鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ぼくは『コヤニスカッティ』のエンディングを観ながら眠りに就く

 

例のごとく、またもや1ヶ月も更新をサボっていた。それでも過去のエントリーで訪問者は途絶えていない。しかしこれではまるで「不労所得で荒稼ぎする資産家」のようではないか。反省したい。

テレビをぼんやりと観ていると気が変になる。一昨日は芸人たちがミスチルを称揚していたし、昨日はワニマが女の子にフリースローさせていて、5回目に成功して会場はみな涙していた。ぼくみたいな年寄りには縁のない世界だ。つまり、関係性が完全に逆転してしまったんだな。ステージの上に立つ人気者に憧れる構図ではなくて、ステージのまわりを囲むキミたち一人ひとりこそが主役なんだよ、と感じさせる図式へと。その変化の先鞭がMr.Childrenで、完成形がWANIMAってことなんだろう。

ぼくはもはや今どきのエンターテイメントを欲さない。

SNSでは、キズナアイというキャラクター(Vtuverと呼ぶらしい)が取りざたされている。是非を問うなら、ぼくは「非」だ。美少女キャラが萌え絵がそこら中に遍在し、一般化してしまうことを疎んじている。そしてビートルズのレコードや永井豪の『ハレンチ学園』を、「へぐれん(くだらん)!」と怒鳴って取りあげていた親父よろしく頑固になっている。要するに、時代遅れを自覚するのが怖い。だから若い人向きの表現物を否定したがる。そんなモンを辺りかまわず撒き散らすなと始終文句をいっている。哀れなもんだ、老害イワシ

いずれ、世の中のいたるところに(『ラブライブ』のキャラクターがそこかしこに描かれた沼津市のように)しどけない媚態を備えた美少女が都市空間を占拠するだろう。そのあかつきには、表現の自由戦士たちvsラディカル “フェミ”たちの不毛なる論争は幕を閉じ、「ふり返るとあの諍いはいったい何だったんだろうね?」と笑い話で済ます未来が来るんだろう。分からない、わからないがぼくは楽観的な未来図をどうしても描けずにいる。その意見は「(混血の多い)ブラジルには差別が少ない」というくらい粗雑なものに思えるのである。そうやって問題を稀釈してしまうのは、絶対よくない。

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でも、ぼくは老いた耳でありたくない。だから今の動向を、たとえ的はずれであっても追っていようと努めている。息切れしない程度に。

ぼくの場合そうだな、最近こんな経験をした。

近所の中学校で運動会が催されたときに、校内放送でこれがかかっていたから、へぇーって感心したんだ。

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エド・シーランの「シェイプ・オヴ・ユー」。一年前のヒット曲だけど、いまだにグローバルチャートに留まっているロングセラー。コロコロしたカリンバ風の音色が印象的だけど、ぼくはこれ、てっきりアフリカン・アメリカンのレコードだとばかり思っていた。ところが調べてみると、エド・シーランはイギリス人のシンガーソングライターなんだ。それにはちょっとびっくりした。

グローバルチャートに載っている音楽の9割は自分には縁遠く、必要のない音楽だが、残り1割には真実らしきが潜んでいる気がしてならない。「シェイプ・オヴ・ユー」なら特徴的なリフレイン。あの執拗な繰り返しが、ぼくには何だか呪術めいた響きに聞こえてくる。

心を捉えて離さない響きは確かにあるのだ。

 

先日『コヤニスカッティ』のことを不意に思い出した。あのコッポラが監修した、映画というよりも映像作品で、日本でも公開されて、当時そこそこ話題になった。説明するのは面倒なので、Wikipediaをご参照ください。

🔗 コヤニスカッツィ - Wikipedia

その陰惨なラストシーンと音楽が脳裏から離れないのだ。観てもらったほうが早いかな、これだ。


Koyaanisqatsi - Ending Scene (Best Quality)

マーキュリー計画時の、おもちゃみたいにちゃちなノズルの、アトラス型ロケットが発射される様子を『砂丘』の「51号の幻想」みたいなスローモーションで映し出したものだ。これを出張中に3泊した人口5万弱の地方都市の、ビジネスホテルのケーブルテレビで観たのだった。出歩く値打ちもない寂れた町だったから、夕食後は何度も放映される『コヤニスカッティ』を繰り返し観て夜を過ごした。

それはまるで、地獄での修行のようだった。

だから当時ぼくは嫌いだと公言していた。最近あるコミュニティーでも同じことをつぶやいた。

コヤニスカッティ』。観たとき、ひどく気が滅入ったのを覚えている。あれは嫌いだと誰彼かまわず言っていた。今ならどうだろう? 分からないけど、今さら観ようとは思わない。

するとジュラ、きみがすぐに反応してきた。あのとき何と言ってきたか今では確かめる術もないけど。例のごとく教養あるところをちらつかせつつ、「観たほうがいいですかね?」と訊いてきたんだっけ。

ぼくが答えあぐねていると、mさんが、「あれは確かに落ち込む。観たほうが良いと思うけど。」と助け船を出してくれた。そこでぼくは、「機会あれば観てみてください。でも今の目で観れば、かなり牧歌的に映るかも、しれません」と返事した。

ジュラ、あれから『コヤニスカッティ』観てみた?

最近ぼくが出会った中でもジュラはずば抜けて頭がよかった。選ぶ言葉の的確さに、コイツはおつむの出来が違うと感じた。そんなきみにとって、ツイッタランドの泥沼めいた状況は、さぞや醜悪に映ったに違いない。人権の「じ」の字も理解してないような連中の鈍らな言説に辟易するのも無理はない、失望したきみは自らを絶滅させた。ぼくはそういうことだけには敏いから、きみの不在はすぐに知れた。

ジュラは白亜紀ともども、姿を消してしまった。

きっと海の向こうで、学業に励んでるのだろう。

だけどジュラ、きみがいないとぼくは寂しいよ。

きみの辛辣な指摘が、どれだけぼくらの目を開いてくれたことか。きみはこんがらがった糸をピュッとほどくのが巧かった。教養の欠けるぼくには、それこそハーバード大学の授業にテンプラ学生したような気分になれた。そしてそれ以上に、自分の子どもくらいの齢の若者と知りあえたことが、ぼくは嬉しかった。

今この氷河期に冬眠するのは仕方ないけど、いずれまた間氷期になるから、そのときは穴蔵から出ておいで。ぼくはそれまで、ジラシックパークならぬジラシックパークで、きみの復帰を待っている。

エド・シーランのカリンバ風シーケンスにも似た、フィリップ・グラスの陰気な御詠歌を聞きながら。

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題名が80年代ふうなのは、年齢の差のせいにしてくれたまえ。鰯 (Sardine)