鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年10月のMedium

ワナビー

高橋源一郎氏が新潮11月号にて発表した、「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」がWeb上にも載っていた。

kangaeruhito.jp

読めばお分かりの通り、「」つきの文藝評論家である小川榮太郎氏の文筆活動を、作家高橋源一郎の筆は、容赦なく腑分けしてみせる。純粋(でやや時代遅れな)文芸評論家としての小川氏をAと、安倍政権を称賛し、擁護する文章を量産した小川氏をBと、氏の文章に表れた二面性を、残酷なまでに浮き彫りにしている。

さすがだ、と思いつつも私は、自分の過去をふり返り複雑な気持ちになってしまった。それは当の高橋源一郎氏自身も、抱えているであろう複雑さである。

 

私は、地方都市主催の小説新人賞に応募し、高橋氏と一度お会いしたことがある。佳作を得たその席で、「とにかく書いて書いて、書きまくってください」と励まされた。優しい方だな、と思ったが、その二年後、違う文学賞の最終選考に残った時は、厳しい講評をいただいた。「マンガみたい、でもマンガだともっと上手く描ける」と。つまり私の小説はマンガのようであり、同種のテーマを上手に扱ったマンガが他にたくさんある、と指摘していたのだ。

そうとうヘコみましたよ当時は。たぶんそれは、小川榮太郎氏が『新潮』に抱いたであろう感情と、程度は違えど同種のものだったと想像がつく。悔しさと諦めがない交ぜになった感情。おのれの筆の未熟さや欠点を省みる以上に、承認されなかったことへの絶望が優っていたのではないか。私の場合、冷静になって文章の拙さを自覚できるようになるまで相当な時間を要した。

もし、認められなかった悔恨が解消されていない時に、「君の過去の作品を出版しましょう。その代わりに」と耳打ちされたら、果たしてどうだろう。自分の意に染まぬ内容の文章を書くことも辞さなかったのではないか。しかも相手が海千山千の編集者だったら、誰彼にどんな文章を書かせたら冴えるかくらい、あらかじめ織込み済みで交渉してくるだろう。私だったら、その誘惑に抗えないと思う。執筆料がもらえるという現実的な利益はもちろん、自分の文章が雑誌に載り、著者名つきの書籍になることを約束されたら、それこそ「書いて書いて書きまくる」ことだろう。それが物書きの性(さが)というものだ。小川榮太郎氏の全著作を読んだという高橋源一郎は、そのことが身にしみて分かるからこそ、「おれは泣いた」と題したのだろう。僅か数年間物書きを志した私でさえ、身につまされる思いがしたくらいだから、文芸の最前線に立ち、数多の作家たちの栄光と挫折を嫌というほど見てきた高橋氏ならなおさら、小川榮太郎Aが小川榮太郎Bに変貌した理由が痛いほど理解できたに違いあるまい。

そういう悔恨は時を経ても、いまだになんかの拍子によみがえるものだ。たとえば最近、コラムニストの小田嶋隆氏は日経ビジネス2018年9月28日の連載記事に、こんなことを書いていた。

というのも、メディア企業に粘着する(ツイッター)アカウントの多くは、つまるところ、自分自身マスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」であり、同様にして、ライターやコラムニストに直接論争を挑んでくるのも、その大部分はライターやコラムニストになりたかった人たちだからだ。彼らは、メディアの中で発言している有象無象の低レベルな論客よりも、自分の方が高い能力を持っていると思っている。にもかかわらず自分に発言の場が与えられていない現実に不満を感じている。だからこそ彼らは何かにつけて突っかかってくる。

まあ、書かれた内容に異存はないし、小田嶋氏の社会・文化批評のスタンスに私は依然として共感しているが、しかし、文中の「ワナビー」という雑駁な括りには少なからず失望した。読む側の勝手ではあるが、ワナビーの文字面に傷ついたのである。そりゃあ何かと突っかかってくる有象無象の連中に辟易するのは分かるけどもさ、自分に意見してくるものを「マスコミに憧れたけれども果たせなかった者ども=ワナビー」と一括りにするのはちょっと酷いンじゃないかオダジマさんよ、と言いたくなったのである。

