鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ボブ・ディランへ、文学の側からの評価を求む

 

※この記事は10月17日にMediumに投稿した記事を再構成したものです。 

文学の側からの評価を求む

 なぜ、ボブ・ディランがノーヘル文学賞を授かるに至ったか、その意味を文学者や文芸評論家は真っ向から取り組んでもらいたい。

 ありていに言えば「歌詞の吟味」に尽きる。

「風に吹かれて」などの初期の代表作が公民権運動などの社会に与えた影響を語ることくらいでお茶を濁しているようでは、ボブ・ディランが受賞した理由、アーティストとしての真価には到底届かないだろう。

 ボブ・ディランは速書きで知られる。遅筆で有名なレナード・コーエンが「アイ・アンド・アイ」は書くのにどれくらいかかったかと質問したら、ボブは「15分」だと答えた。あの長大な歌詞をたったの15分で書き上げるというのだ。推敲を施すこともなかろう。異能という他ない。

【以下、Medium記事“Desire”より引用】

ボブが誉めてくれた、「君の“Hallelujah”は素晴らしい。作るのにどれくらいかかったか」と。そこで私は「10年だ」と答え、「私は“I And I”が好きだけど、どのくらい時間をかけたんだ」と逆に訊ねた。すると彼は、「15分だ」と答えた。15分!あの長い歌詞をだよ?レナード・コーエン

ボブ・ディランの歌詞はす早く書かれる。もちろん推敲も書き直しもするけれど、基本的には最初のインスピレーションをそのまま外に放り出す。言葉は時に意味が通じなかったり辻褄の合わなかったりする場合も多い。が、その粗削りな彫りあとが聞くものの耳に引っかかるのだ。彼は誰を指弾しているのか、敵か、彼自身か、それとも彼の恋人か。錯綜する意識を詮索しながら、聞き手はボブの紡いだ「物語」にいつしか没入していく。

レナード・コーエンは正反対だ。彼は戦車のように頑丈な詩を拵える。手造り靴の職人が皮をなめすようにコツコツと、誰が聞いても誤読不可能な語句を当てはめる。試行錯誤を繰り返した挙句、作詞は完成まで数年に及ぶ。一つのテキストに対するアプローチの相違は作風にも現れる。だからレナードの歌は、発表された瞬間から古典としての貫禄を備えている。

けれども、今朝がた私はボブ・ディランの『欲望』について、こんなことを呟いた。

洞窟の壁面に刻まれた古代人の文字が現代人の抱える問題や苦悩を偶然に照らしだすように。

彼が書きとばした言葉の羅列は、40年の隔たりを超えて、今ここにある苦悩を照射するに恰好の材料となっている。昨夜に書かれたものだと言われたらうっかり信じてしまいそうなほど生々しく、血の通った感じがする。それは“Isis”や“Joey”に今の混乱や葛藤を仮託した、引用者の心情とダイレクトに結びついたがゆえにであろうが、ボブ・ディランの警句もまた、経年の風化を免れた稀な詩として、ディラン・トマスやT.S.エリオットと並んで、後世まで語り継がれるに違いない(ということを本当は語りたかったのだと想像する)。 (以下略)

 反面、70年代の代表作としてあげられる「ブルーにこんがらがって」などは、ライブの度に歌詞が変化する。始終推敲を重ねる、永遠に未完成の作品。これもまた、ボブ・ディランという作家の稀有な資質であり、芸術のありようである。

 素人の私にだってこれくらいのエピソードは拾える。音楽評論家や現代芸術の批評家ならばもっと気の利いた指摘が可能だろう。ある評論家が、前掲していた記事(が、削除されている)に載ったアーヴィン・ウェルシュの発言を引用し、「批判するなら、これぐらいの表現力は欲しいよね」と軽口をのたまっていたけれど、では貴方は今回の受賞をどう思ったのか?いやしくもプロの書き手ならば手前のことばで批評してほしいものだ、と私は感じた。

 ボブ・ディランの歌詞=詩作の構造は決して奇抜なものではなく、むしろ古典的であり、修辞の飛躍も少ない。ボブは悪夢的な描写を好むが、わが国の総理大臣の答弁ほどシュールで奇怪な世界を語るわけではない。できれば英米文学の研究者による、詳細なアナリーゼを読んでみたいものだ。ポール・ウィリアムズ著『瞬間の轍』(下写真)みたいな歌詞の分析は試みる価値が大いにあり、だ。ディラン自身は『自伝』で、どのような古典文学に触発されたかを詳細に記している。ボブのホメロス的な叙事詩の源泉は専門家でなければ解けない種類の謎だ。それはディラン流のハッタリ、もしくは「煙に巻き」かもしれない。が、かれが詮索されたがっていることだけは確かである。私はボブの音楽を聴くたび「おれの書いたものをさまざまな角度から検証してみろ」と挑発されているように思えてならない。

