鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年11,12月のMedium

 

臨場感

を味わうべく、ではなく、よく分からないまま、シネコンで4DXを体験してしまった私。

www.unitedcinemas.jp

カーアクションもバイオレンスシーンもない、音楽ものの映画だったから大丈夫だろうとタカをくくっていた。が、甘かった。観終わったあと疲労困憊でグッタリしてしまった。

数々の仕掛けに気をとられるがあまり物語に没頭できなかった。

カメラの位置が変わるとともに、座席の角度が変わる。ズームインで前のめり、場面転換で仰け反らせ、主人公がクルマに乗るたび椅子の下から振動が伝わるものだから、動きのある場面になるとつい身構えてしまう。

部屋の中での会話のシーンでホッと一息つくものの、油断は禁物、口論になるやいなや体感装置が稼働、ガラスの割れる音やら、フラッシュを焚く光やらが四方八方から襲いかかるので、気の休まる暇もない。

パーティの場面になるとやおら香水の匂いが漂うし、ライブの場面で演奏が盛り上がると座席伝いに重低音が腹に響く。さらにはスクリーンの両脇からはスモークがモクモクと噴出すし、もう、何でもアリのアトラクション状態である。

私は映画を観に来たのだ、遊園地に来たんじゃない、と内心憤った。もちろん窓口では丁寧な説明があったし、上映前にも再三お断り(注意というか警告)動画が流れていたから文句を言える筋合いではない。事前に確かめない方が悪い、のだが。

(何を観たかはバレバレですね……)

まあ、観る映画によっては、スペクタクルな演出が増幅されて面白く感じるかもしれない。戦場の真っ只中にいる気分にもなれるだろう。私はとんと興味がないけど、ゲーセンにある格闘技の対戦ゲームなんかに近い感覚が味わえるかもしれない。さらなる刺激を求める向きには結構な趣向だとも言えるかも。

ただ、くり返すが初老の私には刺激が強すぎた。これを書いている今も頭が痛い。船酔いみたいな感覚が残っている。心臓に疾患のある方などは、ホントに体験しない方がいい。私は二度と4DXでは観ない。3D映像やドルビーサラウンドだって苦手なのだ、これ以上の臨場感はまっぴらゴメンである。

倍近く払った入場料は勉強代だと思うことにする。

鰯 (Sardine) 2018/11/10

 

“Et tu, Brute?”(ブルトゥス、お前もか?)

仏の経済誌レゼコーは日産の西川社長をブルトゥスに喩えたそうだ。となると、カルロス・ゴーンカエサルってことか。

カルロス・ゴーン氏の逮捕をめぐってさまざまな報道が駆け巡っている。当然ながら、日と仏では捉え方がずいぶん違う。日本の報道の殆どが「推定有罪」(ゴーンが悪い)に傾く一方、フランスは、捜査のプロセスや日本の司法制度に疑義を唱えるものが多いようだ。

私の考えを簡潔に申し上げると、大企業役員の高額報酬には反対であるが、今回の〈日産内部からのリーク→司法取引→東京地検特捜部の逮捕→勾留延長〉という一連は、極めて悪手だと思う。しかし事の是非を問うのは、この稿の目的ではない。

ゴーン氏逮捕の翌日に、BSプレミアムで、エリザベス・テーラー主演の『クレオパトラ』が放映されていた。4時間の長丁場だので他のことをしながらチラチラ観ていたが、カエサルをブルトゥスが裏切る場面になるとさすがに身を乗り出した。ああいう史実に基づいた物語には、必ずや衆人が納得する「見せ場」があるものだ。

紀元前後のローマ史など西洋の文化圏においては教養以前の常識だろう(アメリカ訛りのジュリアス・シーザーやブルータスをローマっ子がどう観るかはさておき)。カルロス・ゴーン氏をカエサルに、西川社長をブルトゥスに擬えることで、仏経済誌の購読者は見出しの意味あいを瞬時に理解するのである。「ハハン、謀ったな」と。

「日本はやっぱり外国人嫌いの国」との印象を、フランス人をはじめ外国人に与えたのも確かだ。「サッカーのハリルホジッチ監督も解任したではないか」と言い出す人もいる。フランスのメディアも同様の論調だ。代表紙「ルモンド」や経済紙「レゼコー」は「陰謀説」も流した。「レゼコー」はその後、「陰謀説」には疑問符を付けたが、“ブルータス・西川社長”との表現を使い、主人シーザーに目をかけられながら、暗殺団に加わったブルータス、つまり“裏切り者”に例えている。

