鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年10月のMedium


10月から年末にかけては、たいした記事は書いていないが、私が最もMediumに耽溺した時期だった。

 

Trailer 壮大な予告編

観た印象をパラフレーズに記録する。
  • 時間軸が錯綜するが、混乱するほどではない。筋書きは追える。
  • たとえば、スマフォの機種でいつ頃の話かが分かる。若年層の観客にも理解しやすいよう丁寧に設定されている。

  • パラレルワールドのうちで、いちばん幸福な結末が最後に選択される。

  • もちろん、物語の原型にそれほど多彩なヴァリエーションがあるわけではない。
  • みずうみ。彼岸と此岸を隔つ結界。
  • 夢の反復。
  • 似たような夢を私もよく見る。険しい山を登り、湯釜を一周する、夢を。
  • 典型的だな。
  • 最大公約数?
  • 批判的に観たいわけではない。むしろ積極的に加担したくなる、装置。
  • 神話づくりに参加する感覚の観客の支持と協力によって成立する構造。
  • それを予定調和と呼ぶのであれば人口に膾炙する物語の殆どがそうだ。
  • が、しいて欠点を挙げるなら、
  • アニメーションは汚さを描きづらい。壁のしみさえ鮮やかに彩られる。
  • 田舎の遣る瀬なさがあらかじめ排除された、美しき郷のイメージ。
  • 聖域。都を維持する犠牲としての。
  • クライマックスでタイトルが映しだされたのち、暗転のエンドロール。
  • 誰かが「壮大なミュージックプロモーション」と評していたけど、私には壮大な予告編(trailer)のように思えた。

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屋外に出た瞬間に見た光景。空の青、雲の影、午後の陽ざしの眩しさに、現実への帰還を意識した。

タイトルに収斂する記事=物語の回収。

(10月1日)

註:大ヒットしたアニメーション映画『君の名は。』の感想(例によって娘あて)。

 

秋空の下の釈迦の仰臥f:id:kp4323w3255b5t267:20170909154415j:plain

各種申請のために本籍のある阿蘇市に行ってきた。熊本の震災後、2回目である。

大津町からミルクロードの蛇行する坂道を登り、二重峠を越え、外輪山をなぞりつつ、大観峰から阿蘇谷に降りる。

震災前は立野を通る国道57号線を利用していたが、震災以後、不通のままだ(JR豊肥線肥後大津駅で止まっている)。わが家から阿蘇市まで約45分で到着していたが、今はその倍の、片道1時間半はゆうにかかってしまう。

外輪山線を走るのは、この季節まさにサイコーなんだが、今日のように所用があって時間に余裕のない時には、風光明媚を楽しむ気持ちになれないものだ。それにミルクロードの坂道は急な上、見通し悪いヘアピンカーブの連続するワインディングロードである。道幅も狭いので10tクラスのトラックが登坂するには厳しく、すぐに先が詰まってしまう。エンストでもしたらさらなる渋滞は必至、積載量オーバーで横転したトラックもあるというし、これで冬ともなれば路面は凍結するので、いずれ阿蘇地方が再び陸の孤島と化すのは目に見えている。

もちろん立野(阿蘇大橋が崩落した辺りだ)の地質調査および無人の重機による地滑りした法面の整地も急ピッチで進められているので、来年初めには国道57号線の本格的な復旧作業に入れる見通しではあるとのこと。しかし阿蘇に住まう人たちの不便は当分、いや数年は続く。動脈の細まった阿蘇ライフラインを、国と自治体は、今以上の予算と情熱をかけて取り組んでもらいたいと切に願う。

外輪山線の草原は今、群生したススキの真っ盛りだ。銀色の穂がそよぐ風に波のように揺れる壮麗な風景を写真に収めたかったが、生憎そんな余裕がなかった。途中に休憩した北山展望所から望む、阿蘇五岳の一葉のみでご容赦願いたい。(10月6日)

註:大観峰まで行かず、二重峠からは赤水へ下るのが一番近く、一般的なルートである。※

 

