら先導して旗を振っても、現実の地域社会はそう簡単には動いてくれないと読んでいる。それは経験則を踏まえた上での、実感から、そういいきれるのだ。
数年前、ぼくは市に委嘱され、4年間「体育指導員」として活動した。
それは市と市教委の意向を受け、各種スポーツイベントを運営、管理する業務であった。
土曜と日曜の大半は「体指」の活動に費やされた。各種球技大会の審判、各地区ごとの運動会、ニュー・スポーツのキャンペーン、市民マラソン大会、市民歩け歩け大会、市民市民市民・・・・・・、それでいて年間の活動費としていただけるのはン万円である。「準公務員」といえば聞こえはいいが、実態はつまるところボランティアだった。
もちろん、地域社会のいろんな実態を知ることができたので、ある意味、体育指導員は貴重な経験だったけどね(面白すぎるエピソードがたくさんあるけど、ある種、暴露めくので、この日記で紹介するのはやめておこう)。
話を戻すと。問題点を煎じつめれば、こんな感じだ。昨日ツイートした文章をそのまま貼りつけてみよう。
- 「地域スポーツの振興」を国が謳うのなら、成人が、地域社会と積極的に関わる環境を整えなければならない。早い話、労働時間を短縮し、余暇に充てる時間を提供しなければならない。都市部に住むサラリーマンに地域でスポーツに興じる余裕などない。
- (当時の)ぼくの住む都下のベッドタウンで、スポーツ大会を開催しようとしても、頭数が足りない、参加者が足りない、運営する者が現れない、指導者がいない、広報が行き届かないなどと、問題が山積みだった。市町村単位の行政主導では解消し得ない問題だ、国民のライフスタイルを抜本的に見直さない限りは。
要するに人が集まらないのだ。仕事でくたびれ果てているオトーサンたちは、ゆっくり休みたいだろうし、土日にしっかり休みをとれる業種も、おのずと限られてくる。ぼくの住む地域でスポーツに積極的に関わっているメンツは、古くから地元に住んでいる商店や農家の人たちが大半で、マンション暮らしで都心に働くサラリーマン(内閣審議官・下村健一氏いうところの「市民」)とは関わりが薄い。この乖離している実態を踏まえないと、地域の話はなかなか見えてこない。
ぼくにしたって、子どもが地元の小中学校に通っているあいだは、やれ廃品回収だ、やれ餅つき大会だと、いろいろな行事・会合に駆りだされる地域密着型の暮らしをしていたが、子どもの高校進学とともに、地元との関わりはすっかり失せてしまった。体育指導員も、いまの仕事に就くにあたって他の人に代わってもらったし。そうなると以前みたいに、運動会や球技大会に参加する機会も自然と消滅する。地域との絆が切れてしまった感じ。
それは個人の問題でしょうと、一蹴する向きもあるだろう。そうかもしれない。だけど、地域社会という「集合」の輪の中に、自ら飛びこむのは、なにか特別なきっかけでもない限り――たとえばぼくの場合、PTAとか子どもの課外クラブ活動など――とても難しい。
「市民」がスポーツを享受するためには、生活にゆとりがなければ、とうてい叶わない。その事実を直視し、改善したうえで、「スポーツ権」を高らかに謳うべきなのである。
ぼくがこのことを訴える理由はしごく単純で、スポーツに興じることは心身によい影響をおよぼすこと請けあいだからだ。
日ごろ縁もゆかりもない他表種の人たちや、子どもからお年寄りまでのさまざまな世代と関わるきっかけになるからだ。そんなステキな体験をしないなんて、ずいぶん損な話じゃないか。「体力の向上と増進」なんて、ご大層なお題目を唱えなくてもいい。たとえばニュースポーツ――グラウンドゴルフやペタンクなんか、やってみればすぐにルールを覚えられるし、病みつきになることぼくが保証する。
数年前、ぼくは「ペタンク」という小説を書いた。原稿用紙にして400枚分。何人かに読んでもらったが、題材そのものの魅力に乏しいという、残念な評価を受けた。
最近、読み返してみて、あーやっぱり間違ってるなと改めて感じたが、しいて欠点を挙げてみると、主人公(たち)が「ペタンク」に情熱を燃やす理由が、いまひとつ薄弱だったことが、面白くない理由だった。
「ペタンク」は楽しい、夢中になれるスポーツである。ゲームにおける「読み」が必要だし、鉄球を投げる「技術」も必要だ。そこをもっとしっかりと描くべきだった。
それともうひとつ、「ペタンク」を催す主体が、最後まで「行政」だったことだ。市の「スポーツ振興課」が企画した大会がクライマックス、これでは盛り上がらないし、どこか醒めた感じがする。「ペタンク」を好きなもの同士が、自主的に大会を開催するという設定にすればよかった。
また、リライトに挑戦しようかと思っている。題材そのものの魅力に欠けているとは、どうしても思えないから。
今回、ぼくはスポーツに焦点を当てたが、これが音楽などの、文化芸術にかんしても、事情はまったく変わらない。地域で、なにかしらの文化事業を活性化させるためには、そうとうなエネルギーが必要なのだ。口先だけの、生半可ではできない。行動しなければ、なにも始まらない。
ギャレス・マローンを皆さんはご存じだろうか?
