鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

福岡史朗『=7』に寄せて 瑣末な事柄を穿ちつづける

 『=7』は福岡史朗、7枚めのアルバムである。

 福岡の音楽の虜になってから早幾年、彼の驚異的な創作意欲はとどまることを知らない。2020年も収穫の季節に二枚組が届けられた。あいかわらず装丁がすばらしい。見開きの紙ジャケット

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同時代の表現者として福岡史朗に信を置く(中略)感想は近々、月末には投稿するつもり。 

 などとツイートしてから早くも一ヶ月余が経ってしまった。誰が待っているわけでもないのに、気ばかりが急いて、そうこうしているうちに年末は過ぎ、正月を迎えた。ばくは宿題を片づけられない子どもみたいに、悶々とした日々を過ごしていた。

 感想を書くのに、これほど手こずることは滅多にない。ぼくにとって『=7』は手ごわい作品だ。今までの福岡史朗のどれよりも身体に浸透するのに時間がかかった。や、誤解しないでほしい。本作が聞きにくいとかつまらないとかではない。その逆で、これほど愉しくなる音楽は滅多にないと先に断言しておく。ただし、音楽のたたずまいに馴染むには少々時間を要する。ぼくの場合、福岡史朗独特のナラティヴ、すなわち語り口に慣れる必要があった。その理由はおいおい述べる。

 

 二枚組『=7』と、今まで福岡が発表してきた諸作との違いは、今回、彼がほとんど全部のパートをみずからの手で演奏しているという点だ。とくにA面ならぬA diskは、ゲストなしの完全な一人多重録音である。

 これは、新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため戒厳令下みたいになった本邦の状況でやむなく、の側面もあるだろう。が、あんがい一遍は全パートを自分一人で演ってみたくなったという単純な理由かもしれない。

 一方のB diskはゲストにギタリストの青山陽一と鍵盤奏者のライオンメリーが数曲に招かれている。けれども、基本的にはやはりセルフレコーディングである。ちなみにAは31分40秒、Bは35分11秒。合計しても一枚に収めることが可能な時間だが、あえて二枚に分けているのだろう。

Recorded at Ginjin Studio/Mixed by 福岡史朗

Mastered by 高橋健太郎 

Pictured by 伊波二郎

Designed by 真木孝輔

  

【まずはA diskを聴いてみよう】

01.遠くから

02.=7

03.カフカ

04.今夜

05.闇が溶けて行く

06.通り雨

07.マグカップ

08.ジグザグ轍

09.相槌

10.造花

11.ロータリー

All songs written by 福岡史朗

Vo/Cho/E.G /A.G/G.G/Ba/Dr/Conga/Tabla/Per/Pf./Syn/Rhodes/Pianet.T/Banj/F.Mand/VI 

by 福岡史朗

 ジョン・サイモンの『ジャーニー』を思わせるしゃれた和音ではじまる(なお、今回は「◯◯みたいな~」を全面解禁する。そのほうが読む人のとっかかりになると思うから)。その温かいギターの音色に乗せて、福岡はいつもより心なしかていねいに、ダブルトラック(一人二重唱)で歌いだす。「遠くからやって来るものを想像してごらん」と、面と向かって語りかけられているようだ。

 歌の旋律に対位するベースラインの向こうに、カチカチと鳴る音がかすかに聞こえてくる。メトロノーム? 違うかもしれないが、メトロノームの振り子の往復が目に浮かぶ。

 そういえば福岡は、多重録音で音を重ねるときに何をテンポの基準にしているのだろうか。クリックじゃないような気がする。ひょっとしたら、自分の弾いたギターなりピアノなりに合わせているんじゃないか。どうもそんな気がする。

 あれこれ考えているうち、ゴツゴツしたピアノが新たなテーマを提示する。サンダークラップニューマンみたいな音色で、なにかが空に潜んでいることを報せる。気がつけば、いつの間にかタイトル曲の「=7」に突入している。福岡は「ふたつを足せば7になるだとさ」とヒントを与える。それが何の暗示だか、考えを促すように。不穏なビートが奥の方で鳴っている。ずっしり、重い。そのリズムが解け、ドラムスがとっ散らかったオカズを叩きだす。収拾がつかなくなったかと思いきや、えっちらもっちらと次なる主題が混沌のなかから浮かびあがる。

