鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年5月のMedium

 
5月は地震に見舞われた後遺症で前掲の『地震編』以外はあまり多く投稿していない。

Mediumについて

思うことはさほどありません。使う勝手はいいし、書いていてストレスが少ない。このサービスがより多くの人々に知られればいいのだけど、過剰な宣伝はしない方が得策な気もします。どなたかも仰っていましたが、いまの快適な雰囲気が長くは続かないと私も思うし

なので、Mediumはこうあるべきだという意見を散見しますけど、正直なところ、あまり関心を持てません。いちユーザーとしては、ただひたすら投稿するしかないかなと思います。質を担保するための具体的な方策は、それ以外に思いつかない。そして投稿の内容がよりバラエティに富み、読むに値する記事の増えていくことが、Mediumそのものの発展に繋がるのではないでしょうか。

私は、メディアがメディアについて自己言及する記事よりも、さまざまな立場の方々が、日々の生活や仕事や趣味で感じたことを、のびのびと書いた記事が読みたい(5月9日)

註:Mediumの投稿で目立つのが「Mediumとは何か?」を問う記事で、「Medium論」ほど閲覧数を稼ぐ傾向は、この小文も例外ではなかった。きっと(私も含む)日本人ユーザーの殆どが「MediumというSNS」をよく理解できていなかったのだろう。

 

優先順位

つまらない言葉である。「優先順位を鑑みまして〜」などとしかつめらしく仰っている方の言説を私はあまり信用できない。

なぜなら「優先順位」の決定権は「与える側」にあり、「与えられる側」には殆どないからだ。立場の優劣を思い知らしめる効果もある。「優先順位からして貴方の順番は後回しです」とは言えるが、「優先順位からして私の方が先です」とは言えまい?下手をすれば「優先順位を考えろ」と横槍を入れる輩まで出てくる。何れにせよ「優先順位」には一方的で冷淡な響きが含まれている、と私は感じる。

例えば建前として公平・公正を遵守する立場にある公的機関が、優先順位を謳う時にはある種エクスキューズの色合いを帯びる。実は例外的措置なのだが、こちらを優先しますと表明できない場合の、これは便法である。あるいはまた政治の世界で(以下略)。

つまり「優先順位」は〈優先〉のラベルを貼る立場のものだけが使える、都合のよい言葉である。これを国や公が多用する現象は(歓迎はしないけれども)場合によってはまあ止むなしと思える部分もある。が、公平・公正を必ずしも遵守しなくてもよい立場であるはずの一般民間人が、さも優先順位を裁定できるような物言いをしている場面を見るにつけ、滑稽を通り越して哀れみすら覚える。

仕事の要領をよくするために優先順位を決めよう!

だの、

デキる人は違う、優先順位の正しい付け方。

だの、

部下の誤った行動に正しい優先順位を指導!

だの。

空虚なスローガンではないか。

まるで「宿題が先!」と子どもを叱る母親のようだ。ンなこと言われなくたって分かってらい、要するに計画性って話だろ?と言い返したくなる。

優先順位をつけることによって、貴方の生活サイクルを見直そう。

そうして万事効率よくサクサクっと事を進める“Conflict Free”なライフスタイルを選択したとして、そこから斬新で豊かな創意が生まれてくるだろうか?私はまっぴらである。日々の暮らしのあれこれにまで優先順位をつけるような人生をおくりたくはない。もちろん生活にメリハリは必要だろうが、ダラダラした、無為な時間を過ごすこともまた大切なのではないか。フレキシブルな発想が生まれる余地くらい残しておきたいものである。

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ちょっと今日の記事は荒ぶってしまったので、お詫びにウィンショッテン(ハイブリッドティー)。

え、私?

