鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

エミリーに薔薇を

 

註:これはウィリアム・フォークナーの短編小説について書かれた記事ではないことを、あらかじめお断りしておきます。

f:id:kp4323w3255b5t267:20140515095321j:plain
ひっそりと静まりかえった夜の庭園。
エミリーは息をつめ、忍び足で歩いている。
辺りには誰もいない、彼女ただひとり。
暗中模索のなかを、慎重に進んでいる。
 
 
門番が秘密の扉を開けたのだ。
「ここからお入りください、誰にも気づかれぬように。
ただし、わたしの鍵を預けることはできません。
案内することも、手をさし伸べることも。
 
どうぞ夜の散策を、ゆっくりとお楽しみください。」
エミリーは頷いて、それからひとりになった。
生い茂った草むらが、進路の邪魔をした。
枯れ木が横たわり、彼女の行く手を阻んだ。
 
いま自分のいる位置が、あいまいになってきて、
エミリーは立ちどまり、辺りを見まわした。
庭園の内側にいることはわかっていたけれど、
闇が支配していて、なにもかも定かではなかった。
 
ただ満月だけが、おぼろげな表情を浮かべて、
のっぺりした闇夜に、ぽっかりと貼りついていた。
月あかりに照らしだされた、塔を形どるシルエット。
エミリーはあの建物まで、進むことにした。
 
月あかりを頼みに、ふたたび歩きだす、
エミリーの袖や裾に、茨が絡みついた。
湿っぽい冷気が、肌にまとわりついた。
草木は夜露に濡れて、足下に沈んでいた。
 
 
ふと、どこからともなく、よい匂いが漂ってきた。
土や草から放たれる、重たげなにおいとは違って、
柔らかで、それでいて、刺すような香気。
エミリーは香りの漂う方向へ、誘われていった。
 
芳香の正体は、すぐさま知れた。
茨を掻きわけたそこには、おびただしい数の薔薇。
見渡すかぎりの薔薇が、庭園を覆っていた。
エミリーは息を呑み、その光景を見渡した。
 
薔薇の園があるとは、思いもよらなかった。
エミリーは躊躇いながらも、そのなかへ分けいった。
薔薇の丈は高く、彼女の胸もとに達していた。
彼女の全身は、薔薇の木々に埋れた。
 
色とりどりの薔薇の花が、エミリーに語りかけた。
わたしの色はどう? わたしの花びらはきれい?
わたしの匂いはいかが? もっとわたしを見てよと、
訴えているように、エミリーには思えた。
 
エミリーは、さまざまな品種の前に立ち、
その一つひとつを、愛でるように眺めた。
花弁に触れもした。外郭を指でなぞり、
顔を近づけては、鼻先に香りを嗅いだ。
 
エミリーは夢中になって、薔薇と語らった。
時の経つのも忘れ、薔薇と戯れていた。
ときとして薔薇は、するどい棘を刺す。
彼女の手や腕に、傷を負わせはしたが、
 
薔薇の放つ香りに、彼女は逆らえなかった。
闇夜に浮かぶ赤や黄や、朱や紫の花々に、
こころを奪われ、われをも忘れた。
エミリーは庭園のなかを、いつまでもさまよった。
 
……どれくらい時が経ったのだろうか?
時間の感覚が、まったく麻痺してしまった。
月は雲間に隠れ、闇は深みをまし、
べったりと張りついたまま、明けそうにもない。
 
薔薇との戯れに、疲れ果ててしまって、
ようやくエミリーはわれに返った。が、
ふり返ってみれば、途方もない薔薇の木々たちが、
彼女の帰る路を阻んでいるのだった。
 
エミリー、エミリー、まだいいじゃない。
エミリー、エミリー、ずっとここにいて。
薔薇たちのささやきが聞こえてくるようで、
エミリーは途方にくれて、動けなくなっった。
 
エミリーの背後には、古びた塔が聳えていた。
月あかりに浮かんでいた、シルエットの城塞が。
壁という壁に、蔓薔薇がはびこっていたが、
立つ気力もない彼女は、壁際に身を委ねた。
 
すると無数の棘が、エミリーの背を突き刺し、
彼女の白いドレスを、赤く染めていった。
しかしもはや彼女に、振り払う余力はなかった。
なすがまま薔薇に、絡めとられてしまった。
 
薔薇どもの群れが、視界を覆いつくし、
むせかえる芳香が、鼻腔をついた。
枝という枝が、腕や脚に絡みついたが、
このままでもいいかな、とエミリーは諦めかけた。
 
 
が、そのときエミリーの手を掴むものがあった。
蔓薔薇の抱擁から、強引に身を剥がし、
エミリーを抱きかかえるやいなや、その場を逃れた。
それは、秘密の扉を開けた門番だった。
 
塔の扉を開け、螺旋階段を駆けのぼり、
蔦の先の及ばぬ最上階まで運んだのち、
「危ないところでした、もう少しであなたは、
薔薇の虜になって、命を落とすところでした。」
 
門番が詫びるのを、ぼんやりと聞きながら、
エミリーはくすりと笑った、「お気になさらず」と。
そして、さっきまで薔薇と交わしたことばの、
一つひとつを思いだしながら、静かに目を瞑った。
 
やがて夜明けの光が、天窓から射しこんで、
蒼ざめたエミリーの顔を明るく照らしだす。
門番は不思議そうに彼女の微笑みを見つめていた。
エミリーの頬は薔薇色に染まっていた。