鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

一丁噛みを避けた理由は……

 

話題の五人組について多くを述べるつもりはない。が、一丁噛みを避けてきた理由を少しばかり述べてみたい。

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初っ端に唐突だが、思い出話をひとつ。

八十年代はじめのころだ。ぼくがともだちと原宿のカフェ(笑)で談笑していたら、数人の男ばかりの団体が店内に入ってきた。

その中央にいた人物に見覚えがあったから、ぼくは「誰だったっけ?」と首を傾げながら見つめていた。すると、

「莫迦。じろじろ見んなよオマエ、ありゃユーヤさんだ!」

ともだちは、あわてて首をひっこめる格好をして、小声で耳うちした。

「ユーヤさんの隣にいるデカい図体の男がリキヤさんだよ。あからさまな視線を送ってっと、やばいぜ実際」

ぼくは、それほど不躾な視線を送り続けていたのだろうか?いたのだろうな。そういう部分にはまったく無頓着だったから。

ともあれ、ぼくとともだちはそそくさと店外に出た。ふえーおっかなかったぁと一息ついたかれは後にプロのギタリストになったのだが、その十数年後、浅草ロックフェスティバルに出演していた。

 

さて、このエピソードで何を言いたいかというと。その時とそれ以降で、ぼくの内田裕也像がガラリと変わってしまったことである。それまでの、時代おくれのロックンローラーという認識に、軍団を率いて勢力を誇示するおっかない人だという新たな側面が加わった。それを裏づけるような芸能関係の情報にはコト欠かなかった。もちろん内田裕也さんの立場からすれば、天下の渡辺プロに叛旗をひるがえして独立したのだから、殊更突っ張る必要があったのだろうし、さらに言えば、ほんとうにユーヤさんが怖い人なのかどうかは、実際に接することがないかぎり知る由もない。ただ、そういう評価が次第に定着していったのである、安岡力也、ジョー山中、白竜という強面を束ねるユーヤさんはおっかないぞ、と。

そして、怖いねと言いながらも、ぼくたちプロ未満のバンドマンは、それをおもしろがっていたのである。

 

最近ぼくはテレビをほとんど観ない。だから例の五人組が、どれくらいの人気を継続しているのかは、なかなか実感できない。以前ほど話題にのぼらなくなったかなぁという程度の認識だった。だから今回の大騒ぎには基本的に乗れない。(熊本在住の作家)梶尾真治さんと同じく、そんなことよりデヴィッド・ボウイ、だったから。

ただ、数年前に観ていた印象からするとだけど、トークショーで、事務所の内情をチラリチラリと開陳しながら「くすぐる」のは、ナカイくんの得意分野じゃなかったっけ?

あるいは、デビュー前のオーディションで落選しそうになっていたクサナギくんを「ユーたち分かってないね、あの子いまは目立たないけど、じきに光るよ」と拾いあげた会長の慧眼だとか。

テレビを観ていると、そういうエピソードを否が応でも学習させられる。興味がなくたっていつの間にか覚えてしまう。件の事務所にかんする膨大な逸話の集積もまた、かれらの人気を保つ一要素ではなかったか。

そして、少なくともテレビを視聴する側の大半は、それも「込み」として楽しんでいたんじゃないか。ぼくは事務所とタレントの確執を娯楽として消費していた人々が、今回の脱退・解散危機・回避・謝罪・収束の一連を社会的な問題として挙って取りざたしている状況に違和感を覚える。確かに現在の世相の歪みを映しだす鏡のような一件ではあるけれども、ぼく自身はしかつめらしい面して、旧態依然の芸能界、その労使関係を糾す!という気持ちにはならないのだ。

だってみんな、今様の「お稚児さん」の成長を嬉々として眺めていたじゃないの。

芸能事務所は「芸者の置場」みたいなもんだって、昔から知っていたくせして。

何をいまさら、って感が拭えないのね。

さまざまな「タブー」こそが娯楽のスパイスたり得た側面に、みんな目を瞑っているような気がするのさ。

 

両親にチャンネル権があるために、ぼくはテレビの引力圏から逃れられた(代わりにインターネットがその座を占めている)。だけどテレビでの出来事は相変わらず世間一般では話題の中心を占める。ぼくだって職場なりなんなりに赴けば、んー何とかならんものですかねー穏便な道で、などと適当に相槌を打っている。間違っても芸能界の闇だの報じようとしないマスコミの隠ぺい体質だのと、ネット内のジャーゴンをひけらかしたりはしない。そのダブルスタンダードはもちろん政治についての話にも通じるのではあるが、世間話から導くにはたいへん険しい道を辿らなければならない。端的に、問題点をビシッと指し示す必要がある。迂遠な説明は通用しないのだ。その理路が構築されないかぎりは、うかつに芸能界のゴシップに社会問題を絡めようとは思わない。ジャニ好きな女性陣に、事務所の悪らつを語ったところで、ひんしゅく買うのがオチだろうし。最近ぼくは、現実界で口にできないことを、ネット内で声高に述べようとは思わなくなった。

