スランプである。調子がでない。何を書いても読んでも、真実味を感じられない。
こういうときは、何日か書くのを休んでいればいいのだ。後頭部にあるイメージの壺に着想のことばが満ちてくるまで。空っぽなのに無理やり捻りだそうとするから、チョロチョロとしか流れ出てこない。はあ、まるで便器のタンクみたい。どう?想像できたかい。
ぼくは海沿いの道路を走らせていて、前々から気になっていた場所にクルマを停めてみた。海中に電柱が並んでいる。そこは遠浅の海でも漁船が着けるように、夜になっても漁に出られるように、地元の漁協が岸壁から4キロ先まで舗装道を敷き、電線を通したのだという。一般人が侵入できない、海上の道。
こういう変わった景色が話題に上るのって、21世紀になってからだよね?
ぼくの問いに、
やはりインターネットの普及からでしょうね。
と関西から来た友人が頷く。
何の変哲もない、うっかり見逃してしまいそうな風景に、意味を見出すのは。
それから、こうも呟く。
今にして思えば、むかし撮っていた写真に、もっとふだん眺めている、ありきたりな光景を収めておくべきだったと、ちょっぴり後悔しますね。何の変哲もないお店の陳列だとか、その時代に描かれたポスターや看板だとか。そこらへんのおっさんやらおばはんやら、余計なものが写りこまないようカッコいいところばかり選んで、シャッターを切る前に、あらかじめトリミングしていましたが。
夾雑物を排除していた?
そうです。だけど、カッコ悪いと思った邪魔物の中にこそ面白いものが潜んでいた。そう気づいたときには手遅れで、それら「時代の産物」は、とうになくなっていました。フィルムや現像代を惜しまず、記録しておくべきだったんですよ、忘れてしまう前に。
そのくせ人は過去を懐かしむ。なんとかしてその時代を、再現しようと試みる。
ええ。『三丁目の夕日』みたいな形で。だけど肝心要な部分が抜けている。臭いです。臭いだけは再現しようがない。
むかしはもっと臭かった?
溝の臭いやら消毒薬の臭いやらが、雑踏の体臭と混じりあっていましたね?ぼくらがまだ幼いころに、それはまだ、におっていた筈なんです。
そういえば、とぼくは子どものころの記憶をたぐり寄せた。
この海岸の先に、カーバイト工場があってね。鼻をつく凄まじい臭いがしたよ。クルマで近くを通るときも、窓を閉めきっていたっけ 。その自家用車にしたって、車内が妙に油くさくて、排気ガスを嗅ぐたび、すぐさま酔っていたな。
ありとあらゆるものに、臭いはつきものでしたね。消臭された現在では、考えられないことだけど。
だけど、人って毎日まいにち、膨大な量の記憶を片っ端から忘れてしまうだろ?今ぼくらが乗っているのは、忘却という名の急行列車なのかもしれない。あっ、今しがた筑豊に走っていたオレンジ色の旧い車両が、例外なく煤けていたことを、にわかに思いだしたぞ。
ディーゼルカーの排気ガス、黒煙が半端ないですからねえ。
そういう詰まらない、どうでもいいことばかり覚えているぼくらは、何か事あるごとに取りだしてみるんだよな。記憶の底の澱みから、いちいち引っぱり出してきては。
……でも、覚えていないほうが、幸せな場合だってあるんだ。
過去の瑣末な出来事を、きれいさっぱり忘れていたら、当面の問題に、ちゃんと向きあえる。過去の思い出に、いつまでも浸っていたって、埒が明かないし、先に進めない。
ぼくは記憶の発掘人だから、記したことは細部まで覚えているけど、近ごろじゃ井戸の水は涸れはて、もはや空井戸の状態なんだ。どこかに水脈があるはずだって、あちこち掘りくり返しているけど、チョコっとしか湧いてこない、侘しいもんだ。
忘れてしまおうか。そのほうが賢明だ。覚えてないってことは、健全なる証拠だよ。
ぜんぶ消去しちまったら、ラクになれんのかなあ?
徒労を抱えこみながら、ぼくたちは生きていく。
ギアが抜けようと、オイルが切れようと。
海の仙人の、消失する海路の果てまで。