【お断り】この記事は、映画『スクール・オブ・ロック』についてのレヴューではありません。
「ロック(音楽)に政治を持ちこむな」。
やれやれ本気で言ってんの? と思ってしまうね。
事の発端は、今年のフジロックフェスティバルに、SEALDsの奥田愛基氏が登壇することを苦々しく思っている者たちが、「フジロックに政治性を持ちこむな」というスローガンを掲げていたことから。
そういう短絡的な反応をする若者を、津田大介氏が(フジロックの成り立ちから「アトミックカフェ」活動の経緯までを踏まえて)優しく諭している場面もあったけど、まあ何というか、そこまで懇切丁寧に指導しなけりゃ分からんのか、と頭を抱えたな。
要は、SEALDsが嫌いなだけでしょ。その方便として「ロックに政治を持ちこむな」という紋切り型の否定を利用しているだけじゃん。その好悪が見え見えなだけに滑稽なんだけど、ネットの状況をみていると、そうも達観していられないようだ。
どうやら「ロックに政治を持ちこむな」のほうがマジョリティらしいのさ。
ロックはエンターテインメントの一形態であり、ロックを反逆精神の表れと見做すのは旧い考え方のようだ。
つまり、「楽しむために来ているロックフェスティバルで、なにゆえ政治の話を聞かなきゃならないの?」という理由がつくんだと。
そして、それがむしろ若い人たちの主流なんだと。
その認識を覆そうとは思わないよ。
そう思うんだったら、そう思ってりゃいい。
オレの内にあるロック的アティチュードだと、こうなる。
I Can't Explain! 説明なんざ一切したかない。
Should we talk about the weather.
Should we talk about the government.
「天気の話をしようか、それとも政治の話でも?」
で、そういう「誤ったロックの認識」を正そうと、若い人に教育の必要性を説く方もおられる。
「そもそもロックとは若者の反抗文化=カウンターカルチャーでありまして、すぐれたロックミュージシャンが発信するメッセージは、常に政治的側面をはらんでいました」
とかなんとか、丁寧に教えを授けるつもりなのかしら。
そういう「ロック・エンサイクロペディア」的なものは、それこそ大小メディアのすみずみに溢れているじゃないか。うんざりするくらいロックの歴史は強化され、教条化されているではないか。
ロックの歴史とか意義だとか、それこそジャック・ブラックにまかせておけばいい。
まあ、日本語によるロックはガラパゴス的な進化を遂げているから、欧米のロック史観(嫌なことばだ!)とは違った見方があるのかもしれんが。
あらためて教導する必要はないと思うよ。
ただし、「ロックに政治を持ちこむな」的な価値観が、どこから来たのかを検証する必要はあるかもしれないな。
そういうくだらない・つまらない・微温な考え方の基準を、どこで学んできたのか、それは調べてみたほうがいいかもしれない。
(たとえば、一般的にロック漫画と評される『BECK』は、ロックフェスティバルなどのヌルい認識に、かなりの部分「貢献」していると思う。)
菅野完(すがのたもつ)氏が『日本会議の研究』で、今の粗悪で画一的な改憲論がどこから発信されたのかを暴いてみせたように、「ロックに政治を持ちこむな」的な言説がどこから発せられ、どのように「マジョリティの共通認識」として形成されていったのか、過程を逐一たどってみるのは意味のある調査だと思う。
オレは面倒くさいからやらないけれどもね。
それはジャーナリストの仕事だし、社会学者の仕事だ。
話をもとに戻すと。
オレにいわせりゃロックは教わるもんじゃない。教わったロックなんて碌なもんじゃない。自力で発見し、掴み、獲得するものなの。その上で「ロックと政治は無縁のものであり、政治性とは切り離されてなくてはならない」と結論づけたとすればさ、それはそれで一つの見識ではある。
でもそれは、あくまでも自己認識において、だぜ? 誰かからの受け売りだとしたら脆弱な考えだとしか映らないな。