 

ぼく自身は最初に挙げたエピソードでお分かりの通り、わりと下世話な人間である。

不動産屋の幟をみて、あー釈由美子から(同じタイプの)桐谷美玲に交代したのは経営者の趣味なんだろうな、と内心に思うくらいには。

芸能の話題をしない理由は、たんに今の事情を知らないからであって、もし日常的に観ていたら、間違いなく口を挟んだだろう。

たとえば何年か前、バラエティ番組で、平成ノブシコブシというお笑いコンビの吉村崇という方が、レミオロメンの「粉雪」を熱唱している場面を観て以来、ぼくは「粉雪」がかかっていると即座にかれの必死な形相(笑)を思いだしてしまうのだが、それほどテレビのインパクトは強烈なものだ。

ぼくはそういう雑多な情報に惑わされたくないから観るのを避けている。けれども、テレビの伝播力は生半可なものではないと、いまさらながら痛感している。

方々で「世界に一つだけの花」がかかっているのを耳にするにつれ。

ぼくが言及できるのは、かれら五人組の歌唱力の低さくらいか。キムタクにしても、歌が巧いとはお世辞にも言いがたい(アラシのオオノくんやカンジャニのスバルくんなど、他のグループにはちゃんと歌えるメンバーがいるのに。トキオのナガセくんなんか今や立派なヴォーカリストだというのに)。

だけどね、

ぼくらが、いやぼくが、かれらみたいな局面に立たされたと仮定してみよう。

果たしてあんなふうに振る舞えるだろうか?

否。

それこそ、おっかなくって逃げだしちまうだろうな。

立派な態度だとは思わないし、釈明の内容が正しいとも思わない、が。

ぼくは、カトリくんの「怒られ侍」のように修羅場を踏んでいない。

衆人の目にさらされ続け、与えられた使命を曲がりなりにも全うしてきた五人組のこれまでを思うと、軽々に批判はできない、自分の半生に照らし合わせてみると。

 

芸能界は、容姿の美しい者たちが、その麗しさを競いあう世界である。

件の事務所は、日本中の美少年を独占しているという(ぼくはそうは思わないけれども)。

自分を美しいと、他人より優れていると自惚れている若者が、頂点を目指そうと志向するかぎり、かれかの女らを食いものにする大人どもは、これからも群がり続けるだろう。

無情なようだが、それが世の倣いだ。

その常識を、その界隈では当たり前だと思われている習慣を打破するにはどうすればよいか。

芸能界だけではない。

政界にも財界にも、医学界にも文学界にも、公務員から農業従事者にいたるまで、あらゆる種類の社会には、世襲だの派閥だの談合だの口約束だの付け届けだの、それぞれの「ムラ」の不条理きわまりない常識がこびりついているはずだ。

自分の属する「界」が、旧態依然の慣習に覆われておらず、かつ自分がその毒に囚われていないと胸を張って言える者がどれだけいるのだろうか。

なるほど芸能界ほど、自分から遠く隔たった世界はなかろうし、それを論うかぎりには罪悪を感じずに済むのかもしれない。

が、

芸能のみをスケープゴートとする前に、自分の属する領域での悪しき慣習を、まずは変えていくべきではないだろうか。

眼前の問題から目を逸らさずに。

 

 

自分が何故、今回の一連に一丁噛みできなかったのかを、あれこれ考え、つらつら書き連ねてみた。

ぼく自身、件の事務所ではないが、顔だちのきれいな若者に楽曲を提供し、歌唱を指導した経験があるから、その視点の角度から斬りこむこともできるけど、その話はいずれ、べつの記事として起こそうと思う。

もう一度いっておくけど、ぼくは芸能に関心がないわけではない。人並に五欲があるのと同様に、下世話な話題も気にはなる。

所属した事務所とのゴタゴタが続いた能年玲奈の行く末が心配である程度には。

 

 

