鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

めし

 
【お断り】当記事は、成瀬巳喜男監督の映画『めし』とは、まったく関係ありません。予めご了承ください。
 
 

 日本の亭主ときたら、結婚したとたん女房に「飯」と「風呂」しか口にしなくなると、昔は云われていた。今じゃライフスタイルも変わり、専業主婦も減ったので、そのような亭主関白は、流行らなくなった。日本人の優秀な知性は女性ばかりで、賢明な日本の女性は、配偶者の男性をペット化しているとの見方があるのだが、ぼくも概ね賛成である。しかしそういった外野からの意見に、傾聴すべき点は多かれど、どこか表面的な理解であるような気もする。


 パートナーはフルタイムで働いていたので、家業は専ら家に居ることの多い、ぼくの役割だった。最初のころは、包丁も満足に扱えなかったけれども、次第に慣れて、だしのとり方も覚え、一通りの料理はこなせるようになった。もっとも食事の用意がまめでも、掃除や洗濯は丸出ダメ夫で、扱いが雑なことこの上なく、大事な服を悉く台なしにし、家具や畳は傷む一方だった。料理にしたって、作るは得意だが、食器洗いが不得手で、皿や茶碗をよく割った。一事が万事、粗っぽいのである。その粗忽さは、未だに治らない。
 
 兎にも角にも、育ちざかりの子どもがいたので、オトーサンは朝な夕なに飯を炊き、味噌汁をこしらえた。貧しいながらも、子がすくすくと育ったのは、三度三度を仕度したからだと、憚ることなく自負している。おりしもコイズミ政権下、新自由主義の荒波は、貧乏世帯を容赦なく襲ったが、極端なデフレーションで、食材だけは安かった。ダイオキシン騒動で、一把十円のほうれん草や、狂牛病騒ぎで、100g百円のアメリカ産牛肉などを、迷わず買って、ちゃちゃっと炒めた。
 
 そう、なにかといえば、炒めもので済ませていた。野菜や調味料の、ヴァリエーションはつけたものの、基本的には肉野菜炒め。日曜日の昼にはソース焼きそば。よくぞ文句も云わずに(内心では辟易していたかもしれないが)、黙々と食べていたものだ。わが子ながら、できた子だったと感心する。
 カレー?言うまでもない。三日に一度の頻度で、カレーライスを作っていた。
 
 そりゃあたまには外食をしたし、出来合いで済ますこともあったが、それよりも子どもは、ぼくの料理を好んだ。いつだったか忙しさに感けて、ホカ弁が続いた。二日目まではガマンしていたが、三日目に、今日も弁当でいい?と訊いたらついに、
「オ〇ジンいやだ、オリ〇ンいやだ」と泣いて訴えた。こいつは堪えた。
 もっとも成長するにつれ、次第に生意気になってきて、料理を作る刻になると決まって、今日はなあに?と訊いてくるようになった。
 八宝菜だ、青椒肉絲だ、豚の生姜焼きだと、瀬戸内晴美が描くところの伊藤野枝みたいに、大雑把な献立を提案すると、またぁ?と不満をもらすので、或る日ぼくは、何が食べたい?とあべこべに尋ねてみた。
「んー美味しいもの!」
 小癪な、と唸った。それは伊丹十三に影響を受けたぼくが、パートナーに甘えるときの口ぐせだ。受け売りしやがって。ぼくはだから、こう返した。
「んーじゃあ、なんか作るわ」
「なんか、ってどんなの?」
「名前はまだ、ない」
「そんなの、ヤだーっ」
 あん時ぁ流石に地団駄踏んで怒ったね。
 たぶん皿うどんかなんかを作ったはずなんだけど。
 子どもが中学に上がるまでは、そんな調子だった。三人は貧しいけれども、愉快に過ごしていた。タワーマンションが林立する街の、ビル風が吹きすさぶ谷間の、いまにも倒れそうな、オンボロのアパートで。
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 『めし』1951年 主演:原節子上原謙

 
 今夜、豚肉と赤ナスとスナップエンドウとシメジをさっと炒め、甘辛く味つけして食べたけれども、あのころと同じ味にはどうしてもならない。食材が違うのか、調味料が微妙に違うからか。いやそうじゃない。ぼくの舌が、口蓋が、次第に旨さを感じとれなくなってきているのだ。
 父親は前にも書いたけど、ほとんど口から食べることができない。母親はお椀に半分くらいよそえば、もうじゅうぶんだという。関東に暮らす二人は、日々なにを食べているのか。じゅうぶんに足りているとは言いがたいだろう。こんな余計にこしらえちまって、いったいどうするつもりなんだか。ぼくは作りすぎた炒めものをラップに包む。明日の朝またレンジでチンして食べよう。
 一人で食べる炒めものがこんなに寂びしいものだとは。一人もさもさと嚙みしめるめしがこんなに不味いものだとは。
 
 
 
 
 と、ここまで書いて投稿し、翌朝になって読み返してみると、冒頭の問題提起を回収しないまま、情緒に耽っているばかりだと感じた。
 日本がふたたび再生するには、中高年男性が、社会の中枢から一斉に退場するしか道はないという意見にも賛成です。もし自分の子どもの世代から、あるいはより下の世代から、オッさんどいてくれと云われたら、ぼくは躊躇なく、どうぞと道を譲るだろう。
 言っとくが、それは自分を卑下したからではない。
 たとい空からミサイルが降ってこようとも、世間が同調せよと圧力をかけてこようとも、自分の裡に育てた「お花畑」は、それくらいで毀されやしない。
 悪いが、頑丈に出来ている。
 邪魔なら避けて通るがいい。だけどもきみが障壁だと感じているものは、もしかしたらこれからの社会を構成する、レンガの一枚なのかもしれない。
 更地にしたければ、ぼくをスクラップすればいい。ただ、きみの行く手にハイウェイは敷かれていないし、道標は示されていない。それらを用意しなかった・できなかった世代に、悪罵を吐き連ねながら、切り拓いていくがいい、未踏の、果てしない荒野を。