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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

空を映した水たまり

 

 歌詞を覚えられないという、ぼくの致命的欠点は既に何度か書いた。

 それなりに覚えようと努力はしてみたが、どうしてもダメだった。心の中で記憶を拒む働きが発動すると、そのたびにぼくはハッキリと自覚した。

《こんなことではリードヴォーカルは務まらないな》

 

 20年ほど前、大宮市ソニックホールで今は亡きルー・リードのライブを観た。そのとき眼鏡をかけたルーは、大判のスケッチブックを譜面立てに置き、それを見ながら歌っていた。あれは間違いなく歌詞カードだった。『ニューヨーク』『マジック・アンド・ロス』といった文芸路線(?)に転じたルーの作風は、歌詞の長くなる傾向があった。だから歌詞を違えず歌うためには、書かれた文字を確かめる必要があったのだとぼくは推測する。

 が、たいていのポップスの歌詞は、それほど長くない。要所を押さえさえすれば、サビはほぼ同一なのだから、覚えるに困難はないはずだ。ところが、もっとも記憶力が活発だった高校時代にも、ぼくは歌詞を覚えられず、バンド仲間から「何とかしろよ」と責められていた。大事なコンテストの当日であっても歌詞を暗記できずに、始終カンペを確かめずにはいられなかった。そして本番になると、記憶の飛んだ部分を思いだせないまま、うにゃららホニャララあわわドシャメシャと、喃語めいた意味不明のことばを喚く破目になるのだった。

 真剣みが足りないんじゃないか? と少なからぬ人から指摘されたが、そんなことはない、歌う寸前まではわりと正確に覚えている。ところが、いざ歌う段になると、すっぽり抜け落ちてしまう。それで信頼を問われる。イワシはフロントに立つ器ではないんじゃないか、責任感に欠けているからと。

 そうかもしれない。

 ぼくは心のどこかで、歌詞を覚えることじたいに、根本的なばかばかしさを感じていた。人の拵えたことばをなぞることに空々しさをおぼえていたのだ。

 

「それはキミが、歌詞の内容に納得していない、つまり共感していなかったからだ」

  20代のころ、音楽の共同制作者だったテツローに、よく言われたものだ。

「歌詞を自分の内側に取りこめていないんだ。ことばを信じきっていないというか、詞に歌われる内容イコール自分の本心になっていないだろ? それで忘れちまう。借り物のことばだから」

「うー。頭じゃ理解しているつもりなんだけどな。身体に浸透してこないっていうか」

「キミは記憶力が劣っているわけじゃないんだ。むしろ人一倍あると思うね。どうでもいいようなつまらないこと、よく覚えているじゃないか」

「心のどこかに歌詞を覚えることを拒絶している自分がいるんだ」

「それは言いわけにすぎない。

 いいか? キミが自分の作った歌詞をいつまで経っても覚えられない理由っていうのは、取りあえずあてはめたことばを信用していないからさ。自分の正直な気持ちと合致しない、ありあわせのことばを置いているだけだから、書くと歌うが分裂しちまっている状態なんだ。要は、その差を縮める努力を怠っているんだよ。それがホントに歌いたいことなのか、他人に伝えたいことなのか、突きつめてないからじゃないのか?」

「自作については、そうかもしれないな」

 「(山下)達郎が言ってたよ、他人の歌をうたえられないようなら、そいつは歌手じゃないって」

「おれ、タツロー好きじゃないんだ。なにが『メロディーの雨が肩を濡らして降りそそぐ』だよ? よくもまあ、あんな甘い歌詞を恥ずかしげもなく歌えるもんだぜ」

吉田美奈子だよ、歌詞を書いたのは。でも達郎は、歌詞の内容を自分の気持ちとして把握し・掌握し・消化している。それこそが表現者ってもんじゃないの?