【追記】

 カナリヤたちの謝罪中継:日経ビジネスオンライン

小田嶋隆氏による鋭い論評。今回の一件がどれほど酷いことかを、順を追って丁寧に説明している(しかも、都合のいいことに「あまちゃん」のイラストつきだ)。

もちろん、ぼくが今回書いた(歯切れの悪い)記事は、それがいかに人権を蹂躙した酷いありようであるかをさかさまに評価してみたものだ。が、その一方で、金魚鉢を眺める私たち一般大衆もまた当事者であるという現状を認識すべきではないかと考えたのである。

さらにまた、この小田嶋氏の稿を受けての、松谷創一郎氏の連続ツイートを今朝がた見かけた。少し長いけど引用してみる。

①数日前の記事で、小田嶋隆さんが噛み付いてきた人について触れているのだけども、これにはオイラも気になった。なんだろうか、と。

②芸能系の記事をかいていると、物知り顔でいろいろ入ってくる人は多い。まぁそれは仕方ないところもある。それくらいポピュラーな話題だからこそ、エンタメだからだ。なんだけれども、物知り顔の人ほど状況追認することが当然だという態度だったりする。かと言って、業界人でもないので利害関係もない。

③つまりいわゆる「ワナビー」だからこそ状況追認的であるのだが、なんで外部の存在であるという優位性を簡単に捨てるのだろうか、とも思う。利害関係ないからこそ言い放てることもあるし。

④ギョーカイ人的「お約束」ノリに受け手も参加するテレビ空間はかれこれ30年の歴史を持つが、インターネットという受け手たちの空間を持っても、まだそこでギョーカイ人の身振りをする。なんだそのズレた感覚は、と思う。

⑤利害関係というのは、自分が損をするということだけじゃないんだ。自分と付き合いのあるひとに迷惑をかけるかもしれないということでもある。だからこそ、業界人が状況追認的になってしまうことはある。でも利害関係ない外部がそんなことに拘らなくていいのだよ。

⑥なんというか、状況追認をただしている人からうっすら感じとれるのは、状況の変化をそもそも期待してない感じなんだよなぁ。それは諦念とかではなく、かと言って保守主義者のイデオロギーでもなく、なんとなく状況追認してるだけ。あれが薄気味悪いんだよ。

⑦たとえば_____が不倫でCM10社降ろされた、と。それを聞いて「まぁギョーカイ的には仕方ないよね、イメージの世界だから」って、いやーそこまでわかってるならお前の中でイメージ悪くなってねぇじゃん。なんで簡単に状況追認すんの?って思う。不倫で傷ついたとかならまだわかるけど。

⑧「既存マスメディアvsインターネット」みたいな構図は好きじゃないけども、いまだにネットで80年代的ギョーカイコミュニケーションしてるひとみると、しかも若かったりすると、すごい残念な気持ちになるんだよね。なんでそんなに簡単に武器すてるのよ?って思う。すごいカルスタ臭いけど。

松谷氏の論だてからすれば、今回の記事を書くぼくなんか「80年代的ギョーカイコミュニケーションしている典型的ワナビー(なりたがり)」ってことになるのだろうけど、そのギョーカイ人の身振りをしたがるズレた感覚は、1980年代で絶滅することなく、インターネットの普及が進むにつれ、むしろ一般化してきたとみるのが妥当ではないのか(松谷氏のツイート話法自体に、そのニオイが染みついているともいえるし)。なんだかんだ言って、みんなキラキラした芸能界が好きで憧れているんだよ。で、送り手側はその心理をたくみに操ろうとする。「そのやり方があまりにもあざといんじゃないか、利害関係のない一般人は状況追認せずに外側からストレートに批判すべきだろう」というのが松谷氏の論旨であろうかと思うが、しかしその外野であるべき一般人が、芸能界のシステム丸ごとをエンターテインメントとして享受している構図があるってことくらい、流行と社会問題についてを執筆しているライター氏なら、ぼくみたいなシロウトよりも余程理解していると思うんだが。

でも、この連ツイをみて、自分の一丁噛みしたくなかった理由が、ようやく解けた気がする。つまり、「芸能界とは利害関係のないぼくが、業界人的な身振りをして語ることが、それこそカルスタ(お手軽)で、自分でもチョーかっこ悪いと感じていた」からなんだって。

しまった、またイナガキくんを文内に紛れこまし損ねた、無念。



最後に。1月18日の日付に見かけた秀逸なツイート。

いま、恐ろしいのはSMAPにしても、能年玲奈ちゃんにしても、「事務所に逆らったら干されるのは当然」なんて若い子が平気で言ってる。世の中で罰を受ける人は「悪いことをしたひと」で「えらい人に逆らった人」じゃない。現実はそうじゃなくても肯定してはいけない。