彼が出演したBBCの番組「The Choir」は、NHKの「地球ドラマチック」でも放映されたが、むちゃくちゃエキサイティングで、面白い「ドラマ」だった。
イングランドの、貧困地区サウスオクシーという街で、市民による合唱団を立ち上げ、活動を軌道に乗せようと奔走する、若き指揮者の物語である。いや、いちおうドキュメントだけど、番組が一から関わっている点で、純粋なドキュメンタリーだとは言いがたい。「ドラマ」といったのは、そういう理由からだが、とにかく面白い。
無関心と無感動で沈滞する地方都市。そこにギャレスは人一倍の情熱を傾け、音楽への関心をうながし、合唱による感動へと導くのだ。地域社会の悲惨な実相と、それに対するヒントというか処方箋が、(たとえそこに教会という後ろ盾があるにせよ)この番組には確かに描かれているように思うのだ。
レナード・コーエンの『ハレルヤ』。ジェフ・バックリーをはじめとして、多くのアーティストに歌われている名曲。
ギャレス・マローンは内気な若者にスポットをあて、かれにソロを歌わせる。練習シーンもよければ観てください。
The Choir: Unsung Town - Singing Lesson Episode ...
歌詞がいいのだ歌詞が。レベルが違う。ディランに匹敵する。
The Choir: Unsung Town - Episode 2 Highlight ...
和音の秘訣について、わたしが聞いた話だ
ダビデの弾く琴の音が、主を歓ばせたという
もっともきみは、音楽に興味なさそうだけども?
そいつはこんな具合だ
4度から5度、短調に降り、長調に係留る
当惑した王が、ハレルヤをこしらえたのだ
コメント
松っつん
スポーツ大好きの僕には(イワシさんが地域と行政の狭間に関わった体験談は) 、どんな書物よりも貴重で、エキサイティングでした。
各地で活性化を狙った「○○おこし」が盛り上がってるようにみえても、実際そこに住む人も大半は蚊帳の外でしょうし、 スポーツ・文化・芸術が人をつなぎ、楽しませ、平日の世知辛い世の中との対峙も、「週末まで、なんとかなるかな?」と、生きる希望が失われないような地域に住みたいです。
「地球ドラマチック」でも、「The Choir」の回は反響がものすごかったようですね(僕は再放送も見逃してしまいましたが)。
(今はムリでも)いつか自分もギャレス・マローンのような発信者のひとりになれるよう心掛けたいですね。
救世主を待つだけではムシが良いと思うのと、この問題を他人事にしないためにも。
2011年02月06日 16:47
退会したユーザー
この日記の内容に直接は関係ないかもしれませんが、地元に帰った時にスポーツ施設の充実ぶりに驚きました。
最新の設備がひととおり揃っている。 しかし、それらの施設は決まってガラガラでした。
また、なぜこんな所に・・・というようなさびれた場所に、噴水のある豪華な公園があった。 そして、それらの公園は決まって汚れていた。 おそらく作られたまま放置されているのでしょう。
地域を活性化させるために必要なのは制度でも施設でもなく、一人の人間なんでしょうね。
この方のように。
しかし日本だとこういう指導者的な立場は毛嫌いされるし(特に地域社会では)、行政側もこういう人が出てくると自分達のあり方がますます問われてきそうだから、嫌がるでしょうね。
でも出てきてほしいですね。
というか、出てこないとまずいですね。
2011年02月06日 17:32
C-moon
僕も実感しました。Uターンし、終の棲家と決めてから、ソフトボール大会、野球にバレーボール、地域のゴルフコンペ。
スポーツ大好きだから、誘われるままに参加していましたが、気付いたのはどの大会でも、そこにいるのは変わり映えしない顔ぶれだということ。
