鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

福岡史朗 “KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”

“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”は、福岡史朗+2STONE、2018年リリースのアルバムである。

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  福岡史朗のベストアルバム『HIGH-LIGHT』を当ブログで紹介したのが二年前。それから前作『SPEEDY MANDRILL』のレヴューも書いたし、 彼と彼の仲間たちのライヴを鹿児島に観にも行った。演奏後に少しばかり話すこともできた。疲れていただろうに史朗さんは親切だった。穏やかな人柄に、お会いできてよかったなーと思った。だから昨年末に新譜がリリースされたときは、まっさきに感想を書こうと張りきった、んだが。

 なかなか書けずに今日まできた。

 すごい作品だということは、まず声を大にして伝えたい。これほど個性的な楽曲を一年間のあいだに15, 6曲も書いて、しかも形にしてしまえるというのは、稀有な才能である。

 ところが(前作のときにも感じていたんだが)、その良さを換言しようとすると、どうもうまくいかない。どこがどう良いのかを説明する言葉が見あたらないのだ。ここまで独創的作風を確立されてしまうと、もはや○○に似ている、といった手法は通用しなくなる。今回もマスタリングに携わった高橋健太郎氏は<ヨ・ラ・テンゴの域に達しているよな>とコメントしていた。同感だ。福岡の作る音楽にはアメリカのインディーズみたいな肌触りがある。手作り感満載のアレンジメントやメジャーシーンと交わらない佇まいが、最近でいえばそうだな、ローカル・ナイーヴズなんかに共通する風合がある。ばくは前作『SPEEDY MANDRILL』をサイケデリック・エラ前夜の雰囲気があると記した。だとすれば今回は『サージェント・ペッパーズ~』方面に展開しそうなものだが、さにあらず。どちらかといえば『オクデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』や『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』に近い、牧歌的なムードが全編に漂っている...... 違うちがう、ぼくは○○みたいだと言いたいわけじゃないのに。

 

 そんなふうに書き出しを迷っているうちに、はや半年が経ってしまった。その間、ぼくにもいろいろなことがあった。新しい仕事に就いて、悪戦苦闘している、正直なところ、音楽や文学に没頭する時間が割けない。帰宅して、パ・リーグTVを観ながら夕飯を食べているうち睡魔に襲われる体たらくだ。それでも、仕事のドレイになったとは思わない。仕事の内容を詳細に記すわけにはいかないが、働くこと自体に面白みと発見があるから。

 そうした自分の過ごす日常と、“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”に表された(好きな言葉じゃないけど)世界観が、徐々にリンクしてきたことを感じはじめて、ようやくこの一時間におよぶ大作を自然と・かまえずに聴きとおせるようになった。

 このアルバムで、福岡史朗が伝えようとしているのはささやかだけど、途方もなくでっかいことだ。彼は、人の一生について語りかけている。生命の誕生から終焉までを、さらには再生についてを。それはこと人類のみならず、地上の生命ぜんぶに及ぶ。こんなことを書くと、ディープエコロジーか? と誤解する向きも現れそうだが、そうじゃない、福岡のメッセージに説教くささは皆無だ。ただ、これだけは言っておかなくちゃいけないってことを、嘘偽りなく表明しているにすぎない。

 でも、それって口先でいうほど簡単なことじゃないんだよ。福岡はいつも飄々としているから、大変さを感じにくいけれども、音楽で“それ”を正確に表すのは、じつに難しいことなんだ。

 

 ある程度ネタばらしになることを、あらかじめ断っておくけど、“KING WONDA~” 1曲め「風が吹くと」は、大久保由希さんの独唱である。まるでロック以前の、60年代のカレッジフォークみたいな素朴さだけど、この歌とうまくコミットできれば、アルバム全体のトーンに心身をチューニングできるだろう(それは通常の音楽と接するときのアプローチとは、ほんのちょっと違う)。それにしても、「白い船が川をくだっている、丸い虹が空を覆い尽くす」というイメージは鮮烈だ。まるで立って歩きを始めたばかりの幼児が、空を見上げながら、そのあまりの広大さに茫然としているような印象を受ける。

