鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年6月のMedium


『タクシー運転手』

ようやく観てきました(於:熊本電氣館)。高い評判に違わず、非常に面白かった。

光州事件に詳しくない方、韓国に興味のない方でも大丈夫、主人公マンソプ(ソン・ガンホ)の運転するタクシーに乗ってしまえば、あとは一気呵成、事件の渦中へ運ばれる(補足:濡れ場は皆無だから子ども連れで観てもオッケー)。

 

さて観客と同様、最初マンソプは傍観者だ。民主化運動のデモに否定的で、学生の本分は勉強だと思っている。警察や軍の正義を疑わない彼は、権力への抵抗を迷惑に思っているが、ドイツ人ジャーナリストを乗せて全羅南道に入るなり、光州市街の様相がただごとでないことに気づく。

軍事政権は、デモに参加する市民を「暴徒」と見做し、催涙ガスで苛み、棍棒で打つ。目の前で起こる惨事をにわかには信じられないマンソプは市民と軍の闘争に巻き込まれまいとする。が、光州市民の人情に触れ、また自らも私服の暴虐に遭い、ようやく「」はどちらの側にあるかを悟る。

いったんはソウルに戻りかける。けれどもドイツ人記者ユルゲンと、世話になった仲間たちが気がかりでならない。マンソプは引き返すことを決意する。ユルゲンを金浦国際空港まで送り届けることが自分のなすべき仕事だから、と。

しかし、軍はついに暴徒の鎮圧を口実に市民に銃口を向けていた。

同じ国の民同士が血で血を流す争い。それは朝鮮半島が南北に分断された悲劇と無関係ではない。韓国軍が市民を統制する理由は北朝鮮との関係に拠る。軍事政権の専横に否定的な市民を「アカ」と称するのもそのためで、分断こそが相互不信の原因なのである。

他の地域の一般市民は、光州で何が起こっているか知らない。夜の外出が規制されるので不満を口にはするが、戒厳令を疑問には思わない。テレビは「暴徒化した市民が軍に抵抗し」と報じ、心ある記者たちが真実を報じようとしても、上司は輪転機を止め、新聞の発行を中止してしまう。

(この徹底した情報統制、一般市民の無関心、デモや反対運動への弾圧、今の何処かの国の出来事に似ていないか?)

光州の人びとは、軍と市民の衝突する様子を8ミリで撮影していたユルゲンに望みを託す。韓国国内の報道は期待できない。世界に真相を伝えてほしい、この酷い状況をと。

ユルゲンを「東京」行きの旅客機に乗せるため、マンソプは道なき道を走る……

 

細部をもう少し詳細に描いてもよいと感じる箇所がないわけではないけれど(たとえば検問を抜ける場面など)それでは長所であるテンポの良さが削がれてしまうだろう。徹頭徹尾この映画は市民の側に肩入れしており、軍事政権を悪として描いている。権力の「」を扱うことで善悪を相対化してしまうと途端につまらなくなる。先に観た『シェイプ・オヴ・ウォーター』でも感じたことだが、悪は悪として明確に位置づけられたほうがいい。権力には権力を及ぼすべき理由があるのだという懇切丁寧な説明はまっぴらだ。

銃口はどちらに向いている?

きみは銃口を突きつける側か?

それとも銃口にさらされる側か?

二つに一つを、なら私は後者を選ぶ。

『タクシー運転手』で私はそう思った。一人でも多くに観てほしい映画である。 鰯 (Sardine) 2018/06/02

 

【参考】公式でトレイラー(予告編)試聴が可。

klockworx-asia.com

 

くまモンの放送事故」について

昨夜は知人が、くまモンの中の人をdisるインターネットの風潮に憤りをあらわにしており(後追いで知った)ぼくも同感で「あんなの目くじらたてるような案件ではない」と思う派ではあるけども、しかし情報の波に乗って伸してきたキャラクターだけに、そういう批判も織りこんだ上で活動‬せざるを得ないのが、現在の彼の立ち位置なのではないかと思う。あらゆるメディアの表現は視聴者により吟味され、取りざたされ、裁定される。人気者であれば尚更の宿命である。もしあれが〈くまモンの放送事故〉でなければ誰も見向きもしないし、されない。そして一定数の批判が寄せられている以上、彼の周辺は無視できないし、してはならない。‬ ‪私自身小うるさいのはゴメンだし、細かな事柄にいちいちケチをつけるのは嫌いだ。が、しかし他者の意見を疎み、雑言だとして排除し、「聞かなくても良し」と開き直ってきた結果が今の箍(たが)の外れた社会の現状ではないか。意見があるなら遠慮なく言う。批判すべきなら臆さず批判する。度が過ぎれば互いに注意し合うのが、言論の自由な社会だと私は思うのである。

鰯 (Sardine)2018/06/05

 

Goodbye Cruel Japan

I really dislike this country.