出典:web ronza 『パリで感じる「ゴーン事件」の危うさ』山口昌子(在仏ジャーナリスト)2018年11月25日より

比して大半の日本人は、ローマ史にもシェークスピアにも関心が薄い。私も偶さか観た『クレオパトラ』でおさらいしていなかったらピンと来なかっただろう。むしろ謀反の例えとして日本人が即座にイメージしやすいのは「本能寺の変」であろうか。

逮捕の翌々日、さっそくゴーン氏を織田信長に、西川社長を明智光秀に擬えた、お調子者のジャーナリストをワイドショーで見かけたが、辛口のコメンテーターに「それじゃ三日天下になりますね?」と即座に指摘されていた。その後ゴーン氏の逮捕を「本能寺」に例えた論調はにわかに影を潜めたけれども、かの田中康夫氏が自らのウェブサイト上で、西川社長=明智光秀に見立てて言及していたのを、つい二、三日に見かけた。

Vol.431『日産の株式43%保有ルノーからブーメラン! 「強い憤りを感じる」発言の西川廣人CEO 三日天下の「明智光秀」で終わりそうな悪寒w』

田中康夫YouTube公式チャンネル「だから、言わんこっちゃない!」

ブルトゥスの率いる勢力は、のちにオクタウィアヌスアントニウスにより征伐され(そのアントニウスオクタウィアヌスに倒される)、明智光秀羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れ、小栗栖において落ち武者狩りに遭う。カルロス・ゴーンは代表の座を追われ、ルノー・日産・三菱は当分の間「三頭政治」を余儀なくされる現状である。さあ、西川社長が三社連合の覇権を握るのか?それとも初代ローマ皇帝アウグストゥス豊臣秀吉に匹敵するような傑物が現れるのか?や、状況の推移を見るかぎり、日本の二社から現れる気配はなさそうだが……

鰯 (Sardine) 2018/11/30

 

“Not In My Back Yard” ニンビーの使い方に要注意

港区南青山の児童相談所建設について説明会における反対の声が酷すぎると話題になっている。

www.asahi.com

青山ブランドに「児相の子つらくなる」 建設に住民反発:朝日新聞
周辺住民らの反対で難航している児童相談所などの複合施設「港区子ども家庭総合支援センター」(仮称)の整備について、東京都港区は14、15の両日、説明会を開いた。

南青山ブランドの価値が下がるのは困るという、思いあがった反対意見は確かに噴飯もので、これに批判が集中するのも無理はない。事なかれ主義の糸井重里氏は、

<ぼくは近所の住人ですが反対してる人なんかいませんよ。ヘンなことを言う人ばかり集めて「取材」してるんじゃないの?>

などとうそぶいていたが、週明けのテレビが荒れる説明会の様子を各局とも長々と取り上げたので、たとえ「一部」とはいえ、南青山にも困った住民がいるという事実は全国的に知れ渡る結果となった。

まぁいつもの私なら「怪しからん」と気勢を上げるところだが、ちょっと待てよ、と思い留まったのにはわけがある。辺野古基地建設再開における土砂投入の報道が影に隠れたように思えたからだ。そこで私は月曜の晩、こんなツイートを投稿した。

港区南青山児相建設について、反対する理由は確かに噴飯ものだが、過熱する報道には〈建設反対は住民エゴである〉との意図が含まれているようにも思える。辺野古の新基地建設と混同する言説には警戒すべき。

さらに翌朝、著名な精神科医斎藤環氏がこんな意見を投稿していた。

来年の授業で「NIMBYISMとはなにか」を学生に教えるのに素晴らしい教材。青山NIMBYISMは生涯忘れられない記憶になるでしょう。「必要なのはわかるけどよそでやってくれ」というアレ。地域住民の公共心をはかるモノサシ。

このNIMBYISMの文字面をみて、嫌な記憶が蘇った。私は数年前、ある民事裁判を集中して傍聴した。産廃の処理について地域の大企業と一住民が争っていたのだが、〈家のそばにゴミを捨てないでと反対する訴えは、地域の公益を無視したいわゆる“NIMBY”ではないか?〉との意見や、また〈騒いでいるのは一部の者で大部分の住民は大して問題視していない〉という意見を見聞きした。SLAPP訴訟で大企業から訴えられた)被告の側を支援する立場で裁判をレポートしていた私も「余所者が口を挟むな」と匿名の集団から中傷されたものである。

