鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

式典の日

 
 サイタマに住んでいるあいだ、子どもの入学式と卒業式に、つごう4回出席した。小学校と中学校と。
 ぼくは、君が代を歌わなかった。
 
 小学校の入学式でのことだった。式典が始まると同時に、全員ご起立くださいとのアナウンスがあった。その直後、「国歌斉唱」と、厳かな声で教頭が告げた。ははあこうやって不起立を防ぐのか、考えたもんだなと妙に納得した。
 ピアノの前奏が鳴り響いた。ぼくとぼくのパートナーは、示し合わせたわけでもなく、同時に着席した。全員が席を立っているなか、椅子に座っているのだから、そうとう目立ったに違いない。君が代が斉唱されているあいだ、時間の流れが滞っているように感じた。40秒間が、とてつもなく長く感じた。ぼくは抗議を示したつもりではなかった。が、結果としてそれは、意思表明以外のなにものでもなかった。
 周囲からの痛い視線にさらされはしなかった。みんな適当にやり過ごすのがサイタマ流なのだ。放っておいてくれる。教師から注意されることもなかった。式が終わった後も、何事もなかったかのように、ぼくは知り合いの保護者とことばを交わしていた。
 ただ、次の日に、無言電話が幾度もかかってきた。家にいたぼくは焦れて、何度目かに、いったいどなたですか? と問うた。するとたった一言、低い男の声で「アカ」と告げられた。単純だなあ、あのねぼくは共産主義者じゃないんだよと言い返したくなったが、電話はすでに切れていた。
 小学校へは、頻繁に足を運んだ。家にいることの多かったぼくは、なにやかやと役割を押しつけられたのだ。そればかりではない。行きがかり上、さまざまな問題に直面した。学童施設の校外への移転の問題。体育館の使用についての問題。争点が二分したとき、ぼくは常に学校側と対立する立場にあった。そしていつの間にか矢面に立っていた。お母さんがたに、やっぱり男じゃないとねとか、イワシさん弁が立つからとかおだてられ、校長室に赴き、直談判するのがぼくの役目だった。
 まあ、札つきの親だっただろう。べつに理不尽なクレームをつけたわけではないから、モンスターペアレンツやらクレーマーやらの類ではなかったと思いたい。が、学校側や地域社会が、ぼくをどんなふうに見ていたかはわからない。変わり者だ、ぐらいには捉えていたと思う。
 とにかく、そんな変わった父親のもとで、子どもは成長していったのだ。
 
 小学校の卒業式でも、ぼくとパートナーは立たなかった。しかしまあ、キャラクターが浸透していたから、何事もなかった。せいぜい親しい保護者のかたから、イワシさんまた立ってなかったねーと指摘された程度だ。しかし、〈また〉ということは、〈前にも立たなかったのを知っている〉ことを意味する。
 中学校の入学式は、少し緊張した。他の学区からも生徒やその保護者が集まっていたし、厳かな雰囲気は小学校の比ではなかった。ここでもまた同じように、全員起立の号令のあとに、すぐさま国家斉唱が始まった。おそらく県の教育委員会が作成した実施要項が存在するのだろう。県教委の指導主事と、体育館使用の問題で交渉したときのことを、チラッと思いだした。かれはぼくのことを、あらかじめ調査しているようだった。
 中学校では、だから大人しくしておこうと決めた。子どものためにも、出しゃばるのは良くないと思ったからだ。学校の行事参加は、できるだけ控えた。しかし、夜のパトロールだけは、どうしても引き受けざるを得なかった。ここでもまた、男の人がいると心強いからという理由というか、大義名分があった。ぼくはお母さんがたと一緒に、懐中電灯を手に、夜の繁華街をパトロールして回った。
 サイタマの、東京に隣接した街は、同調圧力といったものはほとんどなく、人はそれぞれ、口出しはしないという、風通しのよい地域だった。だから過ごしやすく、長く居つくことができた。ただ、高校の受験が近づくにつれ、わが家は悩んだ。子どもの希望は、東京の私立学校へ行きたい、だった。学力からすれば、サイタマ県K市の女子高校が妥当だったが、どうしてもそこへは通いたくないのだという。近場の公立高校も、子どもの視野には入っていなかった。わが家には(ぼくのせいで)お金がなかった。率直にいって、貧乏だった。私立高校に通わせる余裕なんてなかった。しかし、子どもの希望をむげにはできない。結局、トーキョー都K市にある私立高校を受験させた。ぶじに合格し、晴れて卒業式を迎えることができた。
 ぼくは、卒業式の出席を遠慮するつもりだった。しかし、子どもから念を押された。「オトーサン、卒業式にはぜったい来てね」と。
「ぜったい来ないでね、じゃないのか」とぼくは混ぜっかえした。
「また、着席したまんまだぜ?」
「いいよ、そんなの慣れっこだから」
 サバサバとした調子で答えた。
 中学校の卒業式も、「全員起立」のアナウンスから始まった。ぼくとパートナーはもう、最初から立たなかった。慣れたもんだ、と自分に苦笑した。4回も不起立を繰り返したら、さすがに動揺はしない。裏声でだって歌えるものか。ぼくは天皇を嫌いじゃないし、いち人間としてはあのご夫妻を尊敬もしている。けれど万世一系を称揚する歌を、なにゆえ歌わねばならない? ぼくはまっぴらだ、断固拒否する、いままで同様、これからも。そんなことを考えているあいだに、国歌斉唱は終わっていた。
 さて、子どもがどうしても出席して欲しいといった理由が、式の後半ようやく判明した。3年間無遅刻・無欠席として、表彰されたのである。ぼくはうかつにも気づいてなかった。となりのパートナーに「知っていたか?」と訊ねると、かの女は「当然」と答えた。
「でなきゃ、推薦もらえるわけないでしょ」
 なるほどね。ぼくはため息をついた。おれには到底できないことだなと。
 
 穏やかな日和の四月、高校の入学式にも足を運んだ。K駅から20分歩く、(ロックオヤジの視点からすれば*)パンタやB'zの松本が通った学校である。
   入学式は、やはり厳粛にはじまった。エルガーの『威風堂々』が吹奏楽で演奏されるなか、新入生が入場するといった。が、壇上に日の丸は掲げられておらず、君が代を斉唱することもなかった。ただそれだけのことで、ずいぶん雰囲気が違う。和やかな入学式だった。これはぼくだけの感想かもしれないが、抑圧的な空気に支配されることのない式典に、5回目にしてようやく、めぐりあった気がした。
 単純なもんだ。
 それだけでぼくは、子どもがこの高校に進学できてよかった、と胸をなでおろしたのである。
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【追記】
 *日本のロック・ポップスにおいて、『君が代』を秀逸にアレンジしたものを、ぼくは3つ思い浮かべる。自由奔放なピアノ弾き語りをした矢野顕子バカラックふうに洒落のめしたピチカート・ファイヴ、そしてパンク調でぶっちぎった忌野清志郎である。
 これら3つの『君が代』は、万世一系の引力圏を逸脱しているように思える。とくに清志郎のそれは(糸井重里などに批判されていたものの)ぼくには痛快だった。間奏のベースラインが浮上し、『星条旗よ永遠なれ』を奏でるところで、清志郎が「おおっ?」と唸るあたりは、皮肉が効いていて最高だった。Char(チャー)もまた、ジミ・ヘンドリックスばりに『君が代』を弾きたおしているが、あの曲が持つ禍々しさから逃れるには至らなかったというのが、ぼくの感想だ。