鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年12月のMedium

 

12月も11月と同様、それほど頻繁に更新していない。にもかかわらず、Mediumに耽溺していたという印象の理由は、おそらくユーザー間の交流が頻繁だったからだと思う。

 

目を鍛える

健康診断に赴くたびに、いろんな数値が低下あるいは上昇しており、身体機能の衰えを思い知らされる例年である。

とくに愕然とするのが視力の低下だ。左右とも0,4。乱視も入って対象が小さいと二重に見えるから、もちろん運転中はメガネをかけているけど、それ以外の時は仕事中も裸眼で通している。

だが、読み書きが次第に困難になってきた。表計算の数値を読むのも辛いが、より困るのが読書である。文字がはっきり見えないと、本を読むのが億劫になってしまう。内容が速やかに頭に入ってこないのだ。そのせいで、読む量も回数もめっきり減ってしまった。今まで読書家を自認していたが、その旗印も下ろさねばなるまい。

しかし、諦めるにはまだ早い。視力をなんとかして回復させたい。そのためにはPCの画面から離れ、スマフォに興ずるのを控える他ないだろう。目の休息は大切だ。けれども消極的な気がする。もっと他に、積極的に、目を鍛える方法はないものか。

よく遠くの景色をボーッと眺めるのがよいと言うが、私はむしろ凝視したい。静かに眺めるよりも、瞬間を捉えたい。動体視力は意識すれば鍛えられるのではないか?医学的な根拠は何もないけれど、普段から物体の動きをキャッチしようと心がけていれば、自ずと視力が蘇るように脳が働いてくれるのではないかしら?

アオサギが今年も飛来してきた。池のほとりで鯉を狙っているが、人の気配を感じるや否やサッと飛びたつ。そしてやや遠くの屋根から眼下を睥睨するのだ。こ憎たらしいけれども、その飛翔は敵ながら惚れぼれしてしまうほど優雅である。

警戒心の強いアオサギは、人がいる間は決して池には近づかない。が、人気のない夜になったら、池にそっと近寄り、食べごろの中堅鯉を、パクリと咥えるかもしれない。その決定的瞬間を拝んで見たい気もするが、はてアオサギ君よ、きみって鳥目じゃなかったの?(12月6日)

 

追悼 グレッグ・レイク

註:これはMediumの記事をそのままはてなへ転載した。今やっていることと一緒だ。 

 

Saturday in the Park

飼い猫(Chai:Cream tabby cat)と一緒にいぎたなく寝ていたいが……(写真省略)

土曜日の公園。今日は長丁場。遅くまで働かなくてはならない。パッチを穿いてGO!(笑)だ。

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物産館では毎週土曜日に農業大学校で採れた野菜を販売している。この緑一色のミニトマト。まだ青いと思われるだろうがこれで完熟。名前は「みどりちゃん」。齧るとどことなく懐かしい風味がする。

残念ながら「みどりちゃん」の収穫は今週までで、他のミニトマトも来週末が年内最後の販売になる。

しかし今日は不思議と緑色に縁がある。これはついさきほど公園敷地内で捕まった昆虫です。たぶんニジイロクワガタだと思われますが、ご存知の方はお教えください(とTwitterに呼びかけた)。

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すると「とげありさん」からこんな返信が即座に返ってきた。<①これは完全にニジイロクワガタです。飼育しているのが逃げた(逃がした)んじゃないでしょうか?そうでないとすると大変な事です。

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②日本には近縁種はいないので交雑の心配は無いですし、オーストラリアと環境もかなり違うので、定着の可能性は少ない気がしますが。>とのことである。

外に逃がすつもりだったが、やめにした。今後どうするかは園内で検討する(室内で飼うかもしれない)。

Saturday In The Park, a song by Chicago on Spotify

忙しいのか暇なのかよく分からないけど土曜日の勤務はだいたいこんなふうだ。予測はつかない。私はとにかく閉園までの時間、来た球を打つのみ。(12月10日)
 