エヘン。私の優先順位だとMediumは3番目だな。(5月20日)

註:これも当時Mediumの主流派であった「サクセスストーリー」に水を差したがる、捻くれた私の性分が書かせたものだ。

 

色彩の乱調と氾濫

私は滅多にテレビを観ないのだけど、その主な理由は、放送内容と無関係に挿入される音楽(サウンドバイトと呼ばれる意味を補強する手法は、より問題である)や、お笑い芸人の過度な起用はもちろんだが、とくにワイドショーに顕著な、スタジオのセットの派手な色使いが、苦手というより嫌いであるからだ。

これはとくに地上波と呼ばれるデジタル放送が普及するに従ってエスカレートした感がある。とにかく過剰なのである。私からすれば悪趣味だとしか思えない。しばらく観ているうちに目がチカチカしてくる。さらに、司会者もゲストも、セットの色に埋もれないような服装を着ているから始末に負えない。ある日のNHKの番組で、私がまともだと思える服装の出演者は、イノッチ(井ノ原快彦)だけだった。

どうしてこんなけばけばしい色使いになってしまったのだろう。慶應大学の教授である堀茂樹さんは私の素朴な疑問にこう答えた。

同感ではあるですが、配色はたいてい視聴者大半の好みの反映かと。色彩のセンスは文化環境に大きく依存するし、悪趣味の方が親しまれ易いというケースもありそうです。公衆の趣味の洗練は難題ですが、えげつなさに居直るようなのは淘汰したいですね。

Twitterの長所は直ぐにレスポンスが返ってくるところで、さすが先生だと唸ってしまった。確かに配色は視聴者大半の好みの反映かもしれない。セットの色調を派手にしたほうが視聴率も上向きになるといったデータが存在するのかもしれない。しかし、公共の電波を使って情報を伝える立場にあるテレビ局が、こうすれば一般大衆が喜ぶだろうとの判断により、どぎつい色を濫用することに、私はどうしても頷ないでいる。堀氏の返信が来る前に、私はこのようにつぶやいている。

派手にすれば、煽情的にすれば目を惹くとの考えは錯覚だ。感性がマヒしてしまっている、放つ側も観る側も。悪趣味に慣らされてはいけない。

趣味の洗練は、なるほど難題であり、「センスが良いもの」をエタラジストが勧めても、大衆がそれを手にするとは限らない。むしろ趣味の良いデザインにそっぽを向く場合だってあり得る。この領域について深く語るほどの材料を私は持ちあわせていないが、〈へっ気取ってやがる〉的な感情を庶民が抱えていることは確かだ。高踏なセンスを押しつけても視聴者が踊るとは限らない。その経験則から、テレビ番組の色使いが次第に「きたなく」なっていったのではないかと私は推測するのである。

だけど、今朝がた Dulles N. MANPYO さん(Mediumにも米日文化の相関について興味深い論考を多く語ってらっしゃる)が紹介していた、『夢で逢いましょう』の映像を観ると、やはり最近のテレビ番組は趣味が悪い!と言いきってしまいたくなる。

この洗練された導入部の意匠はおなじ日本と(今のダイソーの店内のようなどぎつさ、あのような色に囲まれていましたら頭が変になってしまいます)はおもえない。ついこの前のことであるのに。(Dulles N. MANPYO)

 
50年前のバラエティ「夢であいましょう」

同感。これほど粋で、洒落た番組が放送されるのだったら、私もテレビに齧りつくだろう。これは断じてノスタルジーではない(だってこれ、私が生まれた頃の番組だもの。観た記憶がない)。

昨今の「テレビ離れ」を食い止めるためには、放送局が大人の鑑賞に耐えうる番組を送りだすことに尽きる。送る側が観る側を見くびらず、真に知的で、気品に満ちた、教養あふれる番組を制作すればいい。予算だってそんなにかからないはずだ、「悪趣味なゴージャス」をやめればいいだけの話だから。

Mediumは余計なデザインがない。シンプルな仕様だからこそ趣味のいい人たちが集まるのだと思う。この快適な状態を今後も維持してほしいと願う。(5月23日)

註:ところで、最近のMediumのデザインセンスは、あまり感心しない。