鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年6月のMedium

 

6月に入って肩肘張らなくなった。自分を素直に表出しようと心がけたゆえにである。

I think(私は 思う)

文藝春秋六月号の「ベルリンは熱狂をもって小澤征爾を迎えた」を読んでいて、おやっと思った。村上春樹による今春の小澤とベルリン響のコンサートレポート。世界のムラカミが世界のオザワを称える記事である。内容に不満はない。

私がおやっ?と思ったのは、以下の箇所である。

ベルリン・フィルのメンバーのアンサンブルはあまりにも緻密すぎて(中略)音楽としてはたしかに立派だけれど、その響きはモーツァルトの魂のあり方からは少し外れているのではあるまいか(と僕には思える)。 [289p]

この括弧で括られた(と僕には思える)に既視感がある。村上春樹は以前にも同じような使い道をしていたはずだ。私は過去に書いたブログ記事から、以下の文章を引っ張り出した。

ある種の輝きを有しながらもそれを普遍化する能力が幾分不足した(不足していると僕には思える)ジョー・ジャクソン。/村上春樹ダンス・ダンス・ダンス(下)』より引用 (1988年)

こうした()を使うことで、読む側に(これは僕の主観ですから一般論ではありません)といった印象を与えられる。婉曲かつ慎重だけれども、強制力を伴う促しである。読者は(あえて括弧で括るくらいだから、きっと作者が強く訴えたい部分なのだろう)と感じる仕組み。だって(僕はこう思うのだけど、貴方はどうですか?)と問われているも同然だもの。

このように村上春樹は、平易な文章のあちこちに、さまざまな仕掛けを施している。一般に村上調を真似る場合、「やれやれ」に代表される達観したモノローグが採用されがちだが、このように控えめな、しかし有無を言わさぬ意味の強調もまた、彼の得意とする特色の(ほんの)一部である。ただしうっかりシロウトが真似ると「鼻持ちならない」に陥るので要注意だ。

文章は、研ぎ澄ますことによって本質が見えてくる。先日私が訪問したブログにも、そう書いてあった。同感である。余計な部分はどんどん削った方が、文章は鋭くなる。よりソリッドに、よきクリアカットに。同時に、誤読される余地も少なくなるだろう。実のところ私は、Mediumを始めた当初は、無駄のない、骨格だけの文章を書こうと心がけていた。

けど、迂遠な言い回しの中にも、取るに足らないような間投詞の隅っこにも、ね。細部に宿るナニモノかが、あるんだよなー。その余分を遊ぶのも、アリなんじゃないか?って私は思うのだよ。

なので私は、まだ若いブログ主にお節介なコメントを書いて寄越したのである。

ぼくは、あんまり削らないなあ。ブログはのびのびと書ける場所だから、あまり文を圧縮したくないんです。誤字脱字・てにをはを整える程度かな。精米と一緒で、研ぎ澄ませすぎると、雑味のなかにある栄養分まで失くなってしまう気がして。大吟醸よりも適度に濁った純米酒のほうが旨味がある。だから最近は殆ど推敲しませんね。あ、思いだしたようにちょこちょこ直しを入れます。間違いを訂正し、内容の足りない部分を補う、追記のほうが多いかな。

それとあと、私が、文章はのびのびと書いたほうがいいよ、と口酸っぱく唱える理由は、Twitterで誰がが誰かに噛みついているのを見て、居た堪れない気持ちになったからです。

あなた、「思う」と2度も書いてるけど、それって事実とは異なる、単なるあなたの感想ですよね?

やれやれ、とうとう「私は〜だと思う」とも言えなくなったのか。なんだか全体に余裕がないなあ。私は深いため息をついてツイッターランドから離脱したのである。

ところで、〈ジョー・ジャクソンの普遍性〉について私が書いたブログ記事はコチラになります。 ⇩

どうも私は分散型メディアの使い道を今ひとつ心得ていないような気がする。誘導、宣伝、アピールするのにまだ衒いがあるし、気後れするのである。(6月3日)

註:Medium読者を「はてな」に呼びこもうという思惑(下心)が見え見えな記事。 

 