小川榮太郎氏は、小林秀雄江藤淳に擬えて「文藝評論家」と自称したわけだが、彼こそ「ワナビー」の典型であった。幻惑されたネトウヨやら冷笑家やらの有象無象が、いつまた小川Bに化けるやも知れぬ。マス・コミニュケーションの担い手たちは、今一度かかる危険性を考慮すべきではなかろうか。

さよう、私は「小説家になろう」という、あてどない夢を抱いた者である。ひたすらに書く努力を怠り、原稿の発送を躊躇ったため、あえなく夢はやぶれたが、君もワナビーの典型だねと言われれば、頷く他ない。今は表現者になる意思も気概も潰えたけども、SNSの発展したインターネット社会の片隅で、気まぐれな戯言を今後も綴っておりたいと希っている。

私は何者にもなれなかった。出版にも文壇にも無縁の人生だった。この歳で今さら無謀な挑戦をする気力はない。

が、時に夢想することもある。私の駄文がもう少し世間に認められないものか、と。そんな邪心が芽ばえたときに、悪魔のようなあいつが「書かないか」と囁いたらどうだろう? 眠らせていた“Wanna Be”が目覚めるかもしれない。そのおそれは私のみならず誰にでもある筈だ。

鰯 (Sardine) 2018/10/19

 

二つの『うつくしいひと』。

熊本出身の行定勲監督が、同郷の高良健吾ら人気俳優とともに撮った短編「うつくしいひと」。その完成から3か月後、熊本は震災に襲われ姿を大きく変えてしまう。番組前半は「熊本が復興に向け歩む姿を映像に刻み続編を放送。後半は、女優・石田えり益城町や南阿蘇村などを訪れ、震災ける」と決意した監督が震災直前と直後の熊本を舞台に撮影した2つの短から1年を迎えようとする熊本の人々の今と未来を見つめる▽初・2017年放送

今日2018/10/22、再放送を観たのだけれど、震災前に撮られた『うつくしいひと』は、よくできた熊本の観光案内図のようだった。嫌味をいえば橋本愛のプロモーションフィルムのようにも感じた。ホイットマンの詩の一節を吟ずる文学おじさま姜尚中に誘われ、いかにも熊本らしい場所を探索するという趣向。上江津湖、菊池電鉄、菊池水源、熊本城、阿蘇草千里と、さまざまな風景のなかに、初老の姜さんは高校時代の自分(たち)の姿を幻視する。8ミリ映写機を夢中になって回す高校生は、若き行定勲姜尚中アマルガムである。

二高出身の行定勲監督が、熊本の高校生を表すのに、姜尚中の出身校の済済黌を使う理由と距離感、分かるなあ。※

このノスタルジックで上品な短編映画が菊池映画祭で上映された翌月に、熊本は震災に見舞われる。帰熊していた行定監督は、俳優高良健吾と合流し、給水活動に奔走する。そして被災地の惨状を目の当たりにした監督は『うつくしいひと』の続編、『うつくしいひと サバ?』を撮ろうと決意する。

高良健吾が演ずる私立探偵と仲間たちの溜まり場は前作同様、橙書店であるが、前作では新市街、後作では練兵町に移転した店舗が舞台となっている。フランスの異邦人が、病死したパートナーの遺骨を抱いて震源地である益城町の実家を訪れる。家屋という家屋は崩壊し、町並は見る影も形もない。ようやく会えた亡妻の実父は、仮設住宅に住んでおり、地震で何もかも奪われたと、堅く心を閉ざしている。一行が途方にくれていたそのとき、亡き妻にそっくりな女性があらわれる。

