鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

女性上位ばんざい!

 例のやりとりが発火したのは、母性を前面に押しだした時点からである。それまでは教育と教科書の関連について、意見の相違はあれど、ある程度の相互理解と節度がみられた。しかし、かのじょらの母性が全開になった途端、かれはムキになってそれを否定しはじめた。はては母性は創られた感情であり、本能ではないと言い切る始末であった。学術的には、そういった見解は「有り」なのかもしれないし、母性が本能ではなく概念だとする科学的な論拠も、多くの学者によってすでに提出されているのかもしれない。が、それを噛んで含めるように教えるのが教育者の役割ではないのか? その面倒な手続きを放棄して、いきなり、あなたがたが大切にしている母性とやらは本能ではないですよ、あとから創られた感情に過ぎないのです、それも知らないあなたがたはバカですかと言われたら、そりゃ先生、母親ならずとも怒りますがな。バカにつける薬はなし、だろうが、バカに教えることを放擲してしまうのは、あまりにも賢明ではない。堪え性がないと言わざるを得ない。そういうやりとりを不毛だと思うなら、最初から絡まなければいいだけの話である。ぼくからみれば、かれは自分の優秀さを、自分よりも知力の劣ると思うものに、蓄えた知識をひけらかしているだけにしか見えない。かれはたぶん、実りある議論をするつもりなど毛頭ないのだ。ただ、手ごろな相手を見つくろって、因縁をふっかけ、溜飲を下げているだけにすぎない。その精神の不毛、おそるべき荒廃ぶりに、ぼくは慄然となる。かれは一見、理性的にものを言っているように思われるが、母性を懸命に否定するがあまり、感情的になってしまった。抑制のタガが外れてしまっているから、おちついて説諭することもできないでいる。

 ただ、かれにも同情すべき点がある。まるっきりないとは言えない。ぼくは男性だから、その狼狽ぶりがよくわかる。かれを擁護するわけではないが、ここは今一度押さえておく必要があると思う。

 母性を盾にとられると、男性は反論しづらい。母性に勝るものはないと、母性を前面に押しだされると、たいていの世の男性は気圧されてしまう。議論の余地なしと断定されたような気になって、返すことばを失くしてしまう。それは母親の絶対的特権でしょうと反撥してしまいたくなる。とくに独身男性にとっては、子を持つ母親に、あるいは家族というものに、嫌悪ないし侮蔑を抱きがちである。それはコンプレックスの裏がえしとも言えよう。自分がまっとうな家庭を築いていないという、負い目にも似た感情。概念としての母性をいくら否定しようが、揺るがせのない、岩盤のような壁に阻まれ、母性に屈服してしまう。だからその種の男性は、それを避けようと、ありとあらゆる論理の手管をつかって、母性を否定しにかかる。
 ぼくもかつてはそうだった。母性が鬱陶しく、疎ましかった。躍起になって母性から逃れようとしていた。母性を前面に押しだした母親たちの姿勢に、ある種の居直りを感じていた。それはちっとも論理的ではなくて、感情的で、しかも抑圧的であり、母性こそが権力構造を裏支えしているとさえ、若いころは思っていたものだ。わが子を守るという命題に対して、母性は最大限に発揮される。その、わが子を守るという断乎たる姿勢が、保守的であり、封建的であり、自由民主党的な家族回帰、しいては国家=家族的な発想に繋がっているのではないか? と疑ってみたこともある。
 なるほど国家権力は、つねにそういった感情を掬いあげ、巧みに利用する。家族の愛、きょうだいの愛、友人との信頼関係、隣人愛、地域との結びつき、郷土愛etc、そういったもろもろの市井の人々が持つ、素朴な感情を、『絆』という大カッコで、一括りにしてしまう。母性はその最大の盲点であり、攻め所でもある。ほらお母さん、あなたの子どもさんを守りたい本能は、普遍のものなのですよ。だから国家は、外敵からお子さんを守ります。余所から攻められないように、国防を強化しましょうというふうな、姑息な理屈でもって、国民を騙そうとする。それを声高にはいわない。ただ潜在意識を擽るだけでいい。最近犯罪が多くて怖いですね、と耳もとで囁けば、母親は見えない外敵からわが子を守ろうとする。よくわからない他国を敵視するようになる。しかしそれこそが、国家権力の狙い目なのだ。母性という本能を、かれらは徹底的に利用しようとする。そしてそれが、排除へとつながる。
 母性に裏打ちされた感情のつよさに、男性、とくに独身男性はたじろぐのだと前に書いた。それと同時に、母性を持たない者は、自分が疎外されたと感じる。しょせん自分は母性なる性を持ち得ない。出産できる肉体をもたない。子どもを守る意識を価値観の最上位に置く母親には、なりたくともなり得ない。だから、ぼくはマイノリティなのだ。母親であることを前面に押しだすあなたがたと、マイノリティであり被抑圧者であるぼく(ら)は、永遠に相容れない。ぼくらは害を被っている。母性なきものは、母性あるものに駆逐されかねない。だから、そういった既存の価値観にあぐらをかいた動きには抵抗する。アンチ母性。知性は、母性を撥ねのける武器であり、防禦する盾でもあるのだ……。
 かれが、ほんとうに言いたいことは、おそらくこんなところだろうと想像する。もちろん認めるのが恥ずかしいから、口が裂けても言わないだろうが。自分は被抑圧者である、偏見や差別とたたかうために母性に対しては容赦しない、そんなものは幻想なんだ、なぜそれがわからない、だからあんたがたはバカなんだ、抑圧されているものの苦しみを知らないから。と、自分の立脚点を正当化するために、思考はフル回転する。正当性を主張するためにさまざまなデータを用意する。自分が優位でいるために、学問の砦に篭り、理路をもって整然と欠点を糊塗する。
 まあ、いいさ。これ以上かれの心理状態を分析するのはやめよう。言いすぎや過失を永遠に認めないことは、もはや明らかなのだから。
 ぼくかい?
 ああぼくは、そののち宗旨替えした。いまのぼくは母性を否定していない。たとえ母性本能が後づけで創られた概念であったとしても、まったく構わない。ぼくの母性への肯定は、一朝一夕に、なんらかのきっかけでドラスティックに変わったのではなく、ゆっくりと時間をかけて醸成されていった。もちろん家庭を持って、子どもを授かった過程は、最大の理由には違いないけれど。べつに父親になったから責任を感じて、というわけでもない。父親になる以前から、母性的なるものへ、母性を軸にしたものの考え方に、自然と傾いていったように思う。
 唐突だが、ビートルズの影響はやはり大きかった。ビートルズのうちの、ジョン・レノンポール・マッカートニーは、同時代に生きる人々のライフスタイルにも大きな影響を与えた。かれらが伴侶として選んだ二人の女性、オノ・ヨーコとリンダ・イーストマン。かのじょらをパートナーにしたジョンとポールは、新しい男女の在り方に新たな示唆を与えた。それはすこぶる単純な思想である。女性は男性の隷属物ではない、という思想だ。ジョンとヨーコ、ポールとリンダは、それぞれの実生活で、それぞれに似合ったタイプの思想を実践していった。しかしかれらのように、女性を対等とみなすことは、簡単なようだが、おおかたの男性には難しい。つい既存の価値観に安住して、女なんてもんは、と軽視してしまいがちだ。これは日本のみならず、人権意識の進んだ諸外国でも、いまだに解決していない、根源的な問題であろう。女性が対等になることを、世の男性はまだ心底で恐れている。女性が優位に立たないように、男性は力で支配しようとする。せめぎあいは、70年代に顕著になり、いま現在に至るのであるが、そういった時代の変化とともに、ぼくの意識もまた変容していった。時代の声に耳を傾けていると、そのことがよくわかる。だから、ぼくは女性を、女性の放つことばを、女性としての生き方を、ありようを、全面的に尊重し、肯定する。一般的に言われる、女性のずるさだとか、論理的一貫性のなさだとか、そういった負の部分もひっくるめて、ぼくは女性の側に立ったものの見方をする(ように努めていると、逃げもうっておく)。
 オノ・ヨーコが宣言した、「女性上位ばんざい!」。それをやりすぎだという意見もあるだろう。しかしそこまで声高に主張しなければ、不均衡は是正されない。いまなお残る女性への偏見は、世紀を跨いだいま、そこかしこで復活の狼煙をあげている。そして最近では、なんと当の女性から、その声が挙がりはじめている。隷属に安住していることが女性の幸福だと言わんばかりの、後退した思想の流れが、社会の底流から浮上してきている。この不気味な動きに注視しなければならない。かのじょらを唆しているものはなにか? 誰か? その正体をしっかりと見極めなくてはならない。
 女性上位ばんざいと、もう一度ぼくはさけぼう。誤解してほしくないが、それはジェンダーという名前の学問とは、まったく無縁の感情である。ただ率直に、そう思う、だけのことである。女性上位だからといって、女性の下に隷従しようって魂胆があるわけではない。ただひたすらに等しくありたい、そう希ってやまないこころの表れである。あらゆる差別や偏見は、この世から一掃されるべきである。LGBTはもちろんのこと、思想的な差異や地域的な偏差も、人間の智慧と誠意によって、解消できるはずだと考える。きわめて楽観的な考え方だし、そんなのできるはずはないよと揶揄されるかもしれないが、誰かの上に立つことによって自分のいまが成立しているくらいなら、むしろその位置から率先して降りたい。降りた位置から世界を眺めてみれば、まったく違った地平が眼前に現れることだろう。
 学者さんよ、降りてきなさい。あなたの憎む、バカものどもの地平まで。バカだばかだと思っていたものが、あんがい捨てたもんじゃないってことに、あなたはいずれ気づくだろう。そのときに反省の弁を求めたりはしないさ。ただ、母性が知性の妨げにはならないことに、母性が多様性の妨げではないことに、気づいてさえくれればいいんだよ。そうすれば母性は優しく包む、あなたのような利かん坊でも。
 
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 この3曲をお薦めするよ。
 
 
 
 
     さらにもう1曲つけ加えておく。