六脚テントの話

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私の職場は多種多様のイベントが開催される。気候のよい秋ともなれば尚更、マルシェ(雑貨市)から幼保の運動会まで六脚テントはフル稼動の状態である。

昨日はA地点からB地点まで、200mあまりの距離を移動する運びとなった。作業に携わる人員は8名。33脚を午前9時から12時までの間に移し終える計画である。

船頭多くの喩えの如く、如何にすればより効果的かの意見がそれぞれから出されたが、既に組まれているテントをそのまま運ぶのが得策との結論に至った、が。

8名いるのだから4名ずつの2班に分かれて四隅を持って運ぶのが良い、との意見が多数を占めたので、作業当初は4名で6脚テントを移動したのである。

ところがメンバーの体力差・体格差(身長や腕の長さで脚を持つ位置も変わる)を考慮に入れてなかったため、次第に移動する速度が鈍くなってきた。六脚テントは重い。1人にかかる過重は相当なものだ。日ごろ事務職などで作業に慣れない者、つまり私のように軟弱なヤツは、握力がなくなり、腕が上がらなくなった。

「そりゃ気合いが足りん」とか「根性ば出さんや」と囃したてていた腕自慢たちも、他が力を出せなくなるにしたがって自分側にも過重が寄りかかることに気づいた。結果、4人体制はかえって非効率ではないかとの意見が多勢を占めるようになった。

休憩を挟んで作業の後半は六脚をそれぞれ1人が担い、6人体制で移動したが、その方がよほど捗った。そしてどうにか午前中の間に無事33脚を移し終えたのである。

能率よく仕事を進めたい、手っ取り早く済ませたいとの思いが高じるあまり、一人に多くを担わそうとする。それが却って作業効率を低下させる事態を招く。頭数は必要である。人件費を削減し、人一人に過重な負荷を与えることで乗り切ろうとする企業経営および労務管理のあり方は再考されなければならない、と身にしみて思い知った一日でした。

あー今朝は筋肉痛たい。(10月12日)

 

ローズマリー・ハークネス

秋のバラ祭の季節がやってきた。

けれども今年の秋季は生育の状態がよくない。8月以降の雨天続きや台風のせいもあるだろうが日照時間が足りなかった。地震のせい?まさか。いずれにせよ只今二分咲きといったところだ。

お客さまは満開に咲き誇るバラ園を期待して観に来る。だが、その期待に応えられるほどの咲き具合ではない。花の見ごろはいつごろですかとの問いはいつものことだけど、こればかりは、来週には満開になりますと胸を張っていえない。

しかし言い訳めくが、ポツポツと咲くバラの花にはなんとも言えない奥ゆかしき風情がある。絢爛と咲き乱れるバラの香りにむせぶのも一興だが、今年はささやかな花のメルヒェンでご勘弁願えないだろうか。

虫のいい話だとは思うけれども、真夏のさなか除草剤などを使わず雑草を除き、剪定していた管理スタッフの労を思うと、とてもじゃないが「今秋のバラは出来が悪い」の一言で切って捨てられない。

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ほら、ローズマリー・ハークネスは蕾でもきれいでしょう?(10月14日)

註:職場にかんする記事が二つ続いた。父を喪ってからは仕事で気を紛らわしていた。

 

【NEW!】

註:このアーカイヴ作業をしている最中、スピンオフ気味に書いた記事です。

 

 

文学の側からの評価を求む

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

註:Mediumから「はてな」に複写し、大幅に加筆したので、過去記事を参照のこと。

 