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筋書きの好都合はこの際問うまい。益城町の復興市場で石橋静河がダンスを舞うシーンに、私は息を呑んだ。彼女が動きをとめた刹那、ワーッと感情を爆発させる、そのときに背景が荒涼と一変する。益城町のみならず、立野の阿蘇大橋、寸断された国道57号線、そして熊本城の石垣と、地割れと瓦礫の残骸のなか、ゆっくりとした動作で女性は踊る。じつは震災以後に私は、崩壊した日の光景をなるべく思い出さないよう用心していたが、その防禦は叫びとともに破られて、さまざまな思いが一挙にフラッシュバックした。去来はしかし、必ずしも辛いばかりではなく、むしろ懐かしいような、不思議と甘美な感覚をもたらした。そして私は何故か、震災の前に撮られた、前編の熊本城のシーンを回想していた。

熊本市民である私は、写生大会などで子どものころから慣れ親しんでいた熊本城を、あたりまえのものだと内面化していた。が、武者返しと呼ばれる石垣の優美な弧線は、震災によって無惨にも毀されてしまった。私が生きているあいだに、石垣は元どおりに復元されるのだろうか? 城址の傍を通るたびに、そんなことをつい考えてしまう。

思えば『うつくしいひと』前編は、それぞれが記憶の底に焼きつけた城のイメージを、なんと見事に保存してくれたことだろう。熊本県民は、原風景を喪失ってしまった。けれども『うつくしいひと』を再生すれば、かつて存在した武者返しのうつくしさに、再びめぐり会えるのである。

だけど『うつくしいひと』は震災後に撮られた『サバ?』の方が圧倒的によい。高良健吾もいい顔している。ああいう若モン、熊本によくいる。

『サバ?』の方が圧倒的によい理由。それは人間が活き活きと描かれていることだ。高良健吾らの演ずる若モンたちの表情は、観ていて清々しく、たくましい。それは今リアルに暮らす市内にいても日々感じることだ。熊本は以前よりも活性化している、より喜怒哀楽を表に出す県民性が育っている。その過程においては、祭のあり方やら議会のあり方やらの、是正しなければならない旧弊な慣習が立ちはだかるだろう。が、破壊の後には創造があり、創造の道程には希望がある。だから私は熊本の地域の未来をあまり悲観してはいない。熊本地震の前後を併せて一編だ。二つの『うつくしいひと』を観ながら、私はそんなことを考えていた。

手放しの地元礼讃であり、とくに前編にはある種の閉鎖性を感じられるかもしれない。が、震災後に撮ったアクティヴな後編と対比することにより、ややスノッブな前編も震災前を記録した映像として新たな意味がもたらされた。『うつくしいひと』は、二つ続けてみてこそ真価を発揮する短編映画である。‬

 

※『サバ?』に鮨屋の主人役で出演の井手らっきょ氏はわが出身校の先輩に、監督の行定勲氏は後輩にあたる(もちろん面識はない)。

 

河瀬直美監督のいう「物語性」の、向かう先が気になる。

石橋静河さん直近の仕事は下掲リンク参照のこと。

が、それより気になるのは、映画監督の河瀬直美氏が、東京オリンピックの公式記録映画を撮ることに決定したという報道だ。

東京五輪の公式映画 監督にカンヌ映画祭河瀬直美氏 | NHKニュース
2020年の東京オリンピックを描く公式映画の監督を、映画監督の河瀬直美さんが務めることになりました。www3.nhk.or.jp

河瀬監督は「単なる記録ではなく今の日本にオリンピックでどのような変化があるのか、物語性をもった作品にすることが、世界の人の心を動かすことになるのでは」と会見で語った。

彼女の起用については、さっそく「レニ・リーフェンシュタールの再来」を懸念する声が上がっている。

註:リニ・リーフェンシュタールナチス政権下のドイツで開催されたベルリンオリンピック(1936年)を記録した映画『民族の祭典』を撮影した、女流映画監督である。

河瀬監督は会見で、東日本大震災からの復興やボランティアにも焦点をあてたいとして、大会前に足を運んで競技以外も撮影していきたい、さまざまなところのドラマを見つめ続けることがドキュメンタリーであると語っているが、この話の持って行き方には「ほぼ日」や「プラハン」と共通する“香ばしさ”が感じられる。