◯◯に相当する二文字を探しなさい。

さっき運転中にラジオを聞いていたら、パーソナリティの坂本美雨さんが、「初めてプロとしてレコーディングしたときに大貫妙子さんから大切なアドヴァイスを頂いた」と語っていた。大貫さんは歌入れの際にこんなことを坂本さんに助言したという。

あなた、歌うときは、歌詞をきちんと覚えて、その歌詞の情景とか感情を◯◯しながら歌いなさい。

はて、◯◯に当てはまる言葉は何だっただろう。坂本さんは二度目には、「あなた、歌うときは歌詞の内容を思い浮かべなさいと言われました」と簡略化していたが、私は◯◯の部分が思いだしたいのである。その、◯◯という漢字二文字(だったと思う)こそが肝心要の点だと思うのだ。

そこは「再現」でも「想像」でも構わないけれども、もっと、なんか、こう、さすがは大貫妙子と唸ってしまうような、それ以外には考えられないほどの適当な二文字だったのである。(以下 敬称略)

あなた、◯◯は何だと思う?

それはプロの歌い手となるにあたっての基本的な心構え・アティチュードである。坂本美雨自身「授かった」と語っていた。しかもそれは歌手が歌をうたう際の極意でもある。歌詞に描かれた世界を自家薬籠中のものとするためのアプローチ。心のありよう。そこを觀照することが……

觀照?いいセンいってる。

觀照に近しい言葉だった。だけど違う、もっと当たり前の、誰でも用いるような言葉だった。あゝもどかしい。何だったのだろう。

突き詰められない。私の弱点だ。

テキストをいったん丸ごと引き受けて、自分の裡に収めたのち、吟味し、取り出して、外へ放つ。表現のプロセスを怠けてしまう、面倒くさいと諦めてしまう「駄目な僕」。

そう言えば、奇しくも山下達郎はこんなことを語っている。

他人の作った歌を歌えないようなら歌手とは呼べない。

(山下・大貫の)シュガーベイブ出身の二人が言っていることは、ほぼ同じ意味である。歌唱するにあたって、詞を覚え、旋律を覚えるだけの表層的な仕草は模倣の段階に過ぎない。ただ覚え、なぞるだけでは不足なのだ、いやしくもプロであるなら。

たぶんこれは、歌うことのみならず、表現活動全般について、いや、勉強や仕事においても援用できる考え方なのである。が、私が歯がゆいのは、そのことを端的に表した二文字がどうしても思いだせないことだ。信号待ちだったというのに、聞き逃したのが残念でならない。

こうして書いているうちに思いだすかもと期待していたが、限界のようだ。ただ想念ばかりが(今年も庭先に咲いた満開のアナベルよろしく)拡大していく。もし◯◯に当てはまる言葉を思いだせたら追って記したい。これは歌手ではない私にとっても大切なことなので。(6月8日)

註:答えは「トレース」だと、のちに思いだした。

 

7年前のポスター

バックヤードを整理していたら棚の奥から無傷のポスターが出てきた。

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平成21年と記されているから、約7年前の観光キャンペーンである。まだ「くまモン」は登場していないけど、当時バラエティ番組で人気者だったスザンヌが宣伝部長の襷をかけている。そう言えば丁度そのころ、帰郷して空港からリムジンバスに乗りこむと、彼女が舌足らずな声で熊本の観光案内をする音声ガイドが流れていたものだけど、アレは今もアナウンスされているのかしら。

十年一昔というけれど、7年も経つと懐かしいというか、けっこう遠い昔の事のように思える。私は控え室の壁にポスターを貼って、今ボーッと眺めているところだが、スザンヌのメイクやチェックのシャツのせいか、「くまもと最高♡ザンス 観光キャンペーン」なるピンク色のロゴマークのせいかどうかは判らぬが、どうも野暮ったくも古くさく感じてならない。それが良い塩梅の味に変わるまでにはあとしばらく時間の経過が必要だろう。

けれども、この能天気なリゾートポスターに、私の心が癒されているのも確かだ。バックの風景は主に県南の観光スポットで、不知火海の太刀魚釣りの帆船、(先ごろ世界遺産に登録された)三角西港や大江と崎津の天主堂、夕暮れの天草五橋天草四郎像、日奈久温泉の金波楼などの写真がレイアウトされている。かなりゴチャゴチャしたデザインだけど、なんというかな、この垢抜けない感じにホッとするのだ。突っ込みどころ満載だし、見方によってはセクシュアルな暗喩も含まれているけど、まあいいじゃん、みたいな。

