機内で邦画を観た話
2月上旬のイタリア旅行記を書こうと思うが、なかなか着手できない。書く暇がないというよりも、気が乗らないのだ。とかなんとか言っている間に3月になってしまった。たぶん、このまま書かず終いになるような気がする。
往復した機内で読書しようかと目論んだものの、明かりの暗さを口実に、早々に読むのを断念した。代わりに座席に備えつけのモニターで観られた、映画の話でもしようかと思う。
洋画を3本、邦画を3本観た。洋画の方は吹き替えなしだが、どれもそれなりに満足した。こんなときでなければ、ハリウッド産の映画など観ないが、英語でも筋書きがおおよそ理解できるのは、やはり脚本と演出がしっかりしているからだろう。意味不明なところなど、微塵もなかった。
それにひきかえ、邦画は無惨だった。3本のうち1本は既に観た『シン・ゴジラ』だが、
medium.com
いや、あらためて観ると、粗が目立つというか、ずいぶん強引な展開だなあと思った。勢いで押しきる爽快感はあるものの、帰路で観たせいかもしれないが、はたしてこの内容を、日本人以外が観て楽しめるだろうか?と心配になったのである。日本社会における制度(と弊害)をあらかじめ理解していなければ、このドタバタ劇、楽しめないのではないか。その文化の相違について、あまりにも説明が不足しているのではないかと感じた。たぶん登場人物の中で、日本人以外が心情移入できるキャラクターは、石原さとみ演じるカヨコだけではないだろうか。
(しかし、残念ながら危惧はあたったようだ。)
他の二本については、タイトルを書くことも憚られる。一本は佐藤健が瀕死の青年郵便局員を演じるもので、函館が舞台である。友人に濱田岳、元カノに宮崎あおいが配されているが、これがもう「日本であること」を前提に観なければ、まるで理解できないだろうとさえ思える程の、内向きな、普遍性に欠ける映画だった。日本文化って何だろう?と観る側が必ずしも興味を持って接するとは限らない。外国の方が観たら、前後の脈絡なくエピソードが羅列されるばかりで、まとまった物語として把握できないのではないか?
一例を挙げると。旅先で出会った友人に先立たれた宮崎あおいが、イグアスの滝まで来て「生きてやるう」と号泣する場面があるけれど、その訴えは物語のテーマと噛み合わないまま、アルゼンチンロケ敢行、に回収されてしまっていた。このシーン要るか?余計なエピソードだ。
それでもまあ、家族への想いやら生きることの意味やら、テーマの軸になるものには沿っているから、失敗作だと断じはしないが、しかし不出来な作品だった。
もう一本はさらにひどい出来で、観ている間、なんだコレはと何度もつぶやいてしまった。玉木宏が頭脳明晰な探偵で広瀬アリスが押しかけ助手という、二時間サスペンスドラマみたいな、否、二時間サスペンスドラマよりも杜撰な内容の映画だった。大根役者の大味な演技と偏見にあふれた犯人像の造形に辟易した。舞台は広島県福山市で、私はこの地を何度も訪問してよく知っているが、これじゃ福山の魅力が台無しだ、もしも私の知らない土地ならば、この映画を観て福山に行きたいとは思わない。
aozoraeiga.blog.so-net.ne.jp
(私は、太田隆文さん一連の記事を思いだしていた。地方が「文化」を招聘する際に必ず表面化する問題である「地元の期待」が如何に他力本願であるかが手に取るように分かる。一読されたし。)
おそらく福山市は、映画の舞台となることで、観光誘致の期待を抱いて協賛したのだろう。しかし、私の観たかぎりでは逆効果である。ミステリーだから悪いのではない。湯けむり殺人事件は観光地の宣伝になる。けれども映画の舞台にするなら、それ相応の魅せ方があるだろう。なにもヴィスコンティみたいにヴェニスを撮れとは言わない。が、しかしロケ地をぞんざいに扱えば、それがもろに画面に表れる。鞆の浦の平板な描写はどうだ。そこが鞆の浦であるべき必然性がまるで感じられないではないか。なんのために主人公は鞆の浦に足を運んだのか。そこに犯行の鍵となるヒントが潜んでいるからではないのか。そのことが画面から全く伝わってこない。美男美女の観光地めぐりでしかない。
私はこれでも抑制して書いた。しかしこれほど邦画を観てがっかりするとは考えもしなかった。この二本が日本を代表する映画だと諸外国に思われたくない。この二本(と『シン・ゴジラ』)に共通する負の要素とは一体なんだろう?
私は閉塞感だと思う。外に開かれていない。諸外国に・国際的に・観られることにあまりにも無頓着であり、日本人が・日本語圏内で観ることだけを大前提にしているようにしか思えない。日本製品がガラパゴスと称されて久しいけれども、日本文化の素晴らしさとやらを世界中に知らしめたければ、まずは各表現ジャンルが世界的に通用するような作品を送り出さねばならない。自己満足や内輪受けではダメなのだ。たとえ日本語が理解できなくとも、日本の習慣を知らなくても、観る側がそれだと知れる共通コードを用意するべきだ。共感できる回路と言い換えてもいい。要は土台となるテキストであり、狙い定めた演出である。日本は・日本人は・日本の文化を本気で世界に問わなくてはならない。それは自己愛にまみれた、「日本は素晴らしい」の音頭から最も遠くに在らねばならない。
邦画に倦んだ私は、窓外に目を移した。眼下にシベリアの凍土が広がっている。例えばここに住まう人たちにも共感できるような、普遍的価値を少しでも反映した物語を表出できるか?大げさなようだが、それくらいの気概をもって世界に立ち向かう時期に来ているのではないか、「日本」は。
鰯 2017/03/03
【コメント】
邦画で、世界公開を前提に撮った映画ってあるんでしょうか?
私も偶然にもシンゴジラと、あと殺人事件のやつをアリタリアの機内で見たクチで。アリタリアでも日本路線は邦画入ってるんだな、とちょっと感心したのですが。
Naoki Satoh
【返信】
極論ですが、ないと思います(笑)。
そしてご指摘の通り、邦画は観る層を絞れば絞るほど、コンテキストの度合いが増し、その言わずもがなから疎外されたら、理解すら到底不可能となりがちです。
私はむしろ、ローコンテキストを意識してはどうかと考えました。もちろん説明過多は禁物ですが、説明ナシも困りもの。(詳しくはありませんが)作劇の方法論は幾通りもあるでしょう。脚本、演出、撮影、配役と。映画を構成する各要素が緊密に噛み合っていれば、たとえ海外を特別に意識しなくとも海外が理解可能な普遍性を獲得できるのではないか、と。
「君の名は。」はいいセン行くんじゃないかな。図式的な部分が逆に功を奏すというか。田舎の家のお茶の間に液晶テレビが鎮座する風景。私はあれこそが今の日本をリアルに映しだしていると思う。
私は「もっと他の邦画をセレクトしてよアリタリア航空」と言いたかったんです、たぶん。鰯 2017/03/05
日本はちっとも素晴らしくない。
Japan is not as good as it is.
いつぞや「タクシー運転手のサービスがスゴい日本」という英文の記事をみた。Mediumで、1ヶ月ほど前に。
確かにそうだ。海外からみた、日本の良いところはたくさんあるはずだ。
が、
こういう目で見られていることも、同時に自覚していたほうがいい。
Does Japan have a serious problem with sexualising children? @StaceyDooley investigates in her latest doc. pic.twitter.com/qA5PXzJrvp
— BBC Three (@bbcthree) 2017年2月28日
コンビニの書棚にエロ本が並ぶ、日本。未成年の女性を性的対象に扱う、日本。
私は常々<性愛をおおらかに語るのと、性欲をおおっぴらに開陳するのは、まるで違うこと>だと言っている。
I always say that sexuality and sexual desire are totally different.
JKビジネスで世界に恥を撒き散らす国、それが日本。
ことさら自虐的になる必要はないけれども、胸を張って威張れる程でもない。
今の日本に必要なのは謙虚さと正直さ。
I think it’s humility and honesty what is needed for Japan now.
日本はちっとも素晴らしくない。
鰯(Sardine)2017/03/06
Mediumにて宣言しておこう。
先月の海外旅行をきっかけに禁煙しています。ようやく1ヶ月が経ちました。このままタバコとオサラバできればいいな。
プロフィール写真の種明し。セルフィー鰯
【コメント】
私に言わセルフィーか
お、鰯さんの禁煙宣言が出ましたか。ちなみに、何年くらい喫煙されていたのですか?
隆之介(codenetJP)
【返信】
私は禁煙のベテランですよ。もう4、5回はチャレンジしてます。禁煙を破ったときの開放感と一服の清々しさは、他では味わえませんね。だからなんども挑戦します。そのために禁煙するのです。
と、おちゃらけ返答で済ませたいのですが、こればっかりはマジです。タバコ代はばかにならない額です。ときに身もだえしながら、吸えない夜を過ごしてますよ。鰯
註)1年経過、禁煙は継続中である。
名前をさらしてみる。
「まことに申しわけないけれども」と上司は切りだした。「5年契約の最後の年度ということで、来年の3月いっぱいまででイワシさんは満了となります」
はあそうですか、と返事したものの、やはり心中穏やかではなかった。5年以上雇用したら嘱託を正社員として雇わねばならない。そういう事情からの5年契約だ。社とて、50半ばの中年を新たな正社員に迎えたくはなかろう。退職までに1年間の猶予もあるのだから、その間に次の職を探せるではないか。と色んな理由をつけて納得しようとしたが、やはり無理だ。昼休みになっても気持ちのささくれ立ったままだった。
何か心機一転をはかりたくなった。
Twitterを開いた。私は今までの「イワシ タケ イスケ」というネット上を回遊する名前に終止符を打ちたくなった。本名で行こう。実名をさらそうじゃないか。誰に遠慮がいるものか!
プロフィール欄に漢字で「岩下 啓亮」と記した。ついでに生年月日を詳らかにした。
もやもやした気持ちが少し治った。
勢い任せに、Mediumのプロフィールも漢字表記にした。これで、現実の岩下啓亮とネット上のイワシさんの同一性は明らかになる。
「ネットに実名をさらすのは、ばかだ」との言説が流布されて久しい。とりわけ勤め人には不利であると。人事上取引上の不都合は不可避であると。が、本当だろうか。私たちはそれほど息苦しい世界に生息しているのだろうか。
今まで私は漢字表記による実名を回避していた。その理由は、「検索に引っかからない」ためであった。しかしそのような遠慮や自粛は窮屈だし、無意味であると思うのだ。もしも私の発言があなたの不利益に繋がるなら、どうぞ直言願いたい。私も一社会人として常識ある発言を心がけるので。
今はそういう気持ちでいる。実名をさらすことで、不利益を被るかもしれない。いや今までも損な人生だったが。だから今さらさ。この情報社会、どうせ個人の特定は簡単可能な世の中なんだから。好き勝手に喋らせてもらうよ。
だけど、これからもイワシと呼んでね。
鰯 (Sardine)2017/03/14 at熊本空港
『プリファブ・スプラウトの音楽』を読んで
著者:渡辺亨、刊行:DU BOOKS(ディスクユニオン)、初版:2017年3月24日。
ニューカッスル近郊のプリファブ・スプラウト、カーディフ産のグリーン率いるスクリティ・ポリティ、グラスゴー在住のブルーナイルと、一口に英国といってもイングランド北部、ウェールズ、スコットランドと、土地柄や風土によって、音の響きが違うことを感じる。そして、80年代中ごろのポピュラー音楽シーンにおいて、最も充実した音楽を拵えていたのは、この三つの地方都市出身のグループだったと、個人的には思っている。
この本の著者、渡辺亨氏も、ほぼ同じ考えのようだ。
My case is this.
近所に住むT大生から、プリファブのファーストアルバム“Swoon”と、ブルーナイルの“A Walk Across the Rooftops”を、二枚同時に貸してもらったのが始まりだった。彼と意気投合したのは、スクリティ・ボリティの初期のシングルはいいよねと話したことからだった。もう32年も前の話である。私たちは代沢の旧いアパートで、夜中から朝まで飽きずにレコードをかけていた。
『プリファブ・スプラウトの音楽』を読んでいると、私はあの青かった時代にタイムスリップする。たとえば、
僕は(“Songs to Remember”に収められている)「ジャック・デリダ」を聴くたび、マーク・ボランのことを思いだす(39ページ)
なんて箇所に出くわすたび思わず頰が緩む。そんな「うん分かるわかる」が星くずみたいに随所に散りばめられているけど、油断してはならない。博覧強記の著者は、プリファブのリーダーにして稀代の作曲家、パディ・マクアルーンの歌詞に、どんな謎が秘められているかを解読しようと試みる。ありとあらゆるヒントの糸を引っ張りだし、こうではないか?とあれこれ推理する。それはプリファブの音楽に魅せられた者たちに共通する衒学的な態度とも言えようが、閉鎖的にならぬよう、著者は現代に通底する問題をあえて持ちこみ、プリファブの歌詞に込められた批評性と精神性を鮮やかに提示してみせる。
そのことを伝えようと私は著者に以下のようなツイートを送った。
① @watanabe19toru 先ほど読み終えましたが、今後何度も音楽と一緒に読み返すことになるでしょう。私的には、『レッツ・チェンジ〜』の章に示された“スピリチュアルな音楽”の真摯さは、昨今流行りの“スピ系”とはまったく別種の、峻別されるべきものだ、というふうに読めました。
② @watanabe19toru そして、「エレクトリック・ギターズ」の一節、“quoted out of context”を「文脈外の引用」とルビをふって引用した160頁は、パディ・マクアルーンの批評性にみちた歌詞を、きわめて今日的な視点から再批評しているように感じました。
じつはこの2つのツイート、私は②→①の順番で投稿したのだが、渡辺氏は順番を上のように並び替えてリツイートしていた。さすがプロのライターは違うなあと唸った。
私はプリファブ・スプラウトの音楽を32年も聴いている。いまだに飽きない。こんな記事をブログに書いたくらいだ。
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
ここに書いたような、「架空インタビュー」は、それこそ二次創作の極みとも呼べそうな遊戯だが、渡辺氏渾身の、ホンモノの評伝を読んだあとでは、公開していることが恥ずかしくなった。畏れいる程度の弁えが私にある。素材の切り貼りを好きでやってると開き直るのは見苦しいことだとも自覚している。だけど他ならぬ渡辺氏は、プリファブの音楽はさまざまな解釈が可能であると書いているので、私は言い訳めいた追記を加筆し、記事を削除するのはどうにか思いとどまった。
お言葉に甘えて、二、三私見を添える。
③ファーストアルバム“Swoon”の粗削りな魅力を私は積極的に評価したい。確かに焦点は絞れていないけれども、作曲の経験の浅いパディ青年が、自分の押さえたコードネームも分からないまま、徒手空拳で拵えたはみだしの多い楽曲は、その後の飛躍を暗示させる、可能性を大いに秘めたものだったと思う。
④トニ・ヴィスコンティがプロデュースしたアルバム、『ガンマン・アンド・アザー・ストーリー』では「架空の西部の物語」が展開されるけれども、ジャック・ブルースはさておき、エルトン・ジョンの“Tumbleweed Connection”は、パディの意識下にあったのではないか?邦題『エルトン・ジョン3』のプロデューサー、ガス・ダッションとトニ・ヴィスコンティの共通項をたどっていくと、もう一人のアメリカ人プロデューサー、デニー・コーデルに突きあたる。司令塔にレオン・ラッセルを擁した、ジョー・コッカーとマッドドッグ・イングリッシュメン。いわゆるスワンプまで射程距離を伸ばしてみたい。この一連の動きは、パディの少年時代の感受性と作風に多大な影響を与えているように私は思うのだ。
とシロウト解釈を加えてみたが、そう、この書籍の最大の魅力というか長所は、このように自然と読者が語りたくなるところだ。プリファブの音楽の感想を語りあかすことは、リスナーにとって至上の喜びだ。渡辺亨氏は、読者に穏やかに語りかけると同時に、読者の声に耳を傾けてもいる。きみの意見をきかせてほしいと。その間口の広さは、それこそプリファブの音楽のようだし、その筆者の真摯な姿勢に、読者は信を置くのだ。
私にとっては小沼純一氏の『バカラック、ルグラン、ジョビン:愛すべき音楽家たちの贈り物』と並ぶ、大好きな一冊となった。
この本を書店に見かけたら一読をお勧めする。
鰯 (Sardine)2017/03/23 55回めの誕生日に
【コメント】
在外邦人は「書店で見かける」という贅沢な体験を持つことが極めて限られます。
書いてくださってありがとう。削除せずに残してくださってありがとう。
bono.carillon
【返信】
返信ありがとうございます。
ベルギーには行ったことないのですが、確かにブリュッセルの書店に、日本語の書籍は殆ど置いてなさそうですね。
私はプリファブ・スプラウトを聴くと、いつも切なくなる。ブルーナイルの歌ではないけど、“Sentimental man”なんです。エヴァーグリーン、透明な哀しみ。複雑な旋律をたどるたび、異郷の街角に立っているような錯覚に陥るのです。
が、
日本は今、ショーニンカンモンに揺れてます。音楽と戯れる気分にはなかなかなれずに困ったなーと思い煩う誕生日です。
p.s.『プリファブ・スプラウトの音楽』は映画好きにもお勧めの本です。正直いって、半分くらいは観たことのない映画が紹介されていました。イワシ
今日クレームをちょうだいした
今日、私はクレームをちょうだいした。正確には「ご意見・ご要望」を記入する欄に、こう書かれていたのだ。
私が入園チケットを購入する際、白髪の背の高い職員の方が受付されましたが、私が一万円札を出すと、眉をひそめ、あからさまにため息をついて、おつりを渡しました。このような対応をされたので楽しみにしていた気持ちが台無しになりました。もう二度とここには来ません。30代・男性 3月25日(昨日)
ご意見箱に入っていた紙を読んだ私は、かなりショックを受けた。来園したお客様に対して無自覚ながら苛立ちを露わにしたのだ。きっと私は忙しさにかまけ、釣銭が不足している焦りから、一万円札を出したお客に対し、露骨に嫌な顔をしてみせたのだ。さぞや気分を害されたであろう。100%私が悪い。接客業失格、である。
私はお客さまのご指摘が書かれた用紙をすぐさま上司のもとに提出した。上司は事務室でひと通り読んだのち、分かったと頷いた。そして笑いかけた。
「だけどイワシさん、これ持ってくるとに勇気が要っただろ?」
「あ、はい。とっさに捨てて、証拠隠滅しようかと思いましたよ」
冗談めかして返事したが、顔は強張っていたに違いない。
《ひょっとしてオレ、受付業務には不向きなんじゃないか?》
こないだ、契約はあと1年だと告げられたときから、私の裡に育っていた感情だ。
55歳の爺さんが仏頂面でチケットを販売するのは、どう考えても公園の表玄関には相応しくないだろう。もっと若く、はつらつとした性格の人に交替するべきではないか?今回こうして率直な意見を頂いたけれども、みんな直接口に出して言わないだけで、もしかしたら内心で思っているんじゃないだろうか、『イワシさん無愛想だなあ』と。
被害妄想かもしれないが、他の誰よりも自分が一番向いてないと感じている。
最近ひどく疲れるのだ、無理して笑顔を繕っていることに。
《引き際というが、潮時かもなあ……》
それに、きっとこれはしっぺ返しなのかもしれない。
ツイッターで「現政権の閣僚たちが予算委でみせる横柄な態度を厳しく批判している」ことへの。
調子にのるなよケイスケと私は現実から痛烈な一打を食らったのだと思う。
申し訳ない。書かずには居れなかった。書かないと自分を保てなくなりそうで、明日、職場に赴くのが億劫になることを私は怖れたのだ。
鰯 (Sardine)2017/03/26
【コメント】
公園のおじさんがブチギレ
どうせ、クレームをされるなら、「ふざけるな、この野郎!!公園に諭吉なんか持ってくるんじゃねえよ!!釣り銭なんかあるわけねーだろ!!冗談は顔だけにして、さっさと中へ入れよ。金なんか要らねーわ!!」くらい…
隆之介(codenetJP)
【返信】
お客さまが不愉快に思ってしまったのは事実ですが、私はまったくそれが「記憶にない」のです(流行語)。土曜日曜は陽気のせいか予想をはるかに上回る大賑わいで、来園者一人ひとりの様子や表情を観察する余裕がありませんでした(だからこんな失敗をしたのでしょう)。いや、ひとつだけ覚えがなくもない。ただしそのお客は男性ではなく女性でした。領収書の書き換えを求められた際、面倒くさいなと思った局面が確かにありまして、《あ、今の態度は邪険に扱ったと受けとられたかも……》と自覚しています。でも、だとしたら土曜日の私は二重に過ちをおかしたことになります。
そもそも私は、今の職場で同様のヘマを二度もやらかしてまして。団体客への案内がいい加減だったという投書が一件、ペット禁止の公園にムリやりワンちゃんを連れこもうとする男性と口論になったことが一件と、今回で三件めともなれば、これはもう公園の案内役としては不適格である、との烙印を押されても仕方ない。
私は激しやすい性質ですから今回も抑えていた感情が表出したのでしょう。そして早晩「イワシを受付に立たせるのはいかがなものか」との評価が上の方から下されることでしょう。(マジレス鰯)
【コメント】
ただのお金の受け渡しも奥が深いですね。
数年前、某シアトル系のコーヒーチェーンで働いていました。来てくれるお客様に最高のサービスは何かと考え、お客様のニーズを察し、さりげなく期待以上のことに応えることを目指し、それなりのプロ意識をもって接客…
Minami Toyokawa
【返信】
半月前に書いた記事が、まだ読まれているのだと思うと、面映ゆいし恥ずかしいです。そして、このようなレスポンスの返ってくることが、とても嬉しいです。
接客は、ほんとうに奥が深いと思います。私の場合、窓口の受付ばかりではなく、他の業務も兼ねる何でも屋ですから、なおさら気持ちの切り替えが難しいのです。
トヨカワさんは、日頃から相手の気持ちをよく理解しようと努めているように思えます。文面からGood vibrationを、温かさの波動みたいなものを感じとれます。
思いやりのある返信を、ありがとう。鰯
【コメント】
本当はそこが好きで楽しみたかったからだと思います。
こんにちは...
YEYSHONAN
【返信】
丁寧なレスポンスをありがとうございます。
その通り、クレームを受けた自分の気持ちばかりにこだわるのではなく、お客様がなぜご意見を書いたのかに思いを馳せなくてはなりませんね。他者への想像力が試されるところです。
とはいえ、いろいろ思うところもあり、つい先ほど、配置転換を申し出ました。あと一年、後進に指導しながら、前線から撤退しようと思っております。鰯
註)まあ、こういう「けしからん」投稿ばかりしていたから、「雇い止め」になったのだろうな。
2011年11月21日、黄昏時のスケッチ
(昨日、以前したためたツイートのことを唐突に思いだした。Twilogに過去のつぶやきを収めてはいるが、Mediumにコピー&ペーストして少し読みやすくした。)
逢魔が刻、上品そうな老夫婦が散歩していた。バーバリーのツイード地のジャケットを着たご主人が車椅子を押している。座っている奥さまに、ご主人は熱っぽく語りかけている。その話の内容が興味深かったので、ぼくは思わず耳をそばだてていた。以下その内容を記す。どうか誤読なきよう願いたい。
老紳士「お前ね。ここ二十年間の日本経済はがたがたで、どうしようもないとされてきたんだが、それは違うんだよ。ぼくは新聞の経済面にずっと目をこらしてきたから判る。日本は低迷期を脱した。これからは飛躍の時だよ。ねえお前、日本はまだ捨てたもんじゃなかったんだよ。」
「日本はね、これから良くなるよ。いままではアメリカの言いなりだったけれども、最近のアメリカにはかつての勢いがないんだ。しかしね、日本は違う。これから金融緩和なんかの政策が効けば、もっと良くなるだろう。これからは日本がアメリカに代わって世界の経済を牽引してゆくんだ。」
「ぼくはね、ずっと新聞の経済面をじっくりと読んできたからそれが分かるんだよ。ねえお前、日本は凄いよ。日本は世界のリーダーになるんだ。いままで辛かった時期も、もうじき脱出できる。そして日本国民みんなが、幸せに暮らせるんだ。ぼくは最近ね、そのことを確信しているんだ……」
老紳士の熱っぽい口調に、車椅子の夫人は、「ええ、そうですか」、「ほんとうに……」、「そうだとよろしいですわねぇ」と頷くばかりだった。ぼくは彼らとしばらく並んで歩いていたが、だんだんご主人の主張を聞いているのが辛くなってきて、足早にその場を逃れるのだった。
老紳士の語る日本は、ぼくの視ている、あるいは見えている日本とはまったく違う。はたして彼は、本気で自分の喋っていることを真実だと考えているのだろうか。理想を述べているのか。それとも、気休めに過ぎないのか。先の不安な奥さんを、安心させたいがための「優しさ」なのか?
わからない。わからないが、ぼくは老紳士のことばを聞いていて、むしょうに哀しくなった。そして、その哀しみの源をたどっていくと、国家と自己との関係という問題に、否応なしにつきあたる。ぼくは彼のように、日本という国家の安泰が自らの幸福に直結するという志向というか思想が、欠落している。
日本が良い国であることが望ましい。もちろんそう思う。しかし自分の属している国だけが栄えていれば済む話でもないし、それで幸せだとはとても思えない。……あーまたしても、抱えきれぬ問題を抱えたまま、結論を書かないまま、持ち越してしまう破目になった。申しわけありません。(了)
朝のツイートに関する、しごく簡単な総括:畢竟ぼくは国家を自己と同一化できない、アイデンティファイできないことを改めて自覚したということ。(念のため言い添えておくと、老紳士のことは嫌いじゃない。むしろ好もしく映った。かれのような思いやりのある老人になりたいと思うほどに。)
老紳士が語っていたのはアベノミクスへの期待である。彼は今も同じ心境でいるのだろうか。
写真は2013年11月24日、坪井川土手にて。本文とは関係ありません。
鰯(Sardine)2017/03/28