風紀委員を買って出たいわけじゃない。どこのどいつが何をほざこうが、われ関せずを決めこんでいたい。
だが最近ぼくはTwitterを眺めるのが苦痛になってきた。悪罵がはびこり、それに快哉を叫ぶリツイート。露悪的であればあるほど共感されるという状況は見るに堪えない。ここ数日で理性のタガが外れ、加速してしまった感がある。
原因は明白だ。東京都知事選挙。候補者選定をめぐるいざこざからはじまって、支持者による対立候補のあげつらい合戦がかしましい。公約にかんする批判や政策面への疑問をはさむのは大いに結構だが、性格や容姿、年齢や過去の言動をいちいち取りあげるのは、見ていてあまり気持ちのよいものではない。それら全部をひっくるめて、「それが選挙というものだ」と開き直る候補者もいるが、だからといって、候補者を応援する側までもが、その身振りを真似る必要はあるまい。「きれいごとばかりではない、選挙とは人間のいちばん薄汚い部分がさらけ出されることだ」的な言説もまた、おのれの手口や悪意を正当化する方便のように思える。
今回とりわけ見苦しいのは、インターネット黎明期から活躍し、ソーシャル・ネット・サービスの発展に寄与してきたであろう何名かの、目を覆わんばかりの言動である。「ばか」だの「ていのう」だのの漢字二文字を遠慮なく使い、相手を徹底的にこき下ろす方法は、かれら自身が軽蔑していた対象であるはずのネトウヨの口調とほぼ同一である。それは「辛辣で容赦ない」の域をとうに超えていて、ユーモアやウィットの欠片もない。いったいどうしたのだ?
この懸念は、どうやら自分だけではなさそうだ。
昨日ぼくと親しい何人かが当惑していることに気がついた。それはネット上ではなく、むしろ現実社会の変容に戸惑いを隠せないでいたのだが、ぼくはインターネットという仮構空間での現象はリアルの写し鏡であり、現実に抑圧された感情を増幅する装置であるとの考えから、返信を起点に、連続ツイートした。
①(返信)ツイッターを見ていると、そのことをよく感じます。憎悪をかきたてるような語彙を駆使するアカウントに多くのリツィートが寄せられる。今回の都知事選でそれが露骨に表れています。寝技やら空中戦やらで感情をすり潰してたら相手の思うつぼだのに……
②(返信)最近とみに感じます。剥きだしだな、と。冷笑では飽きたらず、罵倒の段階へ。ブレーキが効かなくなって、レッドゾーンに突き進んでいる。
③(返信)形振りかまわずといったところです。ばかだのていのうだの、とてつもなく下品なことばで異論を圧倒する。俺様がいちばん賢い、偉いと思っている。そんな輩が参院選後の都知事選をめぐって我がもの顔で毒吐いている。これが日本の言論の標準かと思うと情けなくなります。
さらに、サングリアを傾けていたせいか饒舌になったぼくは、かまうもんか、と思いを書き連ねた。
④かれらは事あるごとに、左派には政権担当能力が無いとか社会保障の充実が経済の停滞を招くとか宣いますが、私からしてみれば、かれらの説く市場万能主義こそが幻想に思えてなりません。いや寧ろ経済の活性化を阻害しているのはかれらのような「ばかは引っこんでいろ」的な傲慢さではないかと思います。
⑤機会均等の原則を足蹴にし、人心に諦めの風潮を蔓延さす、かれらこそが健全な競争社会を破壊している元凶だとは思いませんか。具体的な名前は挙げませんが、誰彼のことであるかは、それぞれ心あたりがあるでしょう。そう、民主主義を軽蔑し、鼻でせせら嗤っている、あの人たちのことです。
⑥私はここ何日か憤りが治らない。自分たちがどれほどのものだと言うのだ、思い上がりも大概にしろと感じる。けれども辛うじて自制するのは、かれらと同次元に堕ちたくないし、心ないことばで悪態をついたら自己嫌悪に陥るだろうから。ホンネをさらすことと他者を屈服させることを同一化してはならない。
⑦私は皮肉もイロニーも嫌いではありません。むしろやや斜に構えて世を見ているほうが性に合っている。だけどね最近あまりにも凶々しいよ。ことばに含まれる毒気の度が過ぎる。「それがSNSですよ」と開き直るかい?知性と理性をかなぐり捨てた粗雑な論に、いったい何時まで溜飲を下げ続けるのですか?