I would like to escape from Japan where Prime Minister Shinzo Abe and Deputy Prime Minister Taro Aso ruin the government.

 

ラッドウィンプスの“Hinomaru”って歌、

論ずるに値しない、で切って捨てたい。もちろん社会への影響を考えると見過ごせない問題だけど。すでに多くの方々が指摘するように、日本語の程度が相当お粗末な歌詞だし、それよりもなによりもあの類のJ-POP が端から受けつけられない。音楽的な興味がまるで湧かない。だめ。/音楽に、政治や思想を持ちこむのは大いに結構だけど、林檎もゆずも今回の日の丸も、表現のありようが全くエレガントでない。アイロニーと解釈するには幼すぎるし、国粋主義への誘いにしても妖しさに欠けている。甘く危険な香りがしない。意図的な低レベルだとしたら「愛国力」とやらの蔓延は尚更タチが悪い。/この際だから言っておく。日本語のポップスやロックで私が良いと思える音楽は驚くほど少ない。ワニマのような健全パンクがもて囃され、大御所が相変わらずの借用和音で平たく堅な節を回す、マンネリな風土からは、できるだけ離れておきたい。その微温さが退廃だと私は思う。ラッドウィンプス?  勿論お呼びでない。

鰯 (Sardine) 2018/06/09

 

【参考】

関連記事を一通り見渡して一番腑に落ちたのは、赤木智弘氏の論考。「図書館の自由に関する宣言」を持ちだしたところが秀逸。あと、音楽評論家・田中宗一郎氏の、

この国に蔓延する幼稚で質の低いポップ・ソングに大した作家性などない。それを作り上げているのは彼らのファンダムと、そのファンダムのあり方を容認し、持ち上げてきたこの国の文化的な磁場。それがゆえに、周りにまともな大人がいたら普通は再考を促すような三流ソングがまた作られる。

というコメントが的を射ていた。赤木・タナそう両氏とも、あまり私の得意な論者でないのだが、それだけ事態は深刻ということだろう。(追記:2018/06/17)

 

1分で十分ですよ。

かなり以前にこんな連続投稿をしたことがある。以下twilogよりC&P。

  1. これは突飛な考えだと思うし、どうか怒らないでほしいんだけど。日本のヒットチャートに上る音楽を聴いていると、どうもかったるくっていけない。早い話が冗長なのだ。だったら、と私は考える。曲の長さ、短くしちゃえばいいじゃん、と。
  2. 今どきのシングルをフルにかけると、大概4分を超え、4分半くらいになるものがほとんどだそうな。なるほどね、だから退屈なんだ。ちょっと昔(とはいっても20年ほど前)は3分半だったのに、1分も長くなっているとは。そりゃあ長いなーと感じてとうぜんだ。
  3. どだい今の日本社会、ますます軽薄短小の傾向にあるのだからしてヒット曲もそれにあわせて短くするべきだ。ツイッターなんかその典型じゃないか。140文字という絶対的な制限。Jポップもそういう制限をあらかじめ設けたらどうだろう、たとえば「シングルカット曲は1分30秒までとする」とか。
  4. 個人的には30秒でもじゅうぶんだと思うけど、まあ、1分半ぐらいが妥当な線じゃないかな。その時間の制約があれば、みんなもっとヒットチャートに耳を傾けると思うんだがな。どうせテレビ・ラジオでも途中で切られちゃうんでしょ。だったら、自分のほうから先にEDITしちゃえばいいじゃないか。
  5. いいたいことがじゅうぶんに伝わらないとか、曲が盛り上がる前に終わってしまうとか、泣き言を言う向きもあるだろう。でも、私の提案の狙いは、まさにそこ。1分半だったら、音楽はもっとドライになるだろう。インスタントで一丁上がりの、切れ味のいいポップチューンが量産されるだろう。
  6. そうすりゃ若い人たちが積極的に参画できるようになる。アイデア一発勝負で、世の中を席巻できるかもしれないし。Aメロ・Bメロ・さび頭でちょうど1分です的な「大人の手の入った」楽曲が淘汰されるかもしれない。想像するだけでもわくわくするじゃないか。
  7. 長くは続かない試みだとは思うけど、一度はやってみる価値があると思う。誰かどこか、勇気のある音楽業界関係者はいないかね? したら“ヒット曲を1分半に縮めたオトコ”の称号を、私の方から恭しくさしあげるよ。