 2曲めの「爪先までブルース」は、ジャンピン・ジャックな福岡流ロックンロールだけど、ちょっと突き放したようなトーンがフレッシュだ。ヤツも、キミも、オレも、とても傷つくのが悩ましい人生。現代人が直面する人間関係の厄介さと孤独を、福岡はさらりと歌いとばす。

 3曲めの「夜間飛行」は冒頭からミステリアスな雰囲気だ。逆位相のアタッチメントでおぼろげになった各パート。遠くでオルガンが風切り音のように吹きすさぶ。「いよいよ戻れない、手がかりはあまりにも古臭いから」。この不穏さは何を示しているのか? 聞くたびにさまざまな解釈を促される謎めいた曲だ。

(追記;福岡史朗の作る何曲かに、ぼくはジミ・ヘンドリックスの影響を感じる。歌とリフレインの関係性だとか緩いストロークのタイム感だとか。たとえば「夜間飛行」の気だるさには「風の中のマリー」を連想する。)

 4曲めは一転して「午睡」。キンクスのレイ・デイヴィスを想わす暢気なお昼寝ソングだが、童謡のような親しみやすさと「赤い月が欠けて、また満ちる、皆既月食の夜、通りで立ち止まり、見上げる人はまたべつの、キミ」と夢分析のような客観が同居していて、やはり一筋縄ではいかない。

 5曲め「君を想うよ」は、作品集の要所を締めるスタックス・ヴォルト的なミディアムスローのソウルナンバー。「いつか必ず、忘れたころにね」と聞き手に直接語りかけられると、あゝぼくも夜半に感想文を書いているよ、と答えたくなる歌だ。

 6曲め「鳥の言葉」。これもソウルだ。ちょっとメキシカン寄りな。松平賢一の絶妙なリックと、チェリストオブリガートが絡むところで、カッケーな、と軽く嘆息する。

 6曲め「太陽暦」。これは以前、2019/04/02にTwitterで書いた感想をそのまま載っけよう。

福岡史朗 @fukuokashirou 「太陽暦」。

昨年リリースされた、“King Wonda Nug Wonda Ia Kikele”に収録。

予定されていたように 誰かのための礼服と 誰かのための髪飾りを 太陽暦はもう飽きたと うそぶく

優れた表現者は無意識のうちに時代の移ろいをするどく予見する。

open.spotify.com

もちろんこの歌は昨日来の、国を挙げてのから騒ぎ(改元)について歌われたものではない。が、結果的にそれを暗示する詞を書いてしまうのは、今の時代と社会を敏感に捉えているからだと思う。それは、先日木原さん @MitsuoKihara が指摘したイヴァン・リンスの歌詞にも通じることだ。

無造作にやってくる結末に、僕らの喉は干上がり、渇れた」。末期を感傷ぬきに描ききるとは、とんでもない歌詞を書くものだ。福岡のシリアスな歌唱は『ジョンの魂』を連想する。

 

 8曲めの表題曲は、インドネシアかマレーシアに古くからある伝承歌だと言われたら信じてしまいそうな、楽しい歌だ。全体を通じていちばんグルーヴを感じるアンサンブルで、大久保由希&磯崎憲一郎の重心の低いボトムに腰も自然と揺れてくる。さらにワンノートで押しきるかと思いきや、意表をつく部分的転調が施されているあたりに、センスの良さを感じる。

 9曲めの「タブレット」。福岡はあえて図式的な文明批判を試みている(ように思う)。自然の変化という奇跡の傑作がそこかしこに転がっているのに、世界中の人びとが手の内のタブレットに夢中である現状を、嘆くでもなく、ただ指摘する。この乾いた視点は、とても重要だ。

 10曲め「水族館」。さあ、そろそろこの作品集の全体像が浮かび上がってきた。忘れかけていた子どもの頃の記憶が不意によみがえってきた経験、あなたにもあるだろう。「度忘れた、あれは水族館」のあとの、大久保さんのダパツン・ドタツンというフィルインがたまらない。このように歌の内容を理解したドラマーは滅多にいない。

 11曲め「エンジン」。単純なようで、美味しいフックが満載の構成。とくに「エンジン」と食い気味に引っかける箇所なんか、ライヴで観たら、絶対カッコいいだろうなと容易に想像がつく。シンプルなコード進行だのに、あざやかな場面転換。

 12曲め「風の絶え間」にはプログレッシヴな陰影がある。欲をいえば、もっと大胆に(大げさに)演奏してもいいかなと私的には思う。それだけのスケールを備えた楽曲だから。ぼくは今回のアルバムに良質な絵本に共通する“怖さ”を感じるが、この歌だとたとえば、トミー・アンゲラーの『すてきな三にんぐみ』のような、ダークブルーな色彩を思い浮かべる。それは怖いけど、すこぶる魅惑的で、心を捉えて離さない、暗闇だ。

 13曲め「終わりの鐘」。これも冒頭の長閑さにうっかり油断しそうだが、身辺雑記かと思いきや、いきなり剣呑な展開を見せる。「セミが死ぬ、すると終わりの鐘がリンドン」。生と死はつねに隣り合わせだと、いやがおうにも知らされる。とくに常日ごろ子どもと接していると、そういう場面に出くわすものだ。子どもが虫の死骸をつまんでいる。これ、触ってたら潰れちゃたのと。大人は虫が死んでいることを教え、亡骸を捨てるように諭す。そのとき、ぼくの耳にも弔いの鐘の音が低く聞こえている。

 14曲め「風が吹くと(Reprise)」。冒頭の歌が、親から子へと受け継がれる。ここにいたって、この壮大なコンセプトの全体像が誰の耳目にもあきらかになるだろう。

 15曲め「春の歌」は君の歌だ。この歌の歌詞に、このアルバムで語られた諸々のことが、一点の曇りもなく明示されている。次を受け継ぐ者へ贈る、真摯なメッセージだ。一瞬のブレスを置いたあとに吐き出される「強さも弱さもそのままに、小石は無限の意味を持つ」。君が生まれてきたことは、それだけで意味があることなんだと、力むことなく、けれども力強く伝える。春の歌は(五指の音列で成り立つ)歓喜の歌、そして今を生きる者たちすべてに贈られた賛歌である。

 

 人生は、光と闇の交錯する複雑怪奇な絵巻物だ。いったん生の舞台に上がった以上、命脈が尽きるまで努め、演じ、舞わなければならない。あらしのよるの闇の深さに、君は慄くだろう。けれども春の陽ざしに包まれて微睡むこともあるだろう。出会いもあれば別れもある。憂うつもあれば怒りもある。大人社会は厄介かつ面倒くさくて嫌いなヤツとも手を組まなきゃならないこともある。場を与えてはならないと声高に訴えたところで事態は好転しない。なにしろ大人は多かれ少なかれ、自分以外のことに時間を費やさなくちゃいけない。自分事だけにかまけていては社会の一員とは言えない。公共を意識してこそ一丁前の大人である。親となればなおさら子どもとの時間が大切になる。子どもと向きあう時間を惜しんではならない。子どもが大人から教わる以上に、大人は子どもから多くのことを学べる。無駄な時間は一瞬もない。ぼくたちは与える、これからの未来を生きる子どもたちへーー

 福岡史朗の、“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”を聴きながら、ぼくはそんなことを考えている。時おりへヴィーな気分にもなるが、音楽自体は風通しのよい耳に負担をかけない軽やかな種類のものだ。福岡作品は旧作も含めて、Spotifyなどのサブスプリクションで聴けるけど、できればCDを購入してほしい。たぶん十年くらい後になったら誰もが福岡史朗の真意を理解できるようになると思う。そしてそんな円盤を所有しているオレは、まんざらでもないなと独りで含み笑いしている。 2019年5月19日

 

 

KING WONDA NUG WONDA IA KIKELE

KING WONDA NUG WONDA IA KIKELE

 

 

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