鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

牽強付会かもしれないが……

 

 年末年始は、三つの音楽を主に聴いていた。ジャック・ブレルの1966年オランピア劇場におけるリサイタルの映像、カザルストリオによるメンデルスゾーンピアノ三重奏曲、そしてクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの二枚組ベスト盤。この三者に共通する要素はほとんどない。ただ、どれも今の自分にはかけがえのない音楽である。われながら節操のない雑食性であるなと呆れるが、これらに共通する要素を無理やり導き出して、一つの記事を拵えるのは可能ではないかと考えをめぐらしていた。

 タイトルも用意していた。『ブレル・カザルス・フォガティ』(フォガティとはC.C.Rを率いたジョン・フォガティを指す)と。小沼純一氏の著作『バカラック、ルグラン、ジョピン 愛すべき音楽家たちの贈り物』を、或いはダグラス・ホフスタッターの『ゲーテル、エッシャー、バッハ』を念頭において。異なる三者についてをイワシのフィルターにかけて繋げようとの試みは、しかし中途で諦めた。それを論ずるには、それぞれの音楽や歴史的背景をきちんと押さえておく必要がある。付け焼刃で分かったふうを書けるような対象ではないのだ。とりわけジャック・ブレルにかんして、ぼくがその衝撃的なフィルムを観た映写会(於:1983年の草月会館)を、催しとして評価しつつも、主催者のブレル観の浅はかさを厳しく糺すブログを読んでしまい、ぼくの軽薄な感想がジャック・ブレルの上っ面をなぞっただけの駄文に陥る可能性は大いにあり得ると考えた。それは他の二者、パブロ・カザルスとジョン・フォガティについても同様である。要は、知ったことを気軽にぬかすのが、急に怖ろしくなったのだ。

たとえばカザルストリオの奏でるメンデルスゾーンの三重奏曲について、ぼくは以前に書いた『コンセール』という小説で、こんなふうに表現した。

成功の階を上っている青年が、12歳の少女に向かって、三重奏曲をカジュアルに解説している。

「ほら聴いてごらんよ。きりもみ降下よろしく一点を穿つヴァイオリンとチェロのユニゾンを。第1楽章だけじゃないぜ、属七(ドミナント7th)の響きが支配する第2楽章も、天使も微笑むリリカルなピアノが転がる第3楽章も、エンヤートットのリズムでラストまで突っ走る第4楽章も、どこをとってもスリリングで、デンジャラスなキラーチューンさ。これがチェンバー・ミュージックの魅力ってワケ」

それを傍で聞く娘の父親は、でたらめな解釈だ、と苦々しくつぶやく。その父親は人文系の教授で、政府による国公立大学の学部削減のあおりをうけて明日にも大学を追われるかもしれない、という設定だった。

10年以上前に書いた小説の空想が、いま現実のものになりつつある。そういった事柄を随所に盛りこめば、それなりに読み応えのある記事になるのではないかと、ぼくはたくらんだのだ。

 だから今は、勉めの時であるとした。自分がいかにものを知らない、直感だけで若しくは筆の勢いだけで記事を書いているかを省みてのことである。調べる時間が足りないというのは言いわけに過ぎない。今年は、もう少し慎重に、ちゃんと資料に当たった上で、これだけは確かに言える、書いておかねばならないという内容のみにとどめようと思った矢先のことだった。

 デヴィッド・ボウイの訃報が、ぼくの用心深い構えを吹っ飛ばしてしまった。

 

 

 前掲した記事『デヴィッド・ボウイ大島弓子』は、とんでもないアクセス数を記録している。ぼくが「緊急投稿」と告知したことについて訝しがる意見もみたが、たいていは好意的に読まれたようだ。余計なメッセージを一切挟まなかったことが、広範囲に拡散された最大の理由だろう。ぼくはただ、思いを共有したかっただけなのだ。そのことは翌日のツイッターにも記しておいた。

たくさんの方が、昨晩書いたブログに訪問している。ぼくはただ、知らせておかなきゃ、の一心でした。その時代の記憶を共有し、記録として確かめてもらえたなら、それでじゅうぶんだ。あとは静かに思いを馳せてようと思います。 

 この思いにいつわりはない。だが、デヴィッド・ボウイはぼくに、しんみりする余裕を与えなかった。思い出に浸ることを許してくれなかった。ユーチューブで全曲が無料配信されているが、かれの最新作『ブラックスター』を聴いて、ぼくは居ても立ってもいられなくなった。これをタダで済ますわけにはいかない。さらっと聞き流して、うむ遺作に相応しい作品でしたと安直な感想を述べるには、あまりにも深遠な内容だった。早速ぼくは近くのショッピングモールに赴いてCDを求めたが、品切れだった。そこで市内の中心街である三年坂に面した大型書店に足を運んだ。その店になかったら熊本での入手はお手上げだ。さいわい何枚かCDは残っていたので、迷わず購入し、それからクルマの中で、自室で、何度もくり返し聴いた。