 ここにいたって、聞き手のぼくはようやく福岡の構想に気づく。これひょっとしたら全部つながってんじゃないか、と。簡単にいえばメドレー、大仰にいえば組曲、例えれば『アビーロード』のB面。3分前後の短い楽曲が、間断なくくり出される形式。福岡は「睡眠導入剤よろしくカフカは飾り」とうそぶくけれども、モータウンみたいに愉快なリフレインのうえに「高利貸し(氷菓子)みたいな詩人が殺しにきます」なんて物騒なラインを挿みこむ。詞が何をほのめかしているのか、正確なところは掴めないが、聴きながら思いめぐらす、この心理状態は悪くない。ルー・リードはかつて自分のアルバムを「本を読むように聞いてほしい」と注文したが、そういえば『=7』も、二枚組のヴォリュームとは裏腹に、良質な短編小説集の趣がある。

 さて、お次は福岡お得意の軽快なロックンロールだけども、快速ですっ飛ばすというより、いまいちエンジンのかかりが悪い。理由は彼の叩くビートが重たいせいだ。大久保由希の不参加を思う。各アルバムでドラムスを担い、前作『+300gram』ではベースを弾いていた。彼女が各パートのあわいを巧く接着していたからアンサンブルが安定していた。多重録音の宿命かもしれないが、今回は継ぎ接ぎが目立つ。いや待て、これもまた福岡の企図かもしれない。

 その証拠にホラ、固まってしまったはずの深い夜の闇は、ラジオから君の歌声が流れたとたん、「夜が明けて道が開け雨が上が」ったみたいに溶けていくのだ。なんだ軽いビートも叩けるじゃん。ばくは安堵する。となれば、後退り気味のドラムは、ディアンジェロヴードゥーでクエストラヴに要求したモタりと同種のものなのかもしれない。ともあれ、福岡は独りでもバンドをドライヴできるのだ。

 その独力アンサンブルの極みが「通り雨」で、ここで福岡はなんとヴァイオリンに挑んでいる。それは試みたというよりも、楽器は音を奏でるための道具なんだから鳴らせないはずはないさ、という確信があっての演奏だと思う。決して巧いとはいえないが、田園の雰囲気をみごとに描きだしている。ビートルズは「できないってどういう意味だい? なんだってできるさ」とスタジオのスタッフを説きふせていたそうだが、それは不遜や驕りではなく、やってみようじゃないかという意欲の表れであろう。その姿勢を福岡は受け継いでいる。

 にしても「通り雨」は辺鄙な道筋をたどる。主音(キー)がCとして、「虫の時雨か通り雨」の箇所に差しかかると、いきなりE→A→Cと寄り道してGにいたる。わりとありふれたコード進行だのに、なんだか響きがヘン。9thやmaj7を絡めたシの持続音で連結したところへkinkyな歌メロを強引にねじこんでくるあたりが、耳を引っ張られる要因ではないか。

 続く「マグカップ」にも同じことがいえる。ロールオフを交えた重厚なリズムは、後期XTCを彷彿とさせる。伏せたマグカップや失った鍵といった近景から、窓越しに舞うつがいの蝶が「まだらな雲に紛れ」て遠景へとフォーカスが移る。まーだーらーなーの長音で外側までぶわっと運ばれる感じがたまらない。こういう情景描写の奥に心理のうごめきが反映されている音楽はきわめて稀だ。私的なようで、そのじつ叙事詩のような、ニール・ヤングの「ドント・レット・イット・ブリング・ユー・ダウン」にも似た果てしなさがある。

