鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

日常に鳴ってる音“HIGH-LIGHT” 福岡史朗

 

福岡史朗2016年発表のベストアルバム、“HIGH‐LIGHT"を購入。

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街中のCDショップに行くたび、気後れしてしまう。自分の知らない音楽がこれだけたくさんあるのだと思うと。しかも、手にとって聞くまでもなくおれにとってはどうでもいい音楽がほとんどで、おれの好きなジャンルの棚は片隅に追いやられている。懐メロ扱いだ。流行りじゃない。だから街中のおしゃれなビルの、大型ショップへは自然と足が遠のく。

そんな中年男が、会社からの帰宅途中に、クルマのラジオを点けた瞬間、耳に飛びこんできた音楽に、あーこれは欲しい、こいつはゴキゲンだ、日常的に聞いていたい、一度や二度じゃ掴めない、何度でもくり返して聞きたい、と感じた。こんなに高揚したのは、ずいぶん久しぶりだった。

それで検索をかけた。福岡史朗という名前を。YouTubeにあった。いっぺんだけ聴いてみた。でも、クルマの中で流れたラジオほどグッと伝わってはこない。やっぱりCDが欲しい。オープンエアで聴きたいよ。入手方法は如何に?

たまたま上京したので、ショップを探そうと考えた。けれども検索した限りでは店先になさそうだ。せっかく気に入った音楽にめぐり合えたのに、すぐさま手に入れられないとは。昔よりも便利な世の中になった筈じゃなかったのか? しかたがないから娘に頼んで、Amazonで購入する方法を教えてもらった。できればオトーサンはアマゾンなんて使いたくなかったのだが、これも時代の趨勢、しかたないと諦めた。

しかしこの情報社会、網の目のようにはりめぐらされた耳よりでお得なお知らせ、その網の目は細かなはずだのに、なんでお互い引っかかれないのだろう。自分にとっていいものに、自分にぴったりしたものに、出会えぬものかと願っているのに、なかなか思いが叶わない。漠然と待っているだけじゃ求めるものは手に入んないよ、などと助言や啓発はたくさん聞くけど、いや違うんだ、おれが欲しいのは、偶然の出会いや予期せぬ出来事だ。街を歩いていてさ角を曲がったら、出会い頭に衝突するような、不意打ちに驚いてみたいんだ。無い物ねだりのように聞こえるかもしれないが、おれは楽しみまでシミュレートしたかないんだ。

だけど暗中模索で、ときおり寂しくなる。自分のお気に入りに、どうやったら会えるだろう。受け手がこうならば、送り手はなおさら不安だろう。自分の創作物が、どこの誰に届くか、当てずっぽうで球を放るしかない。頼むおれの投げたボールを誰かキャッチしとくれと、祈るような気持ちで、作品をリリースするのだろう。情報化社会にもかかわらず。

HIGH-LIGHT

HIGH-LIGHT

 

さて、そうやってようやく入手した、福岡史朗のアルバム“HIGH - LIGHT”は、2枚組の新録ベストアルバム。エフエムで(磯崎憲一郎という小説家が)かけていたのは、主に1枚めの赤い色した盤“HIGH”の方だ。淡白といっていいほどのそっけないアレンジで、コンパクトなナンバーが矢継ぎ早にくり出される。おれがゴキゲンな理由は〈基本的に快速なロックンロールで、いろんなジャンルの影響は随所に見出せるが、一言に括ればロックンロールという以外ない〉ってところ。楽曲単位でいえば「朝のステーキ」とか「ロードスター」とか。そうだ「ロードスター」が流れた途端に、これは買わねば!と思ったんだよ。3分にも満たない、盛りあがるサビもない、とっ散らかった部屋の様子を歌っただけの、ごくごくシンプルなエイトビートの。だけどクセになるような、軽快なドラムと転がるようなローズピアノと、簡単なリフなのに、ちょっとずつ小節線を跨いで捻れるギターと、出入りのタイミングが独特な旋律を、歌う福岡史朗(敬称略)のざらついた声質が、おれにはすごく好もしく感じて、封を切ってあらためて聴いて、あーやっぱり買って正解だ。これだよこれ、欲しかった音は。この乾いたデッドな響きが、おれには必要だったんだ、と散らかった自室でひとり何度も頷いた。