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 漫画家の浦沢直樹氏は「究極の『うまいこといい』だ」と翌朝の朝日新聞の記事にコメントした。氏のディランへのアプローチは独自なものであるがゆえ、やけに淡白な感想だなと戸惑ってしまった。けれども千葉日報での、地元で活躍するミュージシャンJAGUAR氏の、きわめてまともなコメントを読むに至って、あゝこれは記者から見て余分な枝葉の部分を編集した結果なのかなと考えなおした。識者やその道のオーソリティが語る談話が一様に似通ってしまう傾向は全国紙も地方紙も何処も同じ事情なのかもしれない。デヴィッド・ボウイ死去の際にも感じたことだが、私が読みたいのは一般論やおためごかしではない。しかしこれは電話取材等のコメント記事に卓見を求めてはならないとの教訓であろう。

 だけど、ボブ・ディラン文学賞受賞について、もう少し鋭いコメントを目にしたいものだ。前掲の記事でいうなら、ジョイス・キャロル・オーツのような。かの女はボブが最も影響を受けた詩人ディラン・トマスを引き合いにし、ロバート・フロスト=ディラン・トマス、ロバート・ジンマシン=ボブ・ディランという、表現者の本名と筆名の関係性についてを簡潔に述べている。これこそが真の「批評」だ。

 そのオーツ氏が教壇に立つプリンストン大学は、70年にボブ・ディランに文学名誉博士を授けている。その式典の模様をディランは『ニュー・モーニング(邦題:新しい夜明)』の「せみの鳴く日」に結実させている。ポップスに自意識を持ちこんだ張本人であるディランは、生きる=トピックであり、目の前の事象すべてを「詩」として捉えることが可能であると身をもって示した。それが20世紀のアメリカにおいてポピュラー文化の表現拡大をもたらした、ボブ・ディラン最大の功績だと思うのである。

 私?私自身の独自な感想は、せいぜいこの程度(下参照)のものだ。(10月17日)

イワシ タケ イスケ@cohen_kanrinin 10月14日

ボブ・ディランは『自伝』の「オー・マーシー」の章で、やたらと「3」の数字が秘訣なんだと音符とフレーズの関係に固執していたけど、さっき  でかかっていた、ヴァン・モリソンの朴訥なギターソロ(ずっと2拍3連で押し通す)が、まさにそんな感じだった。 

 

【追記】

ボブ・ディラン?良さが分からない」という方に私はこの時代の音源を勧めます。


Bob Dylan - Rolling Thunder Revue

 とりあえずこれを観てみてください。重層的なアンサンブルと張りのあるディランの歌声が魅力的な『激しい雨』を。ロブ・ストーナーの弾力性あるベースプレイだけでも一聴の価値があります。

 また、曲によっては日本語の訳詞がスーパーに流れます。(同日)

 

 

 以上、ノーベル文学賞受賞決定のニュース以降に投稿したツイートを元に構成したボブ・ディランについての記事をMediumにエントリーした。Mediumは「意識高い系」として敬遠される向きもあるけれど、過去記事にとらわれずサクサク書けるという点で重宝している(どのサービスにもさまざまな意見があるものだ。ぼくだって「はてな村」のおっかない評判を目にするたび、はてなブログに書くのを考えてしまうときがある)。

 閑話休題

 ぼくが融通のきかないディラン像をあえて書いた理由は、ツイッター特有の「おれじつはよく分かんないんだ」や「おまぬけなエピソードが好きです」の方がチョイスされがちだからだ。女たらしのろくでなしとかどうでもいいゴシップばかりが作品の評価よりも余計に取りざたされる風潮がイヤなんだ。雄弁で著名な音楽評論家が「ディランは正直得意じゃないんだよね」とつぶやいているのを見ると、情けなくなるし、がっかりもする。その上さらに、ノーベル賞の評議委員会かなんか知らんが、ディランと連絡が取れないことが7時のトップニュースにあがる始末。まぁこの倒錯した現実こそが、稀代のトリックスターボブ・ディランに相応しいのかもしれないが、ぼくはまことに不愉快だね。このご時世に「連絡がつかない」なんてありえないでしょ?莫迦ばかしい。現にディランは受賞発表直後ライブのステージに立っているじゃないか。上機嫌で「ライク・ア・ローリン・ストーン」と歌ったという。舞台袖に代理人かなんかをよこせば済む話だ。くだらん。もっと作品そのものを論じやがれと、ぼくの腹立ちは治まらん。

 さて今回、はてなブログを仕上げるにあたって、ぼくは自分が過去ディランについて言及したツイートを再検証してみた。

 イワシ タケ イスケ(@cohen_kanrinin)/「ディラン」の検索結果 - Twilog

 そこで最後にいちばん好きだった自分のコメントを載せて、この記事にケリをつけたい。これは「新生姜」で有名な食品会社社長の岩下和了さんに宛てたメンションです。

イワシ タケ イスケ@cohen_kanrinin

@shinshoga ディランの場合、歌がバンドのグルーヴを牽引している感じがします。ストーンズにおけるキースみたいな。また『愚かな風』など、うたのフレージングがトランペットやサックスのようにも聞こえます。自由に出入りするところがジャズの感覚にも共通しているように思えます。

posted at 21:40:44