 キミは批評家の側面に偏りすぎているんだ。歌詞を書きながら、自分でツッコミいれるだろ? こんな設定はご都合主義だと茶々を入れるだろ? その態度は創作への裏切りだよ。やめたほうがいい」

「『気にするな。気にしたら同次元までオチるぞ』?」

「それ、『緑茶夢(森脇真末味)』の水野のセリフ。ったく、そういうセリフなら完璧に覚えているくせして。蓄えた雑多なプリコラージュはいったん置いといてさ、たとえば歌詞に一貫性のある意味をもたせたらどうだろう。キミの選ぶことばは、どうもとっちらかっていて、ストーリー性がないというか、抽象的すぎるきらいがある」

「いや、おれは意味なんかないほうがいいと思っているんだ。T-REXの呪文を唱えるような歌詞が最高だね。「レイディ・ラッカ・ラッカ・レイディ」みたいに、ナンセンスで、意識しなくても口について出るような」

「ま、キミがステージでど忘れしなけりゃ、それでかまわないんだけどさ……」

 

 当時テツローと交わした会話、とくに山下達郎についてのくだりは、このあいだ運転中にFMラジオを聞いているうち、突然に思いだしたのだ。

 このMediumの記事で触れている「なぜ歌詞を覚えられないのか?」という根源的な問いを、ぼくは自らに投げかけ続けている。

 言いわけめくが、ぼくはつねづね疑っていた。はたして歌詞を決めるのは正しいことだろうかと。それが把握だったか掌握だったか消化だったか定かではないが、三択の一つしか選べないことに不自由さを感じながら歌詞を書いていた。あいまいな感情を言い表すのに明瞭な輪郭を持ったことばは似つかわしくないような気がしてならなかった。

 歌詞とは、ぼくにとって意識の流れを係留するための、いわば手段だった。思考の絶え間なく移ろうさまを暫定的に書き記す措置だった。だからコレが決定版だとは一度も思わなかったし、決定することによる意味の膠着をなによりもおそれていた。

 ボブ・ディランは「愚かな風(Idiot wind)」の歌詞をライブがあるごとに更新している。あの長いながい叙事詩は未だに未完のままであるようだ。ディランはサキソフォンプレーヤーがアドリブで自由なフレーズを展開するように、大筋こそ変えないけれど、思いつくまま即興的に改訂していく。おもしろいなと思うが、それはどんなに長い歌詞であっても決して忘れず、短時間で一気呵成に書き上げてしまう特異な能力を持つボブだからこそ許される試みなのだ。

 凡人がこんなことを打ち明けるのは気が引けるが、ぼくは歌っている最中に自分の書いた詞を再考しはじめる。むしょうに改訂したくなる。歌っている自分と、歌を作った自分を完全に一致させることができない。過去のテキストに納得いかない・信頼できない場合、ぼくは元を裏切り、新たを付加し、余分を削りたくなる。その衝動が歌うたびに訪れるものだから厄介きわまりない。

 この他人に説明しがたいぼくの心理状態は、こころの病ではあるまいかと密かに疑ったことがある。覚えきれていない、忘れてしまうおそれから逃れるための、それは防禦ではないか。あるいは、間違えないで歌いおおせることへのプレッシャーが昂じて頭の中が白紙状態になるのではないか、と。

 いま図らずも「白紙状態」と書いたが、歌っているあいだに歌詞を思いだせなくなると(吉兆の女将じゃないけれど)脳内が真っ白になる。そして瞬時に、違うことばがしのびこんでくる。意識的であろうとすればするほど複数のイメージが交錯し、混乱してしまう。それはぼくの場合、歌をうたうときだけに顕著な現象なのだ。他の職務に従事しているときに混乱することはまずない。決まりきった文句=クリシェを寸分違わずくり返すことができる。まるでファーストフードの店員みたいなものだ。意識せず自然と身につけたふるまい。自我が介入しないと自分でも驚くほど精巧な機械となり得る。ぼくはその気になれば、いや、その気にならなければ[It's Automatic]で有能なセールスマンにだってなれる。

 

 自意識が混入しはじめるとダメなのだ。自省もするし、自虐にも走る。自分を傍観するもう一人が、対象への忘我を阻止してしまう。

 かかる負荷を、歌い手はどうやって制御しているのだろう。あるいは歌手よりももっと長いセリフを暗記しなければならない俳優は自意識から押し寄せる疑念をどうやって遮っているのだろう。一言一句ゆるがせに出来ない世界。シェークスピアのように容易に改変が認められない強固なテキストであれば、そのような混乱とは無縁になるものだろうか。暗誦。そういえばぼくは、詩を暗誦したことがない。西欧のように聖書や詩を諳んじる風習でもあれば少しは違うのだろうが。分からない。分からないけれども一つだけ言えることがある。それはすなわち、

《ぼくは空っぽの器にはなりきれない》

 ということだ。他からを丸ごと受け入れ、自己と完全に同一化することができない。

 もちろん、ぼくの思考を形成する大半は、かつて記されたもの・認められたものをトレースした借り物にすぎない。ぼくは何にでもすぐ影響を受ける俗物であるが、その一方で全面的に依存することができない。所属することも帰依することもできない。信仰心を持つなんて想像もつかない。帰属意識の希薄さは、提示されたテキストへの懐疑につながる。こいつをそのままそっくり歌っていいものか。まっさらな気持ちで、自分自身のものとして、信頼を寄せていいものかどうか、迷う。

 面倒くさいヤツだなあと、自分でも思うよ。

 

「自分がどうして歌詞を覚えられないか」について、こうして延々と言いわけしていても、自分が人前で歌っていたときの、戸惑いと焦りとがないまぜになったような感覚を伝えきれない。説明不可能だと思う。ある意味ではすこぶる冷静で客観的なのである。ものすごい勢いでいっさいが流れていくのに、自分の内側に流れる時間だけが停まっており、ぼくの思考は歌いながらも、あらかじめ書かれた歌詞の変更がもたらす、さまざまな可能性を模索し続けている。

 収拾のつかなくなったぼくはうわごとみたいな言語を発し続ける。ぼくはテツローに「意味なんてない、呪文みたいな歌詞を唱えたい」と言った。それは苦しまぎれな言い逃れだったけれども、ぼくが信じられるものは、ことばの意味するところよりも、ことばそのものの響きなのだと思う。だとすれば意味を越えた(メタ言語ともいうべき)原初的な発声を求めていたのか? いいや違う。やはり伝えたいこと・訴えたいことはあるのだ。ただ、その内容と歌唱の響きとの齟齬を、最後まで突きつめられなかったのが悔いの残るところである。

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空を映した水たまり もしかしたら 繋がってる? 秘密の入り口

 

 ぼくは40歳になったときに音楽をあきらめた。今は制作をせず、人前で演奏することもなく、歌うこともない。だけど相変らず音楽が好きである。この表現を許していただけるならば、ぼくは音楽を愛している。だからこそ、歌詞を覚えられなかった原因を、過去を紐解きながら考え続けている。歌詞を作る意識と歌をうたう行為が、最後まで乖離したまま、一致しえなかったことを解明したいが故に。

 

 どうしてぼくの考えた歌詞は肉体に還元できなかったのか?

 

 これ以上は考えがまとまらない。今日はこれくらいにしておこう。また何か気づいたら、稿を改めて書くことにしよう。

 それにしても、ときおり誰かの歌詞の断片が、ふと頭を過るのはなぜなんだろう?

 

 

【参考】

Lou Reed - "Magic And Loss" (Official Music Video) - YouTube 譜面立てが見えるだろ?

Tatsuro Yamashita - Music Book - YouTube 今では大好きな歌です。歌詞もすばらしい。

T Rex Lady - YouTube 

Bob Dylan - Idiot Wind [New York Version] (1974 Outtake) - YouTube 

宇多田ヒカル - Automatic - YouTube 今の耳で聞いても傑出したうただと思いますね。

⑥このことについて書いた記事を9月10日に投稿しました。


 

 

 

 

P.S. 前の記事について説明。スライ・アンド・ファミリーストーンのアルバム『暴動』の、表題曲が8秒間の無音であることにちなんで、白地の写真を貼りつけたものである。コレ、いっぺんやってみたかったんだ。