だって、このポスターみると、みんな楽しそうに笑うんだ。いいですねコレ、って確実に場が和むのだな。だとしたら、暖色系で統一したセンスは案外当たりなのかも知れないよ。

昨晩も熊本地方は揺れた。八代は震度5弱だった。不知火ホテルの女将さんに聞いた話だと、先の震災で、日奈久温泉にある旅館の浴場の3分の2はボイラーや湯釜が破損したのだそう。客足は激減し、復旧には程遠い現状である。だけどまた、このポスターのように、楽天的な県南の甦るときがくるはずだ。私は昼休みになると、そんな思いを馳せながら、この7年前に作られたポスターを眺めている。

昨年、村上春樹(またかよ)も逗留したという金波楼。時間が押していた関係で立ち寄り湯は果たせなかった。が、次に日奈久に訪問した際はぜったいに登ってやるぞと、私は決意しているのである。(6月13日)

 【過去記事参照】 

 

無礼

昨日、インターネットでこのニュースを目にして、私は恥ずかしい過去の経験を思いだしていた。

伊豆半島の蜜柑畑の連なる丘の上にある特養施設のマンション。私のパートナーが、仕事でお世話になった方が、そこに暮らしていた。

突然に訪問の上、先客があったにもかかわらず、主人は私たち一家をあたたかく迎え入れてくださった。中に入ると居間の広い窓の外には相模灘が広がり、島の連なりが一望できる。私は子を窓際に連れて、これは大島、あれが利島、あれは新島かなと指さしながら教えていた。すると先客の一人が、

おや、教育熱心なパパさんだこと

とからかうような調子で言った。

そのときに察知すればよかったのだが、私はあまりにも無作法だった。直接に関係のない間柄だというのに、礼儀もそこそこに、遠慮なく振舞っていた。先客はそれを軽くたしなめてくれたのだが、私はまだ気づいていなかった。

主人はお茶を淹れた。それから盆の上に煎餅を何枚か載せ、私のパートナーに、私の子に、そして私に煎餅を勧めてくれた。私は目の前に盆が差しだされたので縁を掴んで、自分の側に寄せようとした。その方が取りやすいだろうとの考えからの、何の気なしの行いだった。ところが盆を奪おうとすると、主人は頑なに拒んだ。枯れた風情の老人とは思えぬほどの力で盆を掴んで離さない。私は思わず、主人の目をのぞきこんだ。柔和な顔立ちにそぐわない鋭い眼光が宿っていた。鈍い私も、そこでようやく主人の怒りに気づいたのである。

先客が、粉状になった煎餅の欠片をペロリと舐めながら、この一部始終を簡潔に総括した。

初見が欲張っちゃいけないね

あれから十数年が経つが、主人が見せた怒りの眼光と、盆を掴んだ指先の力とを未だに忘れられない。思いだすたびに私は、あのとき同様どこかに消えいりたくなる。f:id:kp4323w3255b5t267:20170908104328j:plain

古市憲寿氏のデリカシーのない質問については、既にインターネット上でさんざん論じられているので、ここでの感想は差し控えたい。

ただ古市氏は、無礼であった。不躾な質問をし、無作法に振舞った。それを小沢氏は厳しくたしなめた。それがすべてである。

彼はこの一件で何かを学ぶだろうか。それともこれからも無自覚を売りにするのだろうか。いずれにせよ彼が自分の無礼さに気づかない限り、似たような過ちを再びしでかすことだろう。(5月20日)

註:Mediumにはresponceと呼ばれるコメント機能がある。私は他ユーザーからのコメントにはできるだけ応えることにしている。

以下の返信は上掲の本文以上に反響が大きかった。

数年前に、古市憲寿氏の著書『絶望の国の幸福な若者たち』を読んでみるといいと知人に勧められました。哲学者のかれが、めずらしく「うろたえた」と。「これを読むと自分みたいな人間は、『あーもう国家には用なしなのだなー』と思えてしまいますね」と洩らしていました。