高橋健太郎のマスタリングは、そういったおれの渇望を癒してくれる、逆説的だが、潤いをもたらす仕上りだ。福岡史朗のエロキューションは、ゆで麺セロリを混ぜたような、苦みとあくがあるけど、最大の特徴は、声質そのものよりも、歌い方とそれから、バックトラックとの噛合いの妙にある。歌と演奏がイーヴンではなく、歌は演奏の一部なのだ。きわめて器楽的な旋律の辿り方で、日本のJ‐POP(二重表現)みたいに歌と演奏が乖離していない。等価とも密着とも違う分かち難いものとして、福岡の歌声は、楽曲の一パーツとして機能している。その印象はギター弾き語りの曲が前半を占める2枚めの青い盤“LIGHT”を聴いても変わらない。だから控えめなアレンジなのに、物足りなさを感じない。福岡の歌い方は、均等でフラットだ。妙なアクセントや抑揚をつけないで、トラッドみたいに淡々と歌う。シャウトしない、メリスマしない、切々と歌いあげない、日本歌謡の対極にある。本人にそのつもりはなくても、結果既存の音楽のアンチテーゼとなっている。うそだと思うなら二枚通しでぜんぶ聴いてみな。日本的情緒とはまるで無縁だから。一つだけ指摘するなら、そいつは語尾の処理だ。福岡は語尾を伸ばしたり、ビブラートをかけたりしない。白玉音符にせずスパッと言いきる。歌に酔わないし、酔わせない。それだけでも、他の歌手とは比較にならない。

 

「ところできみ、おれたちは以前、どこかで出会ったことなかったかね?」

そううっかり声をかけそうなほど、中央線沿線のライブハウスにふらりと入れば毎晩でも出くわすような、ありがちなタイプのSSWであるかもしれない。が、これだけジャブを立て続けにくりだせるのは、やはり才能という他ない。おれは福岡史朗のCDを、買ってから3日間くり返し流している。飽きない。日常的に浸っていたい。音の鳴っている状態が、ことばにならないほど愉快だ。だっておれ分かるもの。なんでそのフレーズを使うかを。なんでそんな歌詞を書いたのかを。たぶん誰よりも自分と感覚が近いからだ。プロのミュージシャン相手に失礼を承知でいうと、対象へのアプローチの仕方が昔のおれと似ているからだ。もちろん彼のソングクラフトは、他には見られない独特の個性がある。影響は借りものじゃなく彼のフィルターを通して血肉になっている。だけど分かるんだ。手の内が読める。悪い意味じゃなく。だから聴いていて、手際のよさに惚れぼれするのと同時に軽い嫉妬も覚える。そして、こういう音楽が2017年の今日に存在することを嬉しく思う。いつまでも頑張って活動してほしいな、と心中願っている。

1曲ずつの説明はしない。ただ、自分の気持ちにぴったり来る音楽にめぐり合えたのは幸運だった。こんなふうに偶然に、創作を送る側と享受する側とが、出会い頭に出会える機会が、もっと増えたらいいのにね。

今回久しぶりに、このブログを書いたのは、自分以外の誰かに、伝えたかったからだ。たぶん気にいると思う。酸いも甘いも噛み分けた、きみのような手ごわいリスナーであればあるほど、福岡史朗の音楽に、さまざまを発見できるはずだ。

 

【PV】12月15日リリース!福岡史朗/朝のステーキ(2010年)

試しに聴いてみて。アルバムの質感はYoutubeよりいいぞ。ぜったいおすすめだ。