 かと思えば、シリアスの直後に田舎のでこぼこ道を思わす、牧歌的な「ジグザグ轍」を次に切り出すあたりが一筋縄ではいかないところで、それでも、末尾の「やあ!」が“Ouch !”に聞こえたりすると嬉しくなって頬が緩んでしまう。4曲めの「今夜ぁ」もそうだけど、つい口ぶりを真似たくなる。やつは不思議なエロキューションの持ち主だ。

 それに、福岡の操るシンセサイザーも個性的だ。彼はいわゆるストリングスやブラス等の立派そうな音色を使わない。ひゅるひゅる鳴る剽軽な音色や、みゅーんと唸るむず痒い音色を選ぶ。あえて例えれば、サン・ラや初期のブライアン・イーノに通じるが、ありきたりな音色は使わんからねという強い意思を感じる。アウトロ(後奏)の逸脱はやや度を過ぎているようにも思えるが、それはたぶんローラ・ニーロいうところの「音楽は真剣な遊び場」的なココロなんだろう。

 間髪いれず、カッコいいフィルインが斬りこみ、ソリッドな「相槌」が始まる。シングルカットするならコレだな、とぼくは独りごちる。ロビー・ロバートソンみたいにパキパキしたギターソロもいかしているけど、「ためたクーポンや無闇に浮かれた週末になりたくないと」の一行が、鮮やかにこんにちの状況をカットアップしているではないか。

 それがポピュラーに属するかぎり、音楽は社会とのかかわりを免れない。なにも激しい口吻で現実ありのままを撃つ必要はないが、未だ本邦にあふれる明日は晴れるや今がんばろう式の励ましソングには具体的な事柄が何にも示されていない。ただ空虚に聞き手を応援するだけだ。福岡の歌はそれらと一線を画する。スマートに、しかし確実に、数多ある社会問題を照射する。

 呑気に聞こえる「造花」にも、それは言えることで、偽物が耳障りのいい言葉を囁く、フェイクに塗れた世の実相を容赦なく暴きだす。朴訥に聞こえるピアノの間奏にしても、誰もいないと思っていても何処かでエンジェルが監視しているような、不吉な響きを醸しだす。この緊張感はなんだろう。ぼくは最初このメドレーを『アビーロード』に例えたが、切実さはむしろデヴィッド・ボウイ『ロウ』のA面に近い。そしてその緊張を裏づけるものは、福岡史朗の歌唱力。今回もっとも向上が著しいのは、歌声そのものの強靭さ、伸びやかさだと思う。

 半音あがってブリッジという技アリの後、最終曲の「ロータリー」がさりげなくはじまる。60年代カレッジフォークみたいに素直な曲調だが、歌詞には苦い悔恨が滲んでいる。かの「青空」を引きあいにだすまでもなく、バスは移動と希望の象徴だ。が、今やバビロン行きのバス停は、行き場をなくした孤独を抱えた人が佇む場所になった。それに運転手さんはもはや簡単にぼくたちを乗せてくれない。

 待ちわびた風が吹きロータリーにバスが流れ着く

 きっと飛び乗れば違う世界に行けるでもまあ止めよう

 ギターを担いで全国のライブハウスをめぐる、痩せっぽちな後ろ姿を想像する。コロナ禍の今、ミュージシャンは音楽活動を事実上封じられている。人前で演奏できないディレンマを抱えて日々を過ごす彼・彼女らの心情を思うとせつない。けれども、歌はどんな形でもいいから人から人へと伝達されなければいけない。福岡は“GoTo”の掛け声には「乗らない」意思を示した。が、漂泊の魂をのせた現代の吟遊詩人が歌う歌を、ぼくは待望している。バスに乗り遅れたっていい、その時まで、このアルバムを聴き続けよう。

 

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次いでB disk聴いてみよう

01.弦

02.ブルーバードブルー

03.木霊

04.タブタップ

05.ジョーニーの小部屋

06.欺瞞の渦

07.ジャズ

08.君が出て行く

09.動きだす音楽

10.記憶のムード

11.空

 