さらに、

シャーマニスティックな作風の映画監督が、独自の主観で森羅万象に臨み、過度な「物語性」を演出すれば、国家に都合のよい映像作品に仕上がる可能性が大である。

ただし、

間違えてはいけないのは、あくまでも制作における方向性である。国際的な評価を得ている河瀬監督に対して、世評が警戒を促すことで、これから撮られる映画が、政府とJOCの期待する国策映画に陥らずに済むかもしれない。

この懸念が杞憂に終わりますように。

鰯 (Sardine) 2018/10/24

 

2018年10月28日 フジテレビ『ワイドナショー』、安田純平さん解放について、三浦瑠麗氏発言書き起こし

YouTubeにアップされていた動画から国際政治学者・三浦瑠麗氏の発言をできるだけ忠実に書き起こした(句読点の位置や辻褄の合わないところも「ママ」である)そのあいだ私は、胸のムカつきが治らなかった。ひどいなと感じた場面が何箇所かあったが、どこが酷いのかは各自が発見してほしい。

 

(番組開始後、27分20秒から;)

司会・東野)ご無事で何よりですね。

三浦瑠麗)そうですね。

まず、われわれ(は安田さんが)拘束されていたことをずっと知っていたわけですけど、それがまあついに解放されて、で、お見受けしたところ健康状態も、そこまで深刻ではなさそうだ、ということは喜ばしいことですし、メディアの中、あるいはツイッターなどにですね、さまざまな自己責任論みたいなものが出てきていますけれども、本来政府というのは、それがどんな国民であったとしても、その海外で拘束されたというときにですね、救出する責務があるんですよ。自国民を守るというのは、国家のほんとにベーシックな、あの義務であって、それは自己責任論とは当たらないなとは思ってますね。

ただ、その自己責任論みたいなものの出てきた背景であるところの、ここまで危険な地域に入って行って数時間で捕まってしまったってこととか、あるいは、その彼自身がですね、機内で話した言葉の中で、えー「日本政府が動いて解決したと思われたくない」と、これ、正確にそのままではないですけど、そうした主旨の、発言されてましたよね。

もともとジャーナリストって、政府の邪魔になるようなことをして真実をあばき出したり、政府が来て欲しくない危険地域に入って欲しい情報を取るものなので、政府の邪魔をするのは全然構わないのですよ。

だけれども、そのワイル(?聞きとり不明)な職業をしている人は、助ける価値があるんだけども、やっぱり、その背景で何が行われていたかって、彼は知らないわけでしょ?つまり牢獄にいたわけだから。で、その拘束している人だってペーペーなテロリストですよね?その人たちから聞いた情報しかないわけだから。

この、今の時点での彼の言い分ていうものをですね、まぁものすごく壮大なストーリーにしてしまうのは、ちょっと違うかなという気がするんです。だから自己責任論もおかしいし、安田純平さんが機内で語ったことを指して、ホラ日本政府は何もやんなかったじゃないか、というようなね、あのー彼は別に機密を知っているわけじゃないので、という話も違うんじゃないかなと思うんです。

東野)カタールが身代金を支払ったという報道も、

松本人志)具体的に3億円、みたいなことも言われてますよね?

三浦)あ、はい。

カタールが払ったという情報は、かなり確度が高い情報のようですね。ですから、カタールって、これまでさまざまな人質解放に身代金を払ってきたというところがあって、でも、なんでカタールがそんなに頑張るのか、って皆んな思うじゃないですか。これは親切心ってだけじゃ実はなくて、カタール自身がですね、やっぱりシリアでアサド政権に対して戦っている、テロリスト組織だったり反政府組織だったりする人たちに、援助をしてるんですね。

で今回、安田純平さんを拘束したところは、反政府組織なんですけど、最初はアサド政権を倒すために必要だとアメリカは皆んな思っていたんですよ。けれども、実際にはこの人たちテロリストじゃないの、とテロリスト認定したんですよアメリカも。だから、テロ組織に対してアメリカや、いろんな外国人を拘束して処刑する、ような人たちを支援する、というのは、たとえ彼らが反アサドでも、やっぱり許しがたい、ということになるわけですよね。