流れゆく君へ

いいのさ下手で。

上手くまとめようとするから上手くいかないのだ。凸凹があってよい。思考の移ろうまま伸びやかに書けばよろしい。

巧いね、なんて言われだしたらある意味オシマイだよ。

私のような中高年はテクニックにすがるしかないのだ。が、若い人たちはどうか技巧を念頭から外して思う存分・思いの丈をぶちまけてほしい。私はもっと読みたいんだ、意識の奔流を。

泉谷しげるの歌に、「生きることばの、はやさがいいぜ」というフレーズがあって、そこだけは好きだったな。

サービスの行く末を案じるよりも、先ず書きまくることだね。居心地のいい場所にしたいのであれば。(12月13日)

註:たぶんこれは、お上品な若手Mediumユーザーたちに説教したくなったのだろう。

 

悩ましいところ

エヴァ・キャシディ(1963年〜1996年)の「オータム・リーヴス(枯葉)」がカーラジオから流れてきた。嫌いな歌手ではない。この時も、ああいいなと思いながら聞いていた。

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けれども悩ましい。私は世評に定着したようには手放しに称賛できない。世紀をまたぐ前後に登場した欧米のポピュラー歌手に共通して感じる「もどかしさ」があって、それを説明するのはとても難しい。

エヴァ・キャシディはロック・フォーク・ジャズ・ブルース・カントリーなどの様々なジャンルを統合し、スタンダードナンバーに新たな解釈を加えた。そのアイディアを支える歌の表現力には素直に脱帽する一方、エヴァを模倣したようなスタイルの歌手が(調べたわけではないが)この20年ほど増加の一途をたどっているような気がする。本人の責任では全くないのだが、そのフォロワーたちに表現領域を開拓していく気概を感じないのだ。

名曲が歌い継がれていくことは大事なことだけど、素朴なアレンジで誠実に、丁寧に歌っている「だけ」のカヴァー歌手が、洋の東西を問わず多すぎるように思う。

断っておくとエヴァ本人は随所に工夫を凝らしていた。例えば有名な「オーヴァー・ザ・レインボー」では、ミドルエイトの音符を意図的にずらして歌い、歌詞に違った側面からの光を当てている。しかし、そういった創意の跡の見当たらない耳ざわりがよいばかりのカヴァー歌手の蔓延がエヴァ亡き後の「成功モデル」に起因するとなれば、なんとも皮肉な話ではないか。

今日も歌手を目指す女性たちはデモを制作する。「ローズ」や「デスペラード」を歌うように勧められる。誰に?ボイストレーナーや売りこみに余念ないエージェントたちに。だけど彼女らはベッド・ミドラーやカレン・カーペンターの域には決して及ばない。私は忌野清志郎の意訳による「500マイル」を歌う女性歌手にも同じようなにおいを感じてしまうが、見方が皮相に過ぎるだろうか?

「ポピュラー音楽の定型は概ね出尽くしてしまった」と言われて久しい。そうかもしれない。けれども時代に新鮮な息吹を吹きこむ表現には、やはり今までとは違った何か(Something New) が必要である。エヴァの遺した録音に、それを見出すのは正直言って難しい。オリジネーター至上主義を声高に唱えるつもりはないが(同じく夭折した女性歌手である)ジャニス・ジョプリンローラ・ニーロ、サンディ・デニーミニー・リパートンの軌跡を知る私の耳は、五つ星には届かないなとシビアな評価を下してしまう。

とても気持ちよい上に、身が引き締まる声なのだけど。

厳しい意見を縷々書いたが、結句好きな歌手なのである。選曲のセンスもいい。クリスティン・マクヴィの「ソングバード」も良いが、何れか一曲を、と問われれば、私は「フィールズ・オヴ・ゴールド」と答えよう。


