昨日(8月8日)、天皇が「お気持ち」を表明した。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)
戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。
そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この
間 私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行 って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井 の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い
殯 の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀 に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。始めにも述べましたように,憲法の
下 ,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。国民の理解を得られることを,切に願っています。
この表明は当然、大きな波紋を呼んでいる。けれども、自身のメッセージがどのように波及するかを見定めた上での発言だったと思う。ぼくは上の記事を再読した上で、このような感想をTwitterに投稿した。
天皇制の是非についてはひとまず措く。ぼくが唸ったのは天皇の使う「お言葉」の巧妙さだ。あれほど考え抜かれた、切り貼りや編集や抜粋を許さぬ精緻な文は滅多にない。一言一句揺るがせにできないとはまさにこのことだと全文を読んで感じた。
読みあげられた「お言葉」を文字として再読すると、そこには周到に選び尽くされた推敲の跡を発見する。自身の立場と個人を正確に見極めた上でのぎりぎりの踏みこみ。安直な切り貼りを許さない丁寧に張りめぐらされた「係り」と「結び」。どの一行も蔑ろにできない。これではマスメディアも容易に侵害できまいと思ったものである。
ところが、さっそく産経新聞などは、この発言を奇貨として改憲の議論が加速化するよう誘導している。まったく呆れてしまうが、改憲論者の歯軋りが聞こえるようで面白くも思える。ともあれ天皇は一石を投じた。個人として発信をすることによって現政権が、マスメディアが、日本社会がどのように動くかを綿密にシミュレーションした上で。
ぼくは、SNSを交差する意見の数々を眺めた。そこには冷笑という見慣れた景色がなりを潜めている印象があった。それは天皇について語るという禁忌(タブー)の意識が反映しているのかもしれないが、あの渾身こめた真摯な個人の発言には、たしかに襟を正さぬには居れない佇まいがある。それを軽薄に混ぜっ返す振る舞いはさすがに憚られるといったところだろうか。
それでいいんじゃないかと思うと同時に、よりフランクに、自由闊達に語り合う土壌が形成されつつあるとの印象も受けた。たとえば天皇が言及した「殯(もがり)の行事」について。この前近代的な儀式を私たち市井の人間はどう受け止めるか。非人道的であるとぼくなどは感じるが、そういった重く、度重なる行事の是非についても、私たちは関心を持ってかまわない。天皇の公務が諸儀礼の継承によって成立している現状を、簾の奥の霞がかった幻影にとどめておく理由はなにもない。天皇が「私」という主語を用いた意味を考えたとき、現代における天皇制のありようと、天皇自身の人権についてを見つめ直すきっかけとするのは、悪いことではないように思う。
翌朝ぼくは、このような感想を追加した。
ぼくはどの角度から見ても隙のない文だとの感想を抱いた。役人が書いたのでは?と疑う意見をみたが、そうは思わない。思考展開と平明な表現は独特のもので、他が慮って代筆できるものではない。一言一句揺るがせにできないと書いたが、神聖にして侵すべからずとは思わない。各自が好きに解釈していい。
読みあげた本人(天皇)もきっとそう思っているはずだ。みんなで考えてみてくれ、と。でなけりゃ発信した意味がない。
利用しようとすれば、なんだって利用の対象となる。すぐにプロジェクトチームが組まれ、対策案が講じられるだろう。しかし、あの文言を改憲の口実として手前勝手に解釈するのは容易ではないぞ。誰にでも理解可能の平易な文章だけに、いたずらに弄りがたい。と、ぼくは「フラット」に読みましたけれどね。
ぼくの見通しは甘いかもしれない。多くの人が指摘し、憂慮するように、現政権および憲法改正論者の具体的な目論見は、時限立法としての「緊急事態要項」を半永久的に継続することであり、最終的には憲法の条文に固定化することである。そのためなら皇室典範の一部改正をも憲法改正に利用するとの見方が正解だろう。だが、もう一度、天皇の発言そのものに目を通してみよう。そんな企みの入りこむ余地はない怜悧な文章だ。もし、この発言を盾に憲法改正の機運を醸成しようとする怪しげな動きがあれば(それは既に始まっているが)、私たちは「そんなこと、どこにも書いてないぞ。天皇の発言と憲法改正は別問題だ。それこそ天皇の政治利用じゃないか」と言い返せばいい。天皇を右傾化の防波堤として利用することには賛同しかねるが、そう主張することは可能である。だから、発言の趣旨を読み解くことで、主権者としての国民が、日本という国土に、今後どのような社会を構築していくかを考える契機になるのではないかと思います。その意味で、天皇の言葉の真意を探る試みは、ここ(日本)で生活する者にとって、決して無意味ではないことだと思いました。とメンションに返答したのである。
もちろん象徴天皇制の継続を求める天皇の希望が「千代に八千代に」となる危険を懸念する声は当然であるし、煎じ詰めれば「やってられっか」が大意だとする意見も理解できる。が、私たちは、とにかく構えすぎる。現にこうやって書いている間はまだしも、公開する瞬間やはり緊張するだろう。ぼくは少し前にTwitterにこのようなことを書いた。
天皇という文字を打つ際、僅かにためらう気持ちがぼくの内にあります。神聖にして侵すべからずの戦前よりかはマシにしても、日本人は天皇について語ることを未だにタブーとしている。象徴天皇制の是非をふくめて、自由闊達な意見が交わされる社会になればいいですね。
でもさ凛さん、やっぱりちょっぴり心拍数があがっちゃうよ。
Dragonfly
だから<天皇の発言について反応し、言及すること自体が反動であり、結局それは天皇制を強化するだけの働きにしかならない>とする一部の反天皇制論者の意見には首肯しかねる。ぼくの・私たちの住む日本において、天皇とは何かと問い続けることは決して無意味なことではない。天皇を、外交における有力なカードとする合理的なものの見方から、日本社会を覆いつくす空気のように偏在する情緒=ムードと捉えるかまで人の数だけ意見があるだろうが、真摯な意見の交流を重ねあうことで、象徴のおぼろげな像が実線を結び、はっきりとした輪郭線を持った等身大の人格となるだろう。そうやって天皇を自分たちの側に引き寄せてみようじゃないか。ひいてはそれが、旧弊な制度から天皇を解放に導く手立てとなるかもしれない。今回の発言が本人の毛筆によるものかパソコンによるものか、皇后・美智子さんのサジェスチョンによるものか法学者の手引きによるものか、いずれも定かではないけれども、日本の先行きを考えるには格好の材料だと思うんだ。
ぼくは、今回の天皇の文章を読んで、人のいのちの儚さに思いを馳せていた。
とにかく、いっぺんでいいから熟読してみるがいい、個人が編んだ言の葉を。
かれは明らかに、“Come on, come talk to me! ”と、ぼくたちに訴えている。
【関連記事】
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
【追伸】
『表徴の帝国』に示された「空虚な中心」“のみ”で、天皇制の考察を回収するって、知的怠慢だと思うな。生身の人間がそこに存在しているという想像力を持たない言説は、それこそ空虚でしかない(過度に情緒的なのも困るけれどね)。これ、べつに天皇制に限った話じゃないよ。ほとんどにあてはまる。