ところが、カタールは、彼らを支援したいわけです。すると、テロ組織にはそのままお金は流せない、で今、国際的な報道で言われているのは、やはりカタールが、そのままテロ組織に資金を与えられないから、ま、ある意味捕虜解放のためのお金として払う、という方針をとっているんじゃないかと。

東野)でも、それがテロの資金源に、

三浦)資金源になるんです。

で、それはビジネスとして実際に「捕虜ビジネス」になっていますから、そこらへんを歩いてる欧米のジャーナリストとか、カソリックの修道長さんとか、そういう人たちを次から次へと捕まえればお金になるということを、カタールが下支えしているというふうな指摘もね、けっこう国際的なメディアとしては報道されているという。

東野)シリアの情勢は非常にややこしく、山ちゃんどう思われます? 今回の自己責任論とか。

山里)はい。SNSを開いて、その文字通りを受け取ったら、ものすごく攻撃的な意見が多いから、こういうふうにちゃんとした話を聞いてから〜(略)あと、シンプルな質問なんですけど、安田純平さんはいろんな情報を持って帰ってくるわけですよね。その情報を言うことによって、シリアの内戦が収まってくるという、情報は持っているんですかね?

三浦)あの、持ってないと思います。

イドリブ(県)から、出ていないですし、実際に、その最後の牙城と言われている所なんですね。ではその彼らの内情を知ると言っても、じゃ、その実際のテロ資金ネットワークとか、いろんなことを知りたい中で、彼が独自に入って行った、あの本来は後藤健二さんの、情報を取りに行きたいような話を言っていましたけれども、そういうなんて言うんですかね、___(?聞きとり不明)全体的に戦場ジャーナリストは、独立派の人たちから、情報を得ているんですよ。助けにはなってるから必要なんだけど、今回の件によって、じゃあ結局、総合的に見て、安田さんが現地入りしたことで何が起きたかっていうと、結局のところはテロ組織にお金が渡ったという。で、これは悲しいことなんだけども、でもその彼の活動って言うのは、全然否定されるものではないけども、結果として言うと……そういうことですよ。

東野)武田鉄矢さんはどう思われますか?

武田)私は、自己責任論とかあるんですけど、いないと困る種類の人たちではあるな、とは思います。知りうる限りのことで結構ですから、健康を回復されたら、その悲惨さでも語っていただけたら、何かの役には必ず立つとは思いますね。

東野)そして松本さんは?

松本)まあ、いろいろと辛辣な意見は聞きますけれども、たとえばNHKのニュースとかでね、「お帰りなさい、良かった」と言うのは当たり前で、それは絶対大事なことで、それがなかったら日本怖いよね。そこで一人の人をみんなで叩くような、そんなん日本大丈夫かと思いますよ。だから、それは良かったよかったでいいと思います、ぼくは。安田さんと、個人的にたまたま道で会ったら、ちょっと文句は言いたいと思います。個人的にね。あのーだから極端な話、わざと人質になって身代金折半しようや、みたいな奴が出てこないとは限らないですからね、この先。もしくは、何だろ、そういうISの参加をするような奴が出てくるかもしれないですから。もちろん安田さんは絶対違うと思いますよ、でもそういうことを考えたら、もうこれ以上はもうやめようね、って感じにはしてほしい。

東野)今後、安田さんがどういう活動をされるかというのは、ぼくも興味あるわけですよ。それでまた中東に……

松本)うーん、それは。それはちょっと、ぼくは許せないなあ。

三浦)いや、だから、政府としては、たぶん行ってほしくないと思います。これだけの労力をかけなきゃいけないし、しかもテロ組織に資金を渡したくないというのもあるし、というのはあると思います。

ただ、こういう職業の人たちっていうのは、やっぱり自分にしかできないというプライドがおありだと思うんですよね。で、そうするとね、戦争って研究すると癖(くせ)になる人って結構いて。私はそういうタイプではなく血が怖いんですけど、でも、そういう戦争がもたらす興奮みたいなものとか。