Eva Cassidy - Fields of Gold

私見だが、これはスティングのオリジナルを凌いでいると思う。スティングの書いた客観的な構成の歌詞が、エヴァ自身の感情が率直に伝わるよう控えめに改変されている。その、僅かだけれども自分の色を添えたことが、より人口に膾炙した秘訣なのかもしれない。そこには歌うたいの明らかな意思がある。エヴァの見つけた黄金の野の原が。(12月17日)

註:これはMediumではほとんど読まれなかった。はてなに転載し、Twitterに告知したところで、急激に閲覧者が増えた。海外の忠実なエヴァのファンが、日本語で書かれた記事を読みに、はるばる訪問してくれたのだ。

 

特命試走車

自動車教習所の授業で観る古いフィルムが好きでしたね。白黒画面にスクラッチの雨が降っている、荒川土手の未舗装道路を三輪トラックが上下左右に揺れながら徐行しているような「短編映画」が。

そんな昭和の映像を観たくなってYouTubeをザッピングしていましたら下に貼ったドキュメンタリーを発見しました。

特命試走車」。どうぞご覧ください。


特命試走車 (1/4)

凄いでしょ。悪いけど私、30分弱の間に何度も笑いました。以下、見所を列挙。

  • テストコースに突如スパイ(ライバル会社)のヘリが急襲する。布カバーに覆われた試走車を撮影されてはならないと、伝声管に向かって叫ぶ警ら係の緊張した声。「大変!大変!」。
  • テストドライバーは朝食を摂らない。水分は禁物なのだ。わが子に「ちゃんとご飯を食べろ」と諭しつつ、自分はチョコレートを齧るだけ。
  • ナレーションの調子がやたらと仰々しい。「○○なのである。だから〜」と「だから」を連発するあたり、原稿の文章が粗雑い。
  • しかし、なんと言っても凄いのは、リーダーが檄を飛ばすところ。「お前らたるんでるんじゃないのか?(略)辛いなどと言わずに気合で、大和魂で乗り切れ」といい、三日三晩(映像を確認すると四日四晚でした)不眠不休ノンストップで殆ど未舗装の北海道を一周する。しかも前のタイムが不甲斐ないので連続2回目の走行なのだ。

と、まあ全編これ高度経済成長初期に於ける企業のありようがうかがい知れる貴重な資料であり、かつ愉快なフィクションである。だってノンフィクションを謳うには、あまりにも作為的だもの。

今の目で見るならば、あまりにも合理性に欠ける研究開発/実験だけど、当時はこのような手段しかなかったのかもしれない。よりよい数字=記録を叩き出す目的を達成するために、エンジンがオーバーヒートするのも厭わず試験走行をくり返す。これは「世界に追いつき、追い越せ」の一念に支配された男たちの、血と汗と涙とオイルにまみれた根性物語、でもある。

かりにその「企業精神」が、戦後日本の自動車産業の礎となった事実は否定できないにせよ、滅私奉「社」の精神と、暴走族の理不尽なヤキとのアマルガム(合金)が、昨今隆盛のブラック企業の地金になったこともまた否定できまい。

つまりは企業PR映画なんだ。企業の内に発奮を促すための。昭和の真面目さや直向きさの向かう先は大半が社内か国内。外には開かれていない宣伝材料。

だから面白がって観たあとに、なんとも言えない苦い後味が残る。それは結末の場面にそれとなく示されている。耐久と徒労。ぜひ観て確かめられたし。(12月19日)

【過去記事】

註:私はこの時期、レスポンスを通じてMediumユーザーとさかんに交流していた。自分自身の投稿よりも、他の方の記事へ熱心に感想を送っていた。

 

ドレスコード

もう何十年も昔の話だけど、「私の講義にジーンズを穿いてくる学生は入室を断る」という上智大学の教授がいて、物議をかもしたものけれど、当時学生だった私は「さすがソフィアの先生だ、矜持が違うわ」と、悪い印象をさほど持たなかったのだ。

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で、

なんで唐突にこんなことを思いだしたかというと。私は職場で専らGパン穿いているんだけど、支給されているベージュのチノパンツを穿くように指導、いや促されたからなんだ。

職務にふさわしい服装を、だって?上の方がそう仰ってんの?

別にカッコつけてるわけじゃないんだ。受付もやれば接客もやる、事務処理もあれば外作業もある。昨日なんか外の枯葉を集めているという何でも屋的な職務において、汚れの目立たないGパンは、悪くない選択だと思ったからさ。チノパンだと地面に膝もつけないじゃないか。

私だって常識はあるんだから、色褪せたり破れたりしたジーンズは穿かないよ。仕事着には色落ちしてないやつを選んでるんだけど、そこ分かってくれないかなあ。

と、

さっき洗濯していて「この歳になって服装チェックを受けるとは」って、思いだし笑いをしてたとこです。(12月20日)

 

7時のニュース/きよしこの夜

註:この記事は誤って削除してしまった。確かアート・ガーファンクルエイミー・グラントのデュエットを貼って、そののちS&Gの「サイレント・ナイト」についての解説を書いたのだった。ありきたりの解釈だったので、他の解説をあたったほうがいい。

Art Garfunkel, Amy Grant, Jimmy Webb - Words From An Old Spanish Carol/Carol Of The Birds - YouTube

 

あらゆる偏見、先入観、固定観念からの自由を。

12月25日、またしてもポップスのイコンがこの世を去った。

私は彼のよきリスナーではなかった。確かに歌は巧いけれども、所詮ポップスターだろ?と、80年代の活躍を冷ややかに眺めていた。傍観の構えはソロ第1作目の“Faith”でも変わらなかった。

その偏見が完全に払拭されたのは、第2作の“Listen Without Prejudice”を聴いてから。あーいったいオレ、いったい何を見てたんだろうと自分の妙な「こだわり」を反省したものだ。

先入観ぬきで聴いてくれと彼は言った。

そこにはロックだポップだジャズだクラシックだという、既存ジャンルの垣根を飛び越えたところの、音楽の豊穣があった。

粒ぞろいの楽曲が揃った作品から一曲だけ選ぶなら、コンチネンタルな響きを有した、この憂愁のワルツを挙げたい。


George Michael - Cowboys And Angels

Cowboys and Angels, a song by George Michael on Spotify

この一枚で、すわファンに早変わりしたわけではないが、私の狭いロック史観は90年前後を境に徐々に解体され、ジャンルの柵(しがらみ)から解放され「自由」になった。ひとつの端緒となった“Listen Without Prejudice(vol-1)”を世に送り出した彼に感謝の思いを伝えたい。

Live Without Prejudice

音楽をありがとう、ジョージ・マイケル。(12月27日)

 

真夜中のラヴレターみたいな

生煮えで、未整理の文章を書かないか。

とかくこの世はお利口さんが多すぎる。理解されたいという意識が勝りすぎて、だいたいのとこで手を打っている感じ。

うわ言めいたたわ言を書いてみないか。

意識の奔流に身を委ね、無意識の領域に突入してごらん。自分でも理解不能な内容の文章が書けるって素敵じゃないか。

ティーネイジャーが無我夢中で書きなぐったようなとっ散らかった文章の魅力。

私は編集能力という言葉が嫌いなんだ。とりすました感じがいけ好かないんだ。もっとなんかこう、抑制の効いてない、初期衝動のまんまの文章が好きなんだ。

ここにrareがないのはmediumだからか?

熱く、野暮天な、不恰好で、ゴツゴツした、意味不明の、アタマ悪そーな、横紙破りの、無礼だけど、スケールのでかい文章には、ついぞお目にかかれなんだ。

_そったれ、

誰も書かないようだったら代わりに私が書こうか。読んだ皆さまが困ってしまうような、愚直で照れくさいテキストを。

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真夜中に書かれたラヴレターみたいな。(12月29日)