変わり映えしない顔ぶれは、自営業者の二代目が多かったですね。
時間的な自由度もあるかもしれませんが、自営業者は地域に根差して成り立ち、そういう意味で地域を盛り立てていこう!という気持ちを多少なりとも持っています。(僕もその一人です)
都市部に努めるサラリーマンの方は、会社が糧を得る場であるように、自己のひとつの世界があるように、自営業者は、地域そのものが、糧を得る場で、自分が内包される場所です。だから顔ぶれが変わらない……
これは問題です。限られた人たちだけのイベントになってしまう。どんなに素晴らしいうたい文句のイベントでも、どのイベントでも顔ぶれが変わらないのでは、大義名分が泣きます。
仰るように、時間という柵を取り払う”ゆとり”が、準備されていなければ、柵は越えられず、限られた交流になってしまいます。
地域主義という言葉が、語られ、方向性が審議され、おおよその理解は、行き渡っていると思いますが、理解だけで現実は遠いものがあります。
各地域に在る交流の障壁となるさまざまな柵は、中央の行政よりも、地域の行政が熟知しています。融通性も高く、臨機応変に対処することもできます。地域の行政よりももっと小さな単位の集合体はもっと把握しています。
中央の行政は、ゆとり社会を構築することに心がければよい。
あとは”委ねる”
そろそろ政府も地域独自の理念ややる気に”委ねる”段階にきているというか、すでに遅いような気がします。
委ねることこそ、地域を活性化させる最大の近道だと思います。
『ハレルヤ』のソロパートを受け持った内気な青年も”委ねられる”ことで生まれたハレの舞台の主役。練習風景で感じさせる上達ぶり。
委ねられたからこそ内側に湧いたやる気だと感じました。
2011年02月07日 20:16
当時使用していたアイコン
イワシ タケ イスケ → 松っつん さん
地域と行政の狭間に……、いえいえ、そんな大層なものじゃないです。
ぼくは体指の幹部や市職員の決めた方針に従って動いていたにすぎません。自分なりのビジョンやアイディアは皆無で、期間をまっとうすることが目的の、いいかげんな体指でした。
それと、ちょっと誤解があるといけないので申し添えておきますね。
基本的に彼らは善意で動いています。「市民のための健全なスポーツを伝えよう」と本気で努めています。市職員は例外なく優秀です。少なくとも(野老)市のスポーツ担当は、まじめで偉ぶらない方たちでした。
そんな彼らにしても、シティマラソン大会を除いて、各種イベントの広報には頭を悩ませていましたね。(後略)
2011年02月09日 02:22
イワシ タケ イスケ → 退会したユーザー さん
地方の施設の充実と、相反するさびれようは、幾度となく目にしました。容易に想像できます。いわゆる「ハコモノ行政」。でもその原因を、政治家や官僚のみの問題に帰結してはならない。 立派な施設を要求していたのは、他ならぬその地域の住民。税金を納めている「市民」なのです。
ひとりの人間にできることは、ごく限られています。
ギャレスのくだりでぼくは、「教会の後ろ盾」とさらりと書きました。しかしそれこそが最も重要なファクターなのかも知れない。西洋社会における教会は、権威以外のなにものでもありませんから(きみがよく引用する「権威」とは位相が異なりますが)。活動資金から練習場所にいたるまで、教会がバックについているからこそ、ギャレスは思い切って合唱指導に専念できるのです。
さて、教会に代わるような「公的機関」が果たして日本社会にあるだろうか?
スポーツ連盟は欧米のクラブハウス的なものをイメージしているらしいけど、それこそ画に描いた餅だしね。ともあれ行政主導ではダメだと書きました、ではどこが?