 Jeux de eau 

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「あの、失礼ですが……」

男の唐突な問いに女は首を傾げた。

「ひょっとして、ピアノを弾いていらっしゃる?」

「ええ」

女は目を丸くした。

「むかし弾いてましたわ。でも、なぜ、それを?」

ご存知なのかしらとの女の口調に、咎める気配はなかったけれど、男は少し焦ったような口調になった。

「あ、いえ、その、水の戯れ……」

「は?」

困惑気味の表情を浮かべる女に、男は不器用な口ぶりで理由を説明しはじめた。

「モーリス・ラヴェルの『水の戯れ』、ですよね?だから、ピアノを弾かれるのかなと思ったんです」

「確かにラヴェルは好きだけど……」

女は怪訝な顔をしたまま、上目遣いに男を見た。

「どうして分かったのかな?」

「だって、jeux de eauってアドレスに書いてあるから」

「ああ、メアドを見て分かったの?」

女はころころと笑った。

「よくご存知なんですね」

「いえ、たまたまです」

本当は、分からなかった。フランス語だろうと見当つけただけだった。その文字列を検索にかけてみて、それがラヴェルピアノ曲のタイトルだと知ったのだ。

「今朝もラジオでかかっているのを耳にしました。だから、分かったのかもしれない」

「音楽に、お詳しいのね」

「そんなことは……」

「学生の頃にね、弾いたことがあるの」

女はくすりとほほ笑んだ。

「でも、今はもうムリだな。練習してないもの」

伏し目がちになって、ため息をつくと、胸もとに抱いた赤子をそっと撫でた。

「すみません。ぼくが勝手に……」

メールアドレスの詮索を詫びようとする男に、女は「ううん、いいの」とかぶりを振って、

「思いださせてくれて、ありがとう」

と軽く会釈した。

女の腕の中で、子どもが欠伸していた。

(10月19日)

 

Maurice Ravel - Jeux d'eau ~ Martha Argerich

註:まるで野村修也氏がまだ駆け出しのころ法律雑誌に連載していたコンプライアンス小説のようだ(こっ恥ずかし)。

 

簡単で散漫な解説

記事を、いやMedium流に言えばストーリーを書く際、余計な説明はなるべく省きたい。目次も索引も不要だと思う。矢吹丈流に言うなら「挨拶ぁぬきだ」です。

文章そのものに触れてもらえれば、それでじゅうぶんだ。私の人となりなんか伝える必要はない。知りたくなれば自然と過去に書いたものをたどるだろう。私は分かりやすく読みやすい記事づくりを積極的に怠りたい。遭遇は一期一会、内容が気に入らなければハイそれまでよ、だ。

記事に親切な構成を施すのは誘導のようで気が引けるのだ。読み手が増えるのは嬉しいが、呼びこみに精力をかたむけるつもりはない。成功報酬型広告等には全く興味がない。これからも私は、簡単で散漫な解説すらない、不親切なスタイルで書き続けるだろう。風邪で不機嫌な気分を反映している、この記事のような。(10月21日)

 

ゲームは殆どしたことがない私。

なぜだろう子どもの頃から、ルールを覚えることが苦手でした。近所の子ども同士でトランプをしようという話になると「あー面倒くさいな」と内心思うような子でした。将棋、麻雀の類いもまったくダメ。私に囲碁を教えこんだ亡き父は、将棋くらい指せないと大人のつきあいができんぞ、と本気で心配しておりましたね。

別にそんなことはなかったけど。

10代の終わりにインベーダーゲームが流行しました。私は友人たちが興じているさまを見ながら退屈していました。何回か自分もやってみたけど、なんでみんなが夢中になるのかさっぱり分からない。一面もクリアーできませんでした(一面もクリアーできないと言えば、ルービックキューブもそうです。誰かから貰ったけれど、厄介そうなんで、殆ど触らなかった)。

そんな調子でしたから、ゲームセンターに足を運んだこともありませんでした。パチンコも学生時代のつきあいでしばらく通いましたが、やはりつまらないと感じてしまうのですね。何回か幸運を授かったものの、夢中にはならなかった。私は何か欠落しているのかなと不安になるほどでした。その疎外感が決定的になったのは、そう、ファミコンの登場からです。

いいからやってみなよ、面白いからさと友人たちから勧められて、スーパーマリオに挑戦したものの、やはり一面もクリアーできない。好きな方には誠に申し訳ないけど、莫迦ばかしく思ってしまうんです。

ボタンを何回も押すことが。

後々話題になったロールプレイングゲームの数々も、私はどんな内容だか知りません。小説を読むのは好きだからファンタジー系のゲームなら大丈夫かなと思ったのですが、やはりダメでした。強いられる感覚がどうも。場面をクリアーしなければ先に進むことができない、端折れないことで挫折してしまう。早々に諦めてしまうのですね。

なので私は、名作と呼ばれるゲームの共通体験を持ちません。話題にしたくともできない。かといって非社交的ではありません。ゲームの話題に触れなくとも、幸い人間関係に差しさわりはないから。

私はYouTubeを観るのが好きです。だけど好きな音楽の前に戦争シーンが写し出されるのは興ざめです。すぐさまスキップしますが、威圧するような音響が耳に残って不快です。バトルゲームやシューティングゲームはこの世から……以下省略。

私はシネコンのドルビーサラウンドや、コンピュータグラフィックスで制作された3D的な映像も苦手ですが、これもゲームぎらいと関連があるのかもしれません。威圧感・切迫感がダメなんです。

そう、急かされる感じがたまらないのです。明日までに宿題を済ませなければ、の切羽詰まった感じと、何分以内に何体をやっつけなければ次に進めないゲームは似ていると思うのです。っていうか、私にとっては等しく労苦です。現実にクリアーしなければならない事項が山ほどあるのに、なんでわざわざ、それと同じようなストレスを味あわなきゃならないの?と思ってしまうのです。

要するに、私にとってゲームとは「忍耐」なんだ。

ああそういえば、唯一やり遂げたゲームがあった。「ポケモンクリスタル」。流行したときに、子どもからどうしても買ってとせがまれ、やむなくゲームボーイとソフトをガイドブックを購入したんだった。使い方を教えているうちに子ども以上にはまっていた(笑)。たぶん私がゲームを受け入れるためには理由とプロセスが必要なのかもしれません。だからか私は今夏の「ポケモンGO」の流行を、わりと好意的に眺めていられた。

ご心配なく。私は多趣味な人間で、退屈とは無縁です。音楽、読書、絵画、写真。Mediumだってそのひとつ。ゲームに興じている余裕はないんだ。

♪人生はゲーム〜

(10月25日) 

 註:意外なほど読まれた(閲覧者数10月中第1位)記事に、余計な付け足しを加筆したエントリーがコチラ。


はてなブログのサイドバーを削除した

昨夜あれこれ考えてみた。私はなぜ最近はてなブログをつまらなく感じてしまうのだろうか、書く情熱が潰えてしまった理由は何だろうか、と。

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私は記事の右側に「サイドバー」を設け、そこにプロフィール、索引、Twitterの投稿を示した窓、Mediumを含む他メディアの案内などを載せていた。が、それを全廃してみてはどうだろうと考えた。

とりわけ外すべきだと思ったのが、トップテンと銘打ったランキングである。どの記事にアクセスが集まったのかが一目瞭然だったが、その順位に引きずられているように感じていた。

アクセスの多い記事は殆どが音楽関係で、人気あるミュージシャンについて書いたものがよく検索されていた。私は知らず識らずのうちに迎合し、次にどんなアーティストを取り上げればアクセス数を稼げるかと、狙いを定めるようになっていた。

しかし、そういった企みこそが疲弊する原因だった。私はアクセス数にこだわりすぎた。その雑念が文章に濁りのようなものをもたらしていた。

《よし、やめよう。》

はてなブログ毎やめてしまおうかとまで思いつめたが、書くこと自体に倦んでしまったわけではない。ならば意欲減退の原因を取り除いてみよう。決心した私はデザイン設定からサイドバーを選び、項目一つひとつを削除していった。f:id:kp4323w3255b5t267:20170909181414j:plain

これでスッキリした。訪問した読者も余計な情報に惑わされず眼前の記事に集中できるだろう。私はこのレイアウトにしたことでブログを立ち上げた当初の清新な意気込みを取り戻せそうな気がする。

書くことに特化する。これはMediumから学んだことである。
(10月30日)
註:もっともらしいことを書いているけど、たぶん音楽以外の(例に挙げた『時間どろぼうに御用心』のような)記事をもっと多くの人に読んでもらいたかったのだろう。でも、書きたい気持ちをふるい立たせるのって、なかなか難儀だよ。そんなときは今みたいにアーカイヴ作業に勤しむのさ。