翌朝、酔いでやや鈍くなった頭を小突きながら読みかえし、ずいぶん短絡的な結びつけをしたもんだと呆れつつ、それでも全体としては間違っちゃいないと思った。今朝この記事をしたためようと思ったのは、これらことば足らずなツイートに補足するのが目的だったけれども、言いたいことの骨子は、ほぼ含まれていると再確認した。
ぼくは現政権の横暴には反対だし、与党が推し進める改憲および弱者切り捨ての方針に怒りを覚えるが、現体制維持の意見にも一とおりは目を通す。そこで気がついたのは、規制を撤廃し市場の原理に委ねよという新自由主義的な立場をとる識者(その多くは経済を評論する)のほとんどが、安倍内閣の方向性を支持もしくは容認していることだ。かれらは政治からの制限を異様に嫌う。そしてかれらの考える政治からの制限とは、公的な社会保障・福祉に予算が宛がわれ、計画した構想が縮小もしくは中止に追いこまれることだ。ヒト・モノ・カネを集約する事業に手を突っこまれてはかなわんとの思いが抜きがたくある。それは参院選後の10日間でひしひしと感じたことだ。
⑧青島幸男のことをふと考える。かれが都知事に就任後に都市博を中止したことは財界(大手ゼネコンから広告代理店にいたるまで)にしてみれば痛い失敗体験だったはず。二度とあのタイプを知事にしてはならぬとスクラム組んで阻止するのも無理はない。諸計画が白紙に戻されるのをおそれる都職員も含めて。
⑨広義の意味での)リバタリアンが政治による自由の制限を否定するのは当然の帰結だろうけれども、財産が乏しく、公的扶助を必要とせざるを得ない(私のような)低所得者層が、政治への不信から冷笑的な振る舞いにいたる現象を、リベラリズムの側(政党政治家を含む)はシビアに受けとめなくてはならない。
⑩都知事選の行方は予断を許さない状況だが、小池百合子のようなウルトラ全体主義的イメージ反体制な候補の勃興を食い止めるには、悪行を論うだけではダメだ。なぜなら小池氏の酷薄な態度こそが衆の愚な嗜虐性にフィットしているのだから。庶民はジャンヌダルク的を装った振る舞いに溜飲を下げるのである。
⑪社会に不満を持つ層が、鳥越俊太郎氏のようなリベラルを体現した(そうとは言いきれないが)候補にそっぽを向くのは、ある意味仕方のないことだ。理想論は貴族的に映り、私たち俺たちの生活困難をシリアスに感じとってくれないとのイメージを抱く。これは前回の細川氏のときにも見られた現象だ。/では、鳥越氏にどうすれば活路は切り開かれるだろうか。私は今一度政策に戻るしかないと思う。掲げた政策が社会的弱者・低所得者に立ったものであるとの説明を愚直に訴えるしかないのだ。組織頼り、有名人頼りでは、人は集まるが票には繋がらない。残る期間、できるだけ多くの都民と会話することに尽きよう。
(博多駅。写真は記事内容とは関係ありません)
かれらの口ぶりはうつります。すぐさま感染する。ホンネをさらしたように錯覚しがちです。だけど安易に真似しちゃいけない。冷笑的な態度や嫌味たっぷりの言い回し、揶揄、ほくそ笑み、罵倒、他者を見くびるまなざしのありよう。そんなものに惑わされてはならない。
最初に断ったように、ぼくは風紀委員を名乗るつもりはない。ことばのあやかと誤解した方もいらっしゃったが、本来ぼくはわりとシニカルで、ものごとを斜に構えて眺めるようなヤツだ。そのぼくが、あんまり酷いんじゃないかといっている。日本語の言語空間が歪んでいることに心底から怖れを抱く。
あれを日本語のスタンダードにしてはならない。SNSもまた公共の言語空間であり、感情のゴミ捨て場ではない。もしもぼくがかれらと同じような口ぶりをしだしたら、その時は遠慮なく指摘してください。そしたら直ちに、ぼくはTwitterをやめます。
(7月22日・早朝)