東野)戦場ジャーナリストとか、海外の外国人傭兵とか、

三浦)だから、それが、何でそればかり撮るんだというのは、やっぱりそれに興味を惹かれるから、だと思うんですよ。

松本)だから、ジャーナリズムって何なんだろうなと。みんな結局、ジャーナリズムを利用しているみたいなとこがあって。結構ジャーナリズムで何でも行けちゃうなあ、みたいな。われわれ芸人も結構叩かれるけど、われわれも突き詰めれば、ジャーナリズムだからね。

三浦)だから、松本さんがおっしゃる気持ちも、なんとなく分かるところがあって。

つまりジャーナリストって、安田純平さんは、もともと日本が戦争をしない国だから従軍記者ではないけれども、イラク戦争に従軍した記者ってのは、もう大興奮で戦車に乗って行っちゃって、その見たまま聞いたままを、アメリカ軍目線で書いちゃう人いっぱいいるわけですよ。だから、ジャーナリストっていうと、そのやっぱり、戦場に興奮してしまって、お上の言うことを垂れ流したり、逆に真逆のことをやってみたり、でその、テロ組織に同情的なことを書く人もいるし。

東野)マスメディアがなかなか取材に行けないところを、いわば下請け的に行っていただくことによってニュースになる、という側面もある。

三浦)その側面もあるし。

でもジャーナリズムって本来、そういう意味で猥雑なものであって。先程その、政府の邪魔になっていいと申し上げたのは、そういうことなんですよ。政府の邪魔になることを、非難すべきじゃないと。ただ問題として、結果としてジャーナリストである以上は、なんか良いことをしたか、かつ伝えるでもいいし、あるいはそこの難民の子ひとりを助けたとか、何かないと、というのは、まぁこれは私が言うことではないんでしょうけどね、ご本人、みんな考えてると思いますよ。

武田)でも、つまんない意見を言います。俺、まだ行ってほしいですね。はい、もう一回、何回でも。それが、この人が人生で初めて行かれたことの一番辻褄の合う方法じゃないですかね。

東野)犬塚弁護士は、どう思われますか。

犬塚)一応これは犯罪であり、この方は犯罪被害者なんですよね。実は日本国民が海外で誘拐にあって監禁されたら、これは日本の警察は捜査をすることになります。ただもちろん海外のことですから、帰国した本人から事情を訊いた上で海外の調査となる、けれども、権限はかなり限られていると。

(37分55秒、このコーナー終了。)

 

しかし、国際政治学者を名乗るわりには、シリア情勢を正確に把握できていない。あいまいな印象を撒き散らすばかりで具体的な例示は一つもなし、話す内容は支離滅裂で脈絡がなく、説明は何れもが尻切れトンボである(そのくせ、ジャーナリスト全般を思うさま侮蔑している)。

冷笑的な物言いを、何箇所か太字で強調してみたが、ぜんぶを書き起こしてみると、三浦氏の論調は、

  • 仄めかしが多く、
  • 具体的な説明が少なく、
  • 相対化するように見せかけ、
  • 実は対象を思いっきりこき下ろ、

していることが分かる。また、(武田鉄矢はともかく)他の芸人たちが三浦氏の言説に同調することで、安田純平氏の行動は全くの無駄骨であり、国家にとって迷惑である、との印象を視聴者に植えつけようとしていることも分かる。

フジ『ワイドナショー』以外の、殆どのショー番組も、程度差はあれ、似たような造りになっている。自己責任論を批判しつつも、自己責任論を補完する役割を担っている。いったいテレビ局は誰に忖度しているのか。日本政府か? いいや、テレビから情報を得る大多数の国民に、である。

私は、三浦瑠麗の発言を、冷静だとか論理的だとか言っている連中の気が知れない。終始うわずりっ放しではないですか!

鰯 (Sardine) 2018/10/28

 

【追記】

ぼうごなつこさんが、この記事をヒントに、今回の三浦発言を漫画化した。

セリフの配置、黒レースのドレスと、なすこさんさすがの出来映えである。

また、4コマめに登場する、三浦瑠麗氏と『正論大賞』を同時に受賞した文藝評論家、小川榮太郎氏に関連する拙記事(記事の頭 ↑ に戻ル)も参照されたし。

追記;2018/10/30