All songs written by 福岡史朗

except song 01 with 青山陽一

Vo/Cho/E.G /A.G/G.G/Ba/Dr/Conga/Per/Pf./Syn/Rhodes/F.Mand  福岡史朗

E.G (song 01.02.03.04.05.06.07.09.10) by 青山陽一

Pf./Rhodes (song 03.04.06.09) by ライオンメリ

  2枚めに収められたナンバーは、スポンテニアスな即興が重視されたものだ。とはいえ、形式を逸脱してはおらず、先ず土台となるリフレインがあって、そこへ自由な発想をトッピングするスタイルだ。

 動機となるは旧くからの伝統的なリフレインが大半だが、紛いものの気配は微塵もない。それはパガニーニの主題を用いて作曲したリストやラフマニノフのような再構築という名の創造であるから。サンシャイン・ラヴみたいなリフやディグ・ア・ポニーみたいなワルツは、着想を推し進めるきっかけに過ぎない。

 間を活かすに達者な福岡のギタープレイの間隙を縫うように、ゲストの青山陽一は粘っこいフレーズをくり出すが、この対照的なスタイルは狙ってのものだろう。さっぱりしたそばつゆに胡麻油を垂らしたようなチョーキングが、コシのある楽曲に旨味を加える。

 ライオンメリーの弾くローズピアノも同じく、福岡の明快な音像に曖昧模糊とした要素を加え、楽曲に奥行と陰陽を与える。いったい何をどのように弾いているかは杳として掴めないが、あるとないとでは印象もがらりと変わるだろう(例外として「動きだす音楽」の華麗なピアノソロにはラテンフレーヴァーがかすかに漂う)。

 しかし、単純なようで複雑な編曲だ。モチーフのリフレインに違う要素が次々と絡みあう。シンセサイザーが奇妙なフレーズを織り重ねる。古典的な様式に思えても意匠は新しく、ノスタルジアには陥らない。ちゃんと2020年製の音響になっている。

 最初ぼくは、クリック(電子音による規則的な拍子ガイド)を用いていないのでは、と疑った。その推測をすすめると、どうしても福岡の設けた録音プロセスにおける独自ルールに気づかざるをえない。

 例えば福岡は、リバーブ(ここでは残響を加味するエフェクトを指す)を殆ど使わない。とくに歌声には絶対に使わない。彼の歌声はいつもドライなままだ。生々しく、エッジが際立っている。ユニゾンで歌うと特有の倍音が発生する。それは初めて「たまさかの町」のコーダ部を聞いたときにも感じたことだが、彼には独特の“音程”がある。容易に混じらない、埋もれない声質。だがそれゆえに、ややアウトofキーに聞こえることもある。そのファンキーさに親しむのに、一般の耳には少し時間がかかるかもしれない(でも、慣れるとクセになる声だ。わがパートナーは「タブタップタップダンス、タブタップタップダンス」と呪文みたいなリフレインを何気なしに口ずさんでいる)。

 同じことは楽器の調律にもいえる。福岡は電子チューナーを使わないのではないか。先の「通り雨」で感じたことだが、彼のアンサンブルは時として古楽器のそれに似通った響きがある。それは平均率とオートチューンに馴らされた耳には違和と感じるけれども、その響きを調和と認識すれば、好き嫌いの位相もたちまち逆転するのだ。

 この唯一無二の音楽を、もっと多くの人に知らせたい。だからぼくは、自分が面白く感じたことをこうやって書きつらねている。オッケーそいつがロックンロールさ、理屈も解説も不要だぜと構えてみたってなにも始まらない。ぼくみたいな素人さんは微に入り細を穿つことでしか対象に近づけない。福岡が生来的に備え持つファンクネス。それがどういう意味だかを解こうとするのが、僭越かもしれんが、ファンのつとめだと思うから。

 福岡の音程について、語るべき事柄はまだまだたくさんある。たとえば第3音の歌い分けについて。主音がドのとき、ミの音が乗っかったりぶら下がったりするけれども、彼はその峻別を誤らない。計ったみたいに正確で、しかも規則性がある。それ本人はどこまで意識して歌っているんだろう。