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 冒頭の「ブラックスター」を聴いて、ぼくはこう感じた。

《クイーンのラストアルバム『イニュエンドウ』の冒頭タイトル曲< Queen - Innuendo - YouTube >に似ているな》

 素朴な感想である。「ブラックスター」も「イニュエンドウ」もリディア旋法を用いている。大きな尺で、三部構成であるところまで共通している。スパニッシュ・キーで書かれているということに感応したぼくは、思ったままをツイッターに投稿した。

 しかし、これはあくまでも私的な感想であり、断言するには早計ではないかとも考えた。今のぼくは、良くも悪くも主観に支配されている。冷静ではない。直感は離れた事象を素早く結びつけはするが、それがスタンダードな意見になってはならない。とくに没後まもない時期であるなら、なおさら断定は避けなければ……

 ぼくは<牽強付会のおそれがあるので、これくらいに止めたい>と追記した。しかしそのあとも、4曲目の「スー」について、14年版の(ギル・エヴァンスを彷彿とさせるマリア・シュナイダーのペンによる)木管アンサンブルの妖しい響きが『★』のハードエッジなアレンジよりも魅力的だとの感想を寄せた。こういう他愛ない感想ならかまわないだろう、白紙で聴く方々に先入観を与えないようにしなければとの自己抑制が、あい変らず働き続けてはいたけれども。

《だけど、三枚組ベスト盤『ナッシング・ハズ・チェンジド』は(ビートルズで有名な英EMIの名門レーベルである)パーロフォンから出ているんだよな。これまたクイーンの『イニュエンドウ』を連想させるよなあ……》

 と、ぼくの根拠なき空想は止まるところを知らない。

 しかし、こういうことは、やはり書かずにはおれない。

 それは雄大なスケールで『★』の末尾を飾る、「アイ・キャント・ギヴ・エブリシング・アウェイ」の前奏に、名盤『ロウ』のA面を締めくくるインストルメンタル、「ニューキャリア・イン・ア・ニュータウン」のブルースハープの引用を発見し、そういった刻印がアルバムのいたるところに散りばめられていることにも気づくが、そういった「指摘」が果たして、これからデヴィッド・ボウイを聴いてみようかと考える方々への雑音、つまり戸惑いの材料になるのだろうか? そうは思わない。そういった軽薄な意見もまた、ポピュラー音楽の形成と発展に一役買っていることは間違いないと思ったからである。

(先の『デヴィッド・ボウイ大島弓子』など、その最たるものだろう。)

 今朝がた(1/13)ぼくは、(『★』の日本盤ライナーノーツを手がけた音楽評論家である)小野島大氏の秀逸な発言をいくつかリツイートしたあと、こんなツイートをつけ加えた。

同意。ただしその一方で、デヴィッド・ボウイは過去に自分の作ってきたイメージの断片や手がかりとなるフレーズを再利用して違った角度から光を当てている。真っ新から拵えたというよりボウイの全キャリアをひとつの壮大な連作として見渡すことも出来るのではないか。

『ブラックスター』は最終章だ。 

 初期の代表作「スペイス・オディティ」の断片が「アッシュズ・トゥ・アシュズ」のライトモチーフとなり、さらには「ラヴィング・ジ・エイリアン」や「ラヴ・イズ・ロスト」へ、そして「ブラックスター」の中間部へ援用されている「事実」を、東洋の片田舎に住む一雑食音楽愛好家が頓珍漢な自説を言及することで、デヴィッド・ボウイの業績を貶める結果になるとは、とても思えないのである。

 そのキャリアを通じて、デヴィッド・ボウイには失敗作としかいいようのないアルバムもあったし、穏当ではない発言やロックキャピタリストとしての鼻持ちならない傾向もあった。むろやねい(NeiMuroya)さんの言を借りれば、<デヴィッド・ボウイはロックのくだらないところも体現していた>のである。けれども、そのくだらなさを含めての、綜合的な表現者としてのありようが、まさしく「20世紀を代表するロックスター」を体現していたようにも思うのだ。

 だからぼくは、牽強付会のおそれをものともせず、即席で生煮えの感情を、これからも放出しようと思う。それはかれが「お星さまになっちゃった」というファンタジーを演じきったからではなく、最期まで見事に「かぶききった」からでもない。

 デヴィッド・ボウイの表現活動の核には常に「死」があった。自己を凝視し、美化せず、怖れの正体を暴こうとした。

 からである。それゆえに、

 私はきわめてシリアスに『★』を重要な作品だと評価する。感傷は一切ぬきで。

 

 

 

 

 

 

【蛇足】

 最後にもうひとつだけ。ジョン・フォガティとC.C.Rについてを書こうと思ったときに、ぼくはこんな一行を用意していