クリスマスのジングルが鳴り響く雑踏の、人の波を掻きわけて男は走っていた。
今日が何の日だったかうっかり失念していたのである。
「まったく、なんてこった。覚えていなけりゃならないことを、かたっぱしから忘れてしまう……」
息を切らしながら、目的地へと急ぐ。男の視界がどんどん狭まってゆき、すれ違う人や看板や飾りつけのかたちが、次第に失われ、色とりどりのなにものかに変わってゆく。
「おれはなにを焦っているんだろう。なにかに取りつかれているみたいだな」
独りごちながら、階段を駆けのぼる。風が頬を切る。冷たい雫が目に刺さる。今にも雪が降ってきそうな、低く垂れこめた雲が、街に覆いかぶさっている。
「たしか、ここだ……」
吹きさらしの踊り場のような場所で、男はふと立ちどまる。それから、周囲を気ぜわしく見渡す。周囲には誰も見あたらない。男ははあっと大きく息を吐き、ちぇっと短く舌をうつ。
「約束したわけじゃないからな。くるわけがないさ」
コートの袖をまくり、腕時計を確かめる。時刻は6時を指している。
あと2分。6時02分に、やってくるはずだ。
何かが、やってくる。道を隔てた向こうから、かすかな衣擦れの音をともなって。おごそかに、しかもさりげなく。何気なくを装って。
「落ち着け。なんてことないさ、んなこと、日常茶飯事だ」
やがて大きな力が、男の頭上に圧し掛かってくる。信じられないほどのスピードで、男のからだを取り巻き、検分し、腕を絡め、舌を這わす。
彼女が、やってきたのだ。
「……ごめんね。待った?」
「いいや、ちっとも。おれも、いま来たばかりで……」
男の喉はからからに乾いている。声が擦れて巧く喋れない。なにか気の利いたことをいわなければという思いに苛まれるが、そう思えば思うほど、ことばの接ぎ穂が見つからない。
「ここに来てくれるって思っていた。一昨年も来てくれたし、去年も来てくれた」
男は、圧力に耐えている。膝が、がくがくと揺れる。全身が、ひどくだるい。からだ全体が、急に熱を発し、冷や汗が蒸発し、感覚器官すべてが正常に働いていない気がする。
「……どこか、行かないか?」
違うところで、と言いかけたが、ことばにならない。ただ、男の耳もとで、ここでいいじゃないというささやきが、かすかに聞こえただけだ。
「たった一分間だけなんだもの」
ここでいいわ。彼女はそうつぶやくと、あっという間に、男の本質を、男がこの1年間で培ってきたもろもろのもの、誇りとかプライドだとか、ささやかな幸せのしるしだとか成功の手ごたえだとか、ちょっとした愉しみだとか後ろめたい思いとか、要するに男がこの1年間で経験し、体得した一切合財を、まるで借りた金を一銭残らず回収してしまう因業婆のごとく、確実に、ひとつも残らず、奪い去ってしまった。
まったく、ひとつも残らず――
「これであなたの今年一年は、ぜんぶいただき。
あとの残りかすは、自分で捨てておいてね」
彼女は、さいごに男の唇に指で触れ、また来年ね、と言い残すと、風のように、踊り場から立ち去っていった。
男は、いま触れたばかりの、女の指先の感触を、自分の指で確かめてみた。
さっきまで彼の周囲を支配していた圧倒的な重力は、いまでは潮が引いたように、きれいに拭い去られていた。
街の喧騒が、男の耳によみがえってきた。レット・イット・スノーという男の声が、響き渡っている。鼻歌まじりで、男は階段を駆け下りた。誰が歌っていただろうこの歌は、そんなことを考えながら。
6時02分の逢瀬については、まったく、なにも、覚えてはいなかった。