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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

書くのも読むのも辛い

 
震災に遭い、被災者になって10日間が経過した。そのあいだブログに記事を書くことができなかった。被災地の状況をリアルタイムで伝えたくて、Twitterばかり投稿していた。Mediumにも記事を書き、これも多くの人に読まれた。ぼくは未見だが、英訳もされたらしい。今週、九州の地震は日本国内の話題の中心であり、その話題の波をサーフしながら、ぼくほ現実から逃れようとしていた。
現実は面倒くさい。やらねばならないことが山とある。その一つひとつがさほどでなくても、問題が多すぎると片づける気力が失せる。比喩ではなく、今ぼくのいる部屋は散乱したままだ。また強く揺れたら元の黙阿弥じゃんかとの思いがどうしてもつきまとう。
ぼくは怠惰な人間である。だのにTwitterの中では、実際の何倍も「いい人」になっている。違うんだ、ぼくはそんな立派な人間ではない。けれどもTwitterではエエ格好しい、だ。現実よりも社交的に振るまっている。が、そのことに少し疲れてしまった。本当は毒つきたいことが山ほどあるのに、今の影響を考えて抑制することに。
例えば、
北海道5区補選で池田まき候補を応援していたが、陣営が小沢一郎を排除したことで、すっかり熱が冷めた。もちろん勝ってもらわねば困るので黙ってはいるけれども、がっかりしたというのが正直な感想である。だからタイムラインが、ピンク色のリボンをつけたアイコンで占められていると、鬱陶しくてかなわない。
坂口恭平氏の視点は社会にとって有意義なものだと思っている。が、彼の<避難しないと行政に同情してしまう。行政は人間ではなく機関だ。機関は人間が作ったもので税金によって成立している。つまりは本来何かが起きたときのためにお金を貯めておくところだ。今こそ避難金を請求すべき>という内容の投稿を目にすると、卓抜した発想だと感じいる一方で、震災で分の中に芽生えた「行政に同情する気持ち」が、宙ぶらりんになってしまう。
十全外人ことジェイムスF.氏が、いつもの日本中高年老害論をぶっている。けれども氏の、<人間は年をとると自分のだらしなさに鈍感になる。はてしなく自分に寛容になったうえに、自分の過去の一生は限りなく美化されてゆく。老いの真の醜さは刻まれた皺や皮膚のたるみにあるのではなく自己の弛緩にすら気づけない知性の衰退にある。その自覚がない中年の醜さは筆舌に尽くしがたい>という鋭い指摘に、そうだその通りだと頷く反面、もうまっぴらだ放っといてくれ、と反撥もしてしまう。分が社会にとって無益などころか有害なだけの存在であると覚するのは、やはり辛い。
以上の事どもにいちいち反応し、消耗してしまう。これらを目のあたりにするのは、分のチョイスした結果によるものだから、言うなれば得、傷つくのも己責任なのだけど、今はネトウヨやら冷笑系やらの嘲りよりも、味方だと錯覚し(ぼくが勝手に共感し、分の考えに近いと思っ)ていたものの刃先の方が、むしろ深く突き刺さる。一つひとつは個人の単なるつぶやきに過ぎない。しかしそのランダムに放たれた感想の押し寄せが、今もっとも分には危険なのである。意識の砦が崩壊しそうになるので。
そして同時に思う。分の投げかけた意見によって少なくない人が傷ついたのではないかと。そのことに気づいてしまうと投稿するのも億劫になり、だったら黙っておこうと思ってしまった。
今回の記事はTwitterに書くべき事柄なのかもしれない。が、ブログに記しておくにとどめたい。陰口をたたいているようで居心地よくないが、書いておかないことには己を保てそうになかった。ここに内面を吐露することは、制心の表れだとして、お許し願いたい。
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本当なら今回の記事は『こんなに励まされたことはなかった』というタイトルで、皆さんからTwitterに寄せられた、温かい励ましのメッセージを紹介しようと計画していた。返事もろくにしていないから、せめてもの罪ほろぼしのつもりで。 
でも、今はその気力が湧かない。この10日間ぼくは憑かれたように発信してきたが、そろそろ休むべき時なのかもしれない。でないと滅してしまう、インターネットの波に呑まれて。
 
 
それにしても、プリンスの早すぎる死去(57歳)は堪えた。