どうして?と私が問うと、知人は「こうもあっけらかんと現状を肯定されたら、言説・批判の大半は無効化されますよ。それゆえかれは重宝がられる、いずれ政府の、ガス抜きとして登用されるでしょう」と答えました。そのときはなんと大げさなと思いましたが、あのときの知人の予感は的中したなと感じる今日この頃です。

 

私はこのMediumでは主語を「私」と定めているがTwitterはてなブログでは「ぼく」や「おれ」を使うことが多い。「私」と書くと客観的になれるけど、どうも他人事みたいで、私ではないような気がする。

中学生の時分に、日記だか詩だか随筆風だか区別のつかない雑文をちょくちょく書くようになって、そのころはもっぱら主語を「俺」にしていた。「ぼく」だとなんだか軟弱な気がしてね。男らしい文体にしようと躍起になっていた。しばらくすると、下手くそな歌を自作するようになったが、それもしばらくは「俺」で通していました。だってサ、普段の会話で使うことばが「オレ」だもの。言文一致というのかな、自分の感情と歌詞が直結するには(カタカナの)「オレ」が一番近道だから。オレオレ言っておりましたね、必要以上に力をこめて。

でも、たとえば内省的なバラードなんかが書けてしまったら、楽想と「俺」とが合致しないから、次第に「ぼく」を採用するようになったけれども。

にしても、「俺」って男性性に寄っかかった、独善的な表記だよね。女性でもたまに「ぼく」を使う方がいるけど「俺」って自称する人は稀だものね。「俺様」ってことばもあるくらいだから「俺」にはどうしようもなく尊大な側面がある。そしてその尊大さは男性の意識に深く根を下ろし、自己愛と直結している。「俺の空」とか「俺の塩」とか、どこまでも自己中心的で莫迦面さげた感じが「俺」にはべったりまとわりついている。

そう感じてしまうと、さあ「俺は〜」と気軽に書けなくなる。さらに日常会話でも「俺」をあまり使わなくなる。主語をボカして話すようになる。気にしすぎなのかもしれないが、主語を回避するくせがついた。社会人になって、公の席で話す機会があれば、「私」と称するように努めていた。

数年前、Twitterをはじめたときに、その辺りも少しケジメをつけようと思った。だって主語を回避するのはあまりにも主体性がないじゃないの。で、「ぼくは〜である」「ぼくは〜だと思う」と、律儀に「ぼく」を推し通したのね。すると文章全体に統一感が出てきた。いきおい文の内容にも責任を持つようになった。「ぼく」は硬くも柔らかくもなれる、可塑性のある主語だった。「俺」よりずっと使い勝手が良かった。

しかしこれまた私の悪いくせで、しばらくすると「ぼく」ルールに飽きてきた。もっとのびのびと自己主張したくなる時もある。試しに「おれ」と書いてポストしたら、妙な開放感があった。ごく自然に振る舞えた気がした。よし、ならばたまに「おれ」と記そう(ひらがなだと、臭みも少ないし)。

ところで「俺」「おれ」「オレ」と3通りの表記法があるね?君は、きみは、キミはどれを選ぶ?

じつは小説を何作か書いたことがあって。そのとき悩んだことが、漢字かひらがなかの問題だった。これも若いころ、女のこのつもりになって、新井素子みたいな文体で「あたし」を主語としたお話を書いてみたことがある。そのときは自分が男性性から解放されたような、自由さを味わいながら書いたけど、いざ本格的に女性を主人公にすえてみると、地の文に「あたし」は相応しくない。なので「私」にしようと決めた。だけど後から「あー『わたし』って書いた方が良かったかな?」と後悔もした。漢字の「私」は高踏だし、「わたし」は庶民派だ。どちらか一方を選ぶのは難しい。「」内のセリフだったら、生真面目なほうに「わたし」と称させ、おきゃんなほうに「あたし」と称させると使い分けするのだが、全体を統一するとなると、はて、どちらが正解なんだろう。

じつはそういうことで悩むのが、私は嫌いではない。いや、むしろ好きなのである。このMediumでは「私」であるけれども、漢字の「私」を採用することで、わりとクールな文章を紡げるし、男の「オレ」が「私」と書くことで、性差をあまり意識せず、ニュートラルな視点を新たに獲得できた(気がする)。つまり私が「私」と表記するのは、より自由になるためなんだ。

今回は肩のこらないエントリーを目指して、意識的にくだけた口調で書いた。この文体は、自由自在にことばをあやつる作家/思想家である、橋本治サンの影響だと思う。(6月26日)

註:わりかし好きなエントリー。のびのびと書いているから。

 

素朴な感情を示すテキスト

若いころはアメリカン・ショービジネスを胡散くさく感じていた。きらびやかな舞台セット、タキシードの紳士、シルクドレスをまとった淑女、自信満々のスピーチ、臆面もない称賛、すべてが苦手だった。やっかみは未だに心のどこかにわだかまっており、最近の過剰な「日本はこんなにも素晴らしい」という国を挙げてのキャンペーンには辟易するけれども、《アメリカに比べたら手前味噌も控えめなものじゃないか》という思いが頭のかたすみを過ることもある。

とはいえ、アメリカが増長するのも無理はないなと思う。だってクオリティが断然違うもの。それは映画や演劇にも共通することだろうが、音楽一つとってみても投下する資本が莫大で、関わる人数も桁違いだし、出来栄えには細心の注意を払っており、一分の隙も見当たらない。その徹底ぶりはもとより、結果を見せつけられたら、参りましたという他ない。それがたとえハリボテであったにせよ、ハリボテそのものが有無を言わさぬ出来ならば、賞賛するしかないではないか。

米エンターテイメント産業の考察は程々にしよう。問題は中身だ。音楽を例にとってみれば(音響技術や編曲の巧みといった)きらびやかな装飾や入念に施されたメイクを剥ぎとると、その表情は意外と素朴だ。歌詞を注意深く聞きとってみれば、庶民の正直な感情をスケッチしたような、大言壮語とは無縁の内容が大半なのである。それはロックとカントリーの間に生まれた、シンガー・ソング・ライター達の紡いだ音楽と驚くほど表情が似通っている。それに気づいたとき、私はメインストリームの音楽の内側に潜む、善意や良心や誠実さに心を寄せることができた。素直に、ああいい曲だなと思える自分が、まんざらでもないと思えた。

これは2015年の「ケネディー・センター名誉賞」※の式典におけるアレサ・フランクリンの圧倒的な歌唱である。

 
Aretha Franklin (You Make Me Feel Like) A Natural Woman - Kennedy Center Honors 2015

受賞者のキャロル・キングは感極まって「あたしどうしよう、えーこれ現実?」と取り乱しているし、ミシェルの隣りに座ったバラク・オバマは思わず目頭を押さえる始末。おいそれちょっとやりすぎだろ?とつっこみたくもなるけれど、キャロル・キングが作曲家として半世紀を生きぬいた軌跡と、ソウルの女王として君臨し続けたアリサ・フランクリンの生きざまと、このナチュラル・ウーマン」が、女性の人権を語るうえで欠かせない歌であることに思いを馳せたであろうバラクの心情を思えば、あながち大げさな反応だと一蹴はできない。私とて、その場にいたら身震いして、我先にスタンディング・オベーションしているだろう。

ケネディ・センター名誉賞(The Kennedy Center Honors)は1978年から毎年アメリカで優れた芸術家に贈られる賞。受賞者の発表は9月のレイバー・デー期間、祝賀公演は例年12月にジョン・F・ケネディ・センター歌劇場で開催され、その模様はCBSで中継録画される。授賞式は12月第1日曜日にホワイトハウスにて大統領夫妻から贈呈される。(Wikipedia

アメリカ合衆国大統領オバマが、執務中に何を考え、どう思っているかなんて、私の想像の及ばぬ所だけど、自分と同世代のバラクが、「ナチュラル・ウーマン」冒頭の“Looking out on the morning rain. I used to feel uninspired ”に、思わずうるっとした気持ちなら、ささやかにではあるが理解できる。それは同じテキストに触れた者同士の連帯意識みたいなもので、その流れは(東洋の小さな島国)日本の地方都市に住まう中年男にも感じ捉えられる種類のものだ。

何故なら私の内側からも、ぐっとこみ上げてくる熱いものがあったから。(6月30日)

註:私の感想なぞざっと斜め読みしていただきたいが貼った映像はぜひご覧ください。