 また、タイトルの『=7』にも通じることかもしれないが、福岡のたどる旋律は、ことごとく7thを経由し、それどころか7thを単なる経過音とせず、♭(フラット)そのものを強調し、メロディーの核に据えることが頻繁だ。が、そういった傾向をどれほど自覚しているんだろう。

 ぼくはそれらの疑問を訊ねてみたい。それがブルースさ、ブルーノート・スケールというんだよと教えてくれなくてもいい。「ジャズ」というナンバーには、ミュージシャン特有の自己韜晦が感じられる。それは風刺かも知れないし弁解かもしれない。が、分かるやつだけに分かってもらえればいいという、表現者にありがちな思い上がりとは無縁であってほしいし、かかる疑問にたいする回答は、ぜひ次の作品に結実してもらいたい。

 えらそうなことを書いてしまったが、これも福岡が音楽に誠実であるからこその注文なんだ。彼の作る人工的な夾雑物のない、オーガニックな楽曲は他に類をみないものだから、なるだけ自力でまかなうD.I.Yの信条を堅持しつつの、さらなる活躍を心から願っている。

追記:<彼の作る人工的な夾雑物のない、オーガニックな楽曲>の部分について。福岡はレコーディングにあたって、ProToolsに代表される音楽制作ソフトウェアを使っていないのではないか。ひょっとしたらリズムマシーンさえ使っていない可能性がある。少なくともぼくの耳に聞こえる演奏は全パートが手弾きで、自動演奏の気配がまったく感じられない。ローテック志向はテクノロジーを拒否する偏屈さゆえにではなく、彼がみずからに課したルールなのだと考えたい。これは今回の『=7』のみならず、彼がソロになってからの諸作に共通していることだ。なぜ人力にこだわるかって? それはたぶん、生演奏のほうが弾いても聴いてもおもしろいから、じゃないかな。

 ラストの「空」は、チターを模したシンセサイザーの音色やMajer7thの平行和音が、ちょっとラングレンを思わせる、浮遊感ただようナンバーだ。こういうメランコリックなバラードをさらりと書きあげてしまう福岡史朗の才覚を、ぼくは微塵も疑っていない。

 

 

【公式インフォメーション】

ginjin-record.blogspot.com

 

 

 【過去記事(初出より順に)】

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架空のライナーノーツ『21世紀のプロテストソング』

 

21世紀のプロテストソング』は岩下啓亮が2002年に自主制作した作品集の題名である(未発表)。

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 今回、久しぶりに聞き返してみた理由は、9月18日に亡くなった友人Uの遺品に、ぼくの録音したCDが多く残されていたからである。

 音楽活動をやめて十数年が経つ。過去の自作を聞く機会はほとんどない。この『21世紀』を聴くのも数年ぶりだった。というのも、ぼくにとってこれはラストアルバムに相当するので、聞くと少なからずシンドい思いを抱くのだ。

 しかし、2019年の現在に、本作の訴えようとしていた事柄が、当時よりもリアルに伝わると感じるのは錯覚だろうか。アレンジや言葉づかいは時代の影響で古くさく聞こえる部分もあるが、提示した問題意識は、むしろ今日の社会状況に通低しているようにも思える。

 それでは『21世紀のプロテストソング』全16曲の簡単で散漫な解説を試みてみよう。とはいえ、その音楽を(このテキストを読む)あなたは聴くことができないのだけども。架空のライナーノーツとして(笑)想像していただきたい。

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マスターCD-Rのインデックスより

 

1. I Believe

意表を突いたカントリー&ウェスタンスタイルのオープニングナンバー。曲を書いたきっかけは、ある護憲集会で「明日があるさ」の替え歌で「憲法があるさ」と歌われていたので、それならオリジナルな新しい歌のほうがいいじゃん、との思いから。でも気後れして提供するにはいたらなかった。

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2. バンガロー

漢気あふれる歌を書いてみたかった。現実の自分の非力さ、自信のなさにうんざりしていたから。ラップの内容は当時よく読んでいた斎藤貴男の著作に影響を受けた、典型的ワナビーな歌詞だ。アレンジもあまり企まず、シンセ等もあるがままに弾いた。