書いた日付をみると2011/09/14である。

その後も日本のJ-POP(二重表現)の楽曲構造は、7年前と大差ないけど、海を跨いだ北中南米大陸のヒットチューンは、大いに変貌を遂げた。具体的に説明すると長くなるから、こちらを参考にしてください。

wired.jp

この記事にも示されるように、ヒット曲が短く煎じ詰められる傾向は、ストリーミングが主流になって一気に加速した。今は2分ちょいで決着がつく。飽きる前に終わってしまう。あっさりと。

Spotifyを利用するようになってから、私は新譜をよく聞くようになった。今を反映する新しい音楽に接すると、やはり楽しいし、気持ちが明るくなる。錯覚かもしれないが、今現在を生きているぞと実感するのだ。

チャーリー・プースやら、チャイルディッシュ・ガンビーノやら、ジョルジャ・スミスやら、はてはカミラ・カベロやら、流行りの歌を年甲斐もなく聞いている私。

そしてついに、7年前の夢想を具現化したポップスが、先月末に発売された。

Tierra Whackの“Whack World” である。

まあ、聴いてみてください。私の予言をはるかに上回る、1曲1分の世界を。

それは決定的に新しいから。 鰯 (Sardine)2018/06/14

 

野暮な解説

映画『ブレードランナー』の迷セリフ、「ふたつで十分ですよ」にちなんで。

 

 

「鳥の歌」を想像してごらん

昔おつきあいのあった音楽家のご夫妻がいてね。

ある日ピアニストの奥さまが私にそっと打ち明けた。

私、イマジンあまり好きじゃないのよね。頼まれたら弾くけれど、音楽として単調というか、つまんなくて

するとチェリストの旦那さんもこっそり耳打ちした。

ここだけの話だけど。ぼく『鳥の歌』弾くと眠たくなるんだ、退屈で

シロウトの私は、はあそうですかと返すしかなかったな。じっさい、そんなもんかなと思ったし。

音符の連なりという意味からすれば、確かに両者とも素朴の一言だ。シンプルというより捻りがない。私も若い時分には聴いていて退屈に感じたものだ。

けど、

最近になって、あれらはやっぱり凄い歌だと思うんだよ。虚飾のなさにおいて。

(註:音楽家ご夫妻の名誉のために付記しておくと、それらの楽曲の重要性については、当然深く認識しておられた。)

イマジンについては、以下のツイートを今朝がた記した。

イマジンは嫌いです、という意見をみた。ぼくも若い頃そうだった。理想の夢想、退屈な楽想だと。でも最近やっぱりあらためて凄い歌だなと思っている。だって素っ裸なんだもん、選ぶ言葉も使う和音も、あまりにも無防備すぎて、誰も真似できないよコレは。思想?ないよ多分。

ここMediumではパブロ・カザルス採譜のスペイン民謡、「鳥の歌」をご紹介しておこう(Spotifyに良い音源がないのでYouTubeを)。

カザルスは、1971年10月24日の世界国際平和デー国際連合本部で演奏会を行った際にも、この曲をアンコールで演奏し、これは世界中に放送された。演奏にあたってカザルスは、平和を求めるメッセージとともに、「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は peace、peace と鳴くのです」と付言している(wikipediaより)。

*カザルスについてのツイートも追加。

パブロ・カザルスを好きになったのはNAXOSから出ていたこのCDを聴いてから。このカザルス三重奏団によるメンデルスゾーンOp.49のなんとスリリングなことよ。ドライヴしまくり。邦盤の帯の煽り文句がまた良くって。「コルトーpf、ティボーvn、そして使徒カザルスvc」って。

黒猫くん、ブロック塀の上は危ないよ。 鰯(Sardine)2018/06/22