既製の宗教団体? 違うよね。
それでもなお、宗教に見られる、個と個を接着するシステムが、社会には必要なのかもしれません。
いずれにせよ、個の突出した働きだけではどうしようもありません。個人だと潰されてしまうから。
(後略)
2011年02月09日 02:44
イワシ タケ イスケ → C-Moon さん
こんがらがった日記の内容を、わかりやすく解した感じのコメントをいただき、恐縮するばかりです。
「かわり映えしない顔ぶれ」の方々に対して、悪意はありません。
「かわり映えしない顔ぶれ」は、話してみるとみないい人たちです。
善人たちの善意に満ちた思惑は、しかし時として「抑圧」に取って代わります。
旧町内の秩序だった組織網は、保守勢力の「牙城」にたとえることもできます。
体指の時分、町内会の席で、ぼくは上座に座らされ、議員からお酌を受けました。
教育委員らが、どんな思想信条で、地域と学校を掌握しているのかも知りました。
それらに居たたまれなくなって、ぼくは地域から離脱したわけです。
しかし地域に根を張るということは、そういったものと向き合い、腐敗から目を逸らさないことだと思います。おかしなことだと思ったら、それ違うんじゃない? と指摘できるような、風通しのある人間関係を、地道に築き上げていくことが、じつは最も重要なんじゃないかな、と。
きれいごとかも知れないけど、信頼関係のない地域社会に、文化芸術が花開くわけないですからね。
「終の棲家」を定めたC-Moonさんに、こんなことを言うのはお門違いですが。
あなたみたいな覚悟がないから、ぼくは地域の壁に突き当たって簡単に挫けてしまったのでしょうね。
2011年02月09日 03:08
C-moon
僕も砕け散っていますよ♪
自分ごとで申し訳ありません。スポーツから離れますが……青年会議所(JC)に入って年功序列的に役員になると、イベント運営や勉強会などで市長、市会議員、銀行の支店長か商工会議所の役員たちと接する(飲む)機会が増え、「保守勢力の牙城」に取り込まれます。
戦後、総理を4人生んだ土地柄、見渡す限りバリバリの保守の波が押し寄せていますから。
ですから、JCもイベントを通して開いているつもりでも何となく、地域の体制に一体化してしまう傾向にあって僕には違和感があって、やり切れませんでした。
JCを離れた、地域の活動でも同じような傾向です。
僕が日記に書いているようなことを発言しようものなら、過激派扱いです(涙)
そんなことで、地域の体制から遠ざかるようになりました。
そんな時出会ったのが、当時建設されようとしていた県営ダム反対活動を始めたばかりのご夫婦でした。
二人だけの反対活動……僕が三人目でした。
それから活動していくうちに他のグループとネットワークを形成し400人の市民ネットワークへ……
03年に活動の成果として凍結されました。
この活動で、「変わり映えしない顔ぶれ」の方たち、JC時代飲む機会がたくさんあった方たちと、対立することになり、やれやれでした。
地域に新しいものを根ざす。何かを生もうとしたら、”地域の体制”から離れて、”この指止まれ”みないに、同じ方向を目指す人たちと一緒に活動する方が、”やっているな”という充実感があります。
活動が理解されれば、お金も集まります。何よりも民主的です。
地域には頼るけど、政治に頼らない、行政に頼らない、税金に頼らない。こうしたことが風通しを良くし、広く信頼関係が芽生えると実感しました。
二人きりで始めたご夫婦のように、まず手を上げることが大切だな……
と実感しました。
長々と自分のことを書き申し訳ありません。
2011年02月09日 16:46
イワシ タケ イスケ → C-Moon さん
C-Moonさんの選ぶことばに、優しさやみずみずしさを覚えると同時に、現実をしっかり見据える生活者の視座があると、おぼろげに感じてましたが、こうしていただいたコメントを読むと、ああなるほど、さまざまな問題と実際にコミットしてきたひとなのだなあとわかって、文章の説得力にも合点がゆく次第です。
いたずらに現状を憂い、やむくもに権力をなじる手合いがネット社会には多いし、ともすればぼくも、その風潮に安直に同調してしまいがちですが……、どうも口先だけの手合いになっているなというのが、最近のディレンマだったのです。
C-Moonさんの穏和な提言は、一服の清涼剤というか、ぼくの毒を解かしてくれる働きがあります。
まるで風景が立ち上ってくるような文章の、風通しのよさに。
ダム建設反対運動に関わっておられたのですね。どおりで発言に重みというか、凄みを感じるわけだ(笑)。
ぼくには、そういった経験は特にありませんが……いや、ありました、小さな問題でしたが。
しかしそのことは、またの機会に書くことにします。今夜はこのへんで。
2011年02月06日 16:47