 

3. ワルツアメリ

世紀を跨ぐ前後に、アコースティックギター一本で弾き語りできる歌を多く書いた。ボブ・ディラン気取りでね。ミドルエイトの歌詞が映像的で大好きなんだけど、今聴くとリズムパターンがちょっとうるさいな。

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4. 渚のハレーション

これはレナード・コーエンの影響下にある旋律。沖縄について書いたつもりだったが、むしろ今では本邦のことを歌っているように聞こえる。アレンジは遠近感や明暗のコントラストといった「対比」を意識している。

 

5. あいにいかなくちゃ

ディラン、コーエンときて、これはポール・サイモンの真似っこだね。でも、日本のポップスに顕著な歌う人=主人公の過剰な自意識から解放された、コメディふうの歌詞を目指していた。それの表れ。

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6. モノリス Monolith

ぼくの歌詞にはダブルミーニングが多いけど、「野を駆ける子どもたち」を「脳欠ける子どもたち」と空耳されたときは、さすがに深読みし過ぎだよと思った。あと、もともとの曲調はボサノヴァ的な軽い雰囲気だったのが、音を重ねる過程で雄大なロックになってしまった。

 

7. あなたの影になりたい

これを書いた経緯は別稿に詳しく書いている。

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

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8. ひとりぼっち・ともだち

たぶんR.E.M.みたいな歌を書いてみたかったんだろう。天気の話・政治の話のくだりなんか、もろ。だけどじつは、この歌の真のテーマは「自分に飽きていること」だと思う。だんだん自己模倣に陥っているような危機感を覚えていたんだ。

 

9. ルサンチマン Ressentiment

ある方に、ロイ・ハーパーみたい歌だねと言われたが、ま、オープンチューニングで曲を作ると、どうしたってトラッドっぽくなるよね。歌詞はなるたけ呑みこみにくい語句を意図して選んだ。

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10. ロック・ミー・ベイビー Rock Me Baby

冒頭曲のバリエーション(変奏曲)だとは録音した後になってきづいた。没にしてもよかったんだけど、ここに置いたら納まりがよかったんで。ぼくなりのR&Bを刻んでおこうと思った。

 

11. スイート・イマジネーション

だとすれば、これはぼくなりのグラムロックだね。ラジオを聴きはじめたころの感覚を思いだしながら作ったけど、先日なくなったリック・オケイセックがエンディングを聞いたら苦笑するかもな。

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12. どれくらい Slave To Cry

で、ネタばらしのようだけど、この楽想はピート・タウンゼンドへのオマージュ。(本邦のポピュラー音楽の大半を占める)恋愛の初期衝動についてばかりではなく、彼のように生と死、社会と個人、労働と生活についてのシリアスな歌をつくりたかった。

 

13. いついつまでも

では、日本ならではのポピュラー音楽とは? と考えたら、このヨナ抜き音階の旋律が降りてきた。高峰三枝子の「南の花嫁さん」みたいな曲調だが、ジャズ系のギタリストからは「(ウェザー・リポートの)ブラック・マーケットかい?」と訊かれたな。違うって。

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14. ワルツアメリカ Ⅱ

3曲目の「ワルツアメリカ」では友情・愛に満ちあふれたアメリカの理想を歌ったが、ブッシュ政権下のアメリカには、絶望しか感じなかった。それで対をなす「Ⅱ」を書いた。幻聴かもしれないが、ぼくにはエンディング近くで吹きこんだはずのない「アメリカー」というコーラスが聞こえる。

 

15. 4000マイル

惜別の歌。終わりの予感を抱きながら、この歌を録音した。長年使っていたTEACの4trkレコーダーは既に相当ガタがきていた。playボタンが割れたとき、あー終わったな、と呟いた。これは80年代のニューウェーブにアレンジの着想を得ている。