オレはべつにロックを神聖視しているわけじゃない。
むしろ、どちらかと言えば、音楽の一ジャンルにすぎないと思っている。
それは、ロックを中心にいろんなジャンルの音楽を聴いてきた経験から、そのような認識に至っているわけだ。
クラシックにも、ジャズにも、ラテンアメリカのリズムにも、イスラミックスケールで奏でられる音楽にも、政治は確実に反映されており、無縁ではいられない。世界中のあらゆる音楽には権力が介入し、資本が介在し、娯楽として消費されるが、その一方で民衆が伝承し、抵抗の意志を示し、自由を希求する媒体でもある。音楽が歌われ、奏でられ、聴かれる背景には、社会的な側面があるのを無視することはできない。
それはなにもロックの特権ではない。確かにロックは、20世紀を代表する対抗文化であったが、本質的なレベルミュージックに到達することなく、1976~77年ごろにいったん「死んだ」。今やそのほとんどはエンターテインメントとして消費されるだけの商品である。けれども商業ベースの中にも作る側・送る側の思わくがあって、聴く側・受ける側がそのコードをキャッチする関係性があるかぎり、絶滅するだけのジャンルとは思わない。
やれやれ、軽く蹴飛ばすつもりが熱弁ふるっちまったい。
それにしても、説明を当然のように要求する社会とは、なんと窮屈なことだろう。
オレはこないだ、こんなツイートをみつけて、胸を衝かれる思いがした。
例えば「自作を “言葉” で説明できないならアーティスト失格」とか「アートを “社会化” せよ」といった言説に隠れた、「私と “物語” を共有せよ/私をその “物語” に参入させよ」という心性もまた、右傾化である。
<いま国際的潮流として指摘されている右傾化とは、おそらく個別的リアルよりも集合的リアリティを、たとえフィクショナルであっても参加・同化できる物語をもとめる心性に起因しているのであろう。だとすれば、右傾化は必ずしも明示的に政治的な問題ではなく、遍在していることになる。>という前段から続くこのツイートとは、あまり関係ないのかもしれないが、それは常々オレが抱え・考えている問題と深くかかわっているような気がしてならなかった。
説明する義務なんて、はたしてどこにあるね?
答えを、あらかじめ用意している者に対して。
中島氏の言う「物語の共有化」が促進されればされるほど、「私の意図する答えを提出しなさい、できなければ認められない」という関係性を強要するようになるだろう。
「政治をロックフェスに持ちこまれては困る」のは、
「その(自分に望ましい)“物語”に、自分が参加できなくなるじゃないか」との不満を表明したに過ぎず、
そこにコミットする/しないの選択すら、みずから放棄しているだけのように思う。
その心性を煎じ詰めれば、やはり「右傾化」の一言に収れんされるだろう。
そういや、最近めでたく凍結を解除された野間易通氏が、この「政治を持ちこむな」を一刀両断していた。
野間易通
@kdxn 11 時間前 「音楽に政治を持ち込むな」とかいちいち吠えてるおまえがいちばんポリティカルやがな。
これは揚げ足取りでも相対化でもない。誤読の余地なき、的を射た批評である。
えっ、意味が分からないって? それも分からんようなヤツにロックを語る資格はない、といいたいね。
街角の黒猫 Chat noir du coin de la rue
にしても嗚呼、懇切丁寧に説明されなければ納得できない社会の世知辛さよ。
【追記】
これは大阪市立大学・増田聡准教授へのインタビュー記事である(7月21日、聞き手&構成・河村能宏)。
今回の記事でぼくが書ききれなかった不足を補って余りある、優れた記事である。ポピュラー音楽が社会や政治に与える影響を俯瞰して分かりやすく解いている。音楽を個人と好きなジャンルのかかわりのみでしか楽しめない方々がテリトリーの横断を異様に嫌うけど、その偏狭さも当記事で説明がつく。全文を引っぱって逐一解説したい誘惑に駆られるが、紹介するにとどめたい。なにとぞ読まれたし!(7月22日)