閑話休題。ともあれ“NIMBY”の語源を確かめてみよう。

NIMBY(ニンビー)とは、英語 “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である。日本語では、これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」「嫌悪施設」などと呼称される。/NIMBYによる反対運動は、「施設が建設されると地域や住民に対して環境被害などの損害をもたらす」などと主張し、以下の理由で建設や誘致の反対運動を起こす場合もある。①施設から直接ないし間接的に衛生・環境・騒音などの面や健康上・精神的な被害を受ける。②施設の存在により地域に対するイメージが低下する。③また、それによって不動産の資産価値が下がる。④施設の影響で治安が悪化する。⑤住宅地や学校の近くに建設されると児童の目につきやすくなるため、教育に悪影響を与える。(Wikipediaより抜粋)

さよう、南青山児相建設の件は、斎藤先生が仰る通り、典型的な“NIMBY”である。それに異存はないが、でも、なにか引っかかる。私は週明けのワイドショーで、冷やかな笑みを浮かべた識者が、紛糾する説明会のあとに加えた妙なコメントを思い出していた。

つまり……反対する一部住民の極端な言い分をことさら論うことにより、ホラこれこそがNIMBY(ニンビー= “Not In My Back Yard”)というんだよ、という風潮を醸し出す企みに思える。考えすぎかもしれないけど、昨日も「沖縄の問題もそうだけど」と余計な一言を挿むコメンテータを見かけたんだ。要注意。

さらに、青山児相の話題で辺野古の問題が蔑ろにされている、との意見に、

港区児相の報道、杞憂かもしれませんが、建設を反対する一部住民の極端な言い分をクローズアップすることにより、建設反対=住民エゴの図式を醸成しようとする意図があるように思えてなりません。昨日も、説明会の映像のあとに「沖縄の問題もそうですが〜」と余計なコメントを挿む論者をTVでみました。

と返信の形で念押しした。また、私の他にも、

>「南青山選民思想」、ちょっと注意したいのは、児相の民営化ビジネスとか、立地の不味さとか、他にマトモな反対理由があるのを住民エゴに見せかけようと、故意に選民思想が流されたりする件。以前、保育園反対でそういう世論操作が行われていた。

と警告する方(‪@kinokuniyanet)もいた。

そう、私はマスメディアが「辺野古の反対も地域住民のエゴだ」という印象を与えるのではないか、と危惧したのである。青山児相の問題はスピン(目くらまし)であり「反対運動そのものの無効化」に使われるのではないか、と。

しかし、辺野古新基地建設(註:普天間基地移設とは断じて呼ばせない)反対の声が、かき消されることはない。例えば、ホワイトハウスへの要望書に署名した人の数は既に10万を突破している。

そんな中、

>南青山の児相反対運動と、米軍基地は必要だとしながら沖縄におしつけている日本中の人とはNIMBYで通底している。

というユニークな内容の意見を見た。なるほど、これだと〈南青山在住を特権的に考える人たちの思いあがりは沖縄に基地を押しつける本土の人を象徴している〉と捉えることができる。言葉の扱い方や光の当て方で、〈地域住民のエゴ〉に回収されそうな嫌なムードを、〈いや違う、基地反対は沖縄県民のエゴではない。むしろ沖縄への基地定着を我が事と捉えず、他人事としか感じない大多数の日本国民のエゴこそが“Not In My Back Yard”なのだ〉と撥ね返すことができる。

もちろん予断は許さない。国家権力はあの手この手を使って、沖縄の米軍基地問題を相対化したり矮小化したり鎮静化させようとしたりするだろう。その企てに乗らないことと、権力に追随する識者らの空疎な言説を凌駕する理路を備えることが、今後ますます重要になってくるだろう。

鰯 (Sardine) 2018/12/19

 

すてきなホリデイ

クルマの中でラジオを聴いていたら、パーソナリティの松任谷由実が自曲の「恋人はサンタクロース」をかけた後に、「この歌が流行したことで、クリスマスをシングルで過ごす人たちを悲しませたという、私はいわば、戦犯なわけですが〜」と喋っていて、戦犯とはまた大げさなと思いつつも、私の脳裏を過るのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」で、そういや山達「クイーン・オブ・ハイプ・ブルース」という曲で、「あなたじゃ駄目、私と格(クラス)が違う」と、ユーミンの女王様然としたセリフを皮肉っていたなあ、なんてことを思い出していた。

山下達郎という人は日本には珍しいタイプの歌手&作家で、手強い横丁の旦那よろしく頑固でコンサバティヴなスタンスは、ある意味かれの音楽よりも興味深いが、奥方の竹内まりやは、それに輪をかけた鉄壁の強面ぶりで、日曜2時の番組での夫婦の掛け合いを聞いていると、これは達郎氏、頭あがんないだろうなと思わせる、竹内まりや氏の隙のない態度に感心することしきり、の私ではある。

だが、私は竹内まりやの音楽そのものには殆ど関心がない。ピーチパイとか元気を出してとか駅とか、いくつか代表曲を知ってはいるが、ちょっとドメスティック色の強すぎるメロディーがあまり得意でないのだ。さらに、竹内まりやの作品を聞くたびにいつも思うことだが、歌詞の手強さというか、平易ゆえの“あけすけさ”が苦手である。

何というか、彼女の作る歌詞は、深読みができないほど表層的なのだ。その典型例が、往年のアイドル河合奈保子に提供した「けんかをやめて」である。「けんかをやめて、二人をとめて、私のために争わないで」というアレだ。まだ若かった私は初めて聞いたとき、思わず耳を疑った。これは何だ、聞き手を愚弄しているのか?それとも、マジかと戸惑うのだった(広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」も竹内まりや作だった)。

以来、竹内まりやの歌声に遭遇するたび、私は耳にしないようそれとなくやり過ごしていたのだ。が、毎年、年の瀬になると避けて通れない歌が聞こえてくる。フライドチキンのCMでお馴染みの「すてきなホリデイ」である。

このアメリカンスタンダード的な曲調は、かなり好きなんである。よく出来た、などという冷めた感想は言いたくない。この夢心地な音楽に浸りたいと思うほど。だが歌詞がダメなんだ。私にはやはり飲みこみ難い。

新たに書き起こすのも面倒なんで、昨年某所に投稿した感想を並べてみよう。

①れいの、ニワトリさんが恐怖する竹内まりやのクリスマスソングを二度ほどちまたで耳にした。しかし、あの歌に限らず、常套句が満載の割り切りのよい歌詞には毎度のことながら感心する(ほめてない)。広瀬香美といい勝負だ。

②歌詞の全部を載せるわけにはいかないから、気になった行だけ抜き書き。

すやすやと眠る子供達の手に

かじかんだ指をママが温める

嬉しさを隠せない犬や猫まで

穏やかな毎日が続くぜいたく」

と、書き起こしてみると書割感がものすごい。とりわけ空虚なのが次の行。

いつもより優しそうなパパの目が笑ってる

優しそう。ぜんぶ絵空事なんだ……

③ けど、こういう揚げ足取りもまた空虚なものだ。「元気を出して」とか「勇気をください」とか「感動をありがとう」とかにアイロニーしか感じなくなって久しいが、「頑張ろうね」としか言いようのないシチュエーションだってあるんだから。歌詞にケチをつけるのはほどほどにしないと、自分の首を絞めてしまう。

さて、「クリスマスが今年もやってきた」。

④しかし、あゝ今年も聞いてしまった(歌い手のダンナさんが自分のラジオ番組でラストにかけていたのです)。

嬉しさを隠せない犬や猫まで」の箇所で、「ンなワケないだろ!」と突っこんじゃうのも毎度の年末である。

まっ、この年齢になると、赤くラッピングされたプレゼントも丸いケーキも七面鳥がわりのチキンも無縁ではあるが、クリスマスソング自体はそれほど嫌いではない。誰かが、<日本人はこの季節、去年のクリスマスにこっぴどく振られた歌と、クリスマスだってのにベトナム爆撃していることを嘆く歌(鰯:ジョンとヨーコ“ War is over”のことだろうか?)ばかり聴いて気が滅入らないのだろうか。いつも疑問>とつぶやいていたけど、そうかなあ? ザ・ポーグスの「ニューヨークの夢」なんか、今年は二度も聞いたよ。

と、カッコよく終わろうと思ったが。

どうも私、〽︎クーリスマスがこっとっしっもやーってくるぅ、と事あるごと何気に口ずさんでいるらしい。パートナーからからかわれました、「ホントはその歌、好きなんじゃないの?」って。……ん、かもしれないね。🎉  鰯(Sardine) 2018/12/21