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16. Good Morning ×4

影響されたジャンルを一通りおさらいした前の曲で終わらせるつもりだった。が、あまりにも救いがないと思った。根が楽観的なぼくは、明朗な曲調でアルバムを締めくくりたかった。ワグナーとハンターみたいなツインリードは、新たな道へのファンファーレだった。

 

 

 というわけで、総計66分10秒の16曲をざっとふり返ってみたが、ぼくはこのアルバムを親しい友人や世話になった知人に配った他は、目立ったアクションを起こさなかった。本作を聞いた人数はおそらく三十人にも満たないだろう。

「ワルツアメリカ Ⅱ」の歌詞にもあるように、「誰もなにも言わな」かった。いいとも悪いとも言われなかったが、当然だと思った。ぼくは最早、評価を求めていなかったし、この作品群を携えて世に問うといった気概もなかった。いや、あえて自らの考えを世に問うとすれば、その手段は音楽に限らなくともよい、むしろ文章のみのほうが伝わるかもしれないと考えていたのだ。

 もちろん、つくった音楽に自惚れていたわけではない。むしろその逆で、なんだかオレ洋楽の翻訳作業に勤しんでいるだけかも? と疑いはじめていたし、作風が固まってくるにつれマンネリ化は否めず、自己模倣すなわち過去作品の焼き直しに陥っていると感じていた。だからといって外から新奇なアレンジを取り入れることが挑戦だとも思えず、また、常に内側から湧き出ていた創作意欲も薄れ、自宅録音のアナログなプロセスにも倦んでいた。

 そんなわけで、ぼくの音楽活動は2002年に終わりを迎えた。わりとあっさりと、極私的に、静かに。後悔がなかったわけではないし、煩悶する夜もあった。何曲か録っておきたい未完の楽曲もあった。しかし、ある程度ぼくは満足もしていた。言っておかなきゃならないことは今とりあえず言っておいたからな、という手応えがあった。2002年にぼくが何を思い、何を考え、そして何に憤ったか、もやもやした何ものかを形にすることができたという自負もある。

 だから……

 こういった言い方を許してもらえるなら、ぼくは音楽そのものに挫折したわけではない。これからも此処を起点に自分なりの表現を追求していけると信じている( I Believe)。そんな意味で、かけがえのないラストアルバムなんだ、『21世紀のプロテストソング』は。

 そう、ぼくは2001年ごろからずっと怒りつづけている※ 。“21世紀の怒れる男” は “反抗の歌” を2019年の今日も口ずさんでいる。

 

 

【関連過去記事】

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

※ については、新井英樹氏のインタビュー記事に(プロとアマの程度は違うものの)同じ気持ちが記されていた。以下抜粋。

https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/arai2

『キーチ!!』を描き始めた2001年は小泉政権。いま描いておかないと、この手の作品が描けなくなるっていう思いがあった。

 民主党政権終わった後、安倍政権になって怒り始めた人たちもいるけど、別に偉ぶるわけじゃなくて、俺はもう描いておいたからっていうのがある。

 

 

【過去記事追加】

link.medium.com

 

福岡史朗 “+300gram” レビュー

 福岡史朗、2019年10月6日リリースの新譜“+300gram”は快作である。2019年製のスマートなグラムロックだ、たくさんの人に聞いてほしい。

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 もともと福岡のつくる音楽は簡素かつソリッドだったが、今回は300gramsというスリーピースバンドを結成し、前作までの課題であったダイナミクスを獲得するのに成功している。

 なにしろむちゃくちゃカッコいい。私は最初に聴いた直後に、すぐさまこんな感想をツイッターに投稿した。

福岡史朗の新しいアルバムができた。今回の特徴は柔軟でニュアンスにとんだリズムの三角形。とりわけ大久保由希のベース中原由貴のドラムのスリリングな絡みは絶妙。ストリーミング配信はされていないから、ぜひCDを購入されたし。

 この女性ふたりのリズムセクションが醸しだすグルーヴの妙を聞くだけでもアルバムを入手する価値がある。スピード感があるのに安定感がある。淡々とした演奏スタイルだのに、うねりと粘りがある。

 その主体的なボトムに支えられた、福岡史朗の弾くリズムギターはいつも以上にファンキーだ。自由闊達で自信に満ちあふれている。そして、彼がこれほど多彩な技を持ち合わせている事に驚かされる。引き出しが豊富なギタリストだ。

 それにしても、なんというシンプルで潔いアンサンブルだろう。スピーカーの真ん中で耳を凝らしてみても、聞こえるのはトリオの奏でる音だけ。オーヴァーダビングも最低限で、余計な装飾音は一切ない。痩躯の福岡そのものの、贅肉のないアレンジである。

 そこに福岡のうたう歌がかぶさる。前作の“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE(2018年)”は全体の調和を意識したトータルアルバムで、内容も吟味された物語性を感じさせる歌詞だったが、今回の“+300gram”の歌詞は、意識的に語義を剥ぎとったかのような印象を受ける。解釈は聞き手に委ねる、それよりも語感そのものを重要視するといったふうな。それにより歌と演奏とがより分かちがたく結びつく。単語の羅列はむしろ視覚的要素を多く含み、聴覚だけではなく五感を刺激する。断片的な映像が目に浮かび、身体がひとりでに動きだす。そのことはタイトルを並べてみれば一目瞭然だ。

01.ソーダ 02.自由 03.ビート 04.子ネズミ 05.ケチャップ 06.ジョーク 07.ルル 08.ハサミ 09.ララ 10.パイを焼こう 11.ビワの実 12.ISO BOOTH55 13.ほつれた袖

 聞いてみようか。YouTubeにアップされている3曲のうちから「ビート」を。


ビート/福岡史朗&300GRAMS

 アルバムの中では落ち着いた雰囲気のナンバーで、福岡とコーラスをうたう大久保由希との息もぴったりだ。

 ……それにしても、今回は低音が効いてるな。

 私はこの記事の最初にダイナミクスが福岡の課題だったと書いた。が、プロを相手に不遜かと思い指摘しなかった。今回の作品では、その課題が克服されており、グイグイ前に出てくる感じがする。迫力の源は奏者3名の演奏によりもたらされた“勢いとゆとり”なのだが(今回も)マスタリングを施した高橋健太郎のセンスかもしれない。とにかく低音が伸びやかに出ており、聞いていて疲れない。音質そのものを愉しめるのだ。

 また、◯◯に似ている、という感想ほど野暮なものはないと思うが、

 私は“+300gram”を聴いて、かのプリンスがデビュー前にトリオで録った“Jazz Funk Sessions”を連想した。対象への距離感や、覚醒した演奏のありようが共通するというか(上手く言えないが)。つまり、それくらいカッコいいと言いたいんだよ。

 もう一曲、アルバムのラストを締めくくる「ほつれた袖」を聴いてみよう。


ほつれた袖/福岡史朗&300GRAMS

 あ、もう一つ触感の似ているアルバムがあった。ジョン・レノンの『ジョンの魂』。どちらも基本的にギターとベースとドラムの三位一体で成立している音楽だ。

 ここで、あらためて確認しておきたい。

福岡史朗は“+300gram”において新境地を開拓した。自己模倣の罠に陥ることなく、前作とは全く違うスタイルを提示した。

 それって凄いことだと思うよ。

diskunion.net

 なお、前掲のツイッターでも触れたが、福岡史朗の作品群はSpotify等のサブスクリプションでは聞けない。YouTubeにアップされた3曲もいいが、アルバムには他にも優れたナンバーがめじろ押しだ。私は「子ネズミ」の宮沢賢治的リリカルな描写と、「ルル」のファンクネスが目下のお気に入り。

 だから、悪いことは言わない。入手して損はない。一家に一枚の傑作です、“+300gram”は。

鰯 (Sardine) 2019/10/12

Mediumより転載:今回は読者が聴く前に余計な先入観を持たないよう、思い入れを排し抑制して書いた。文中敬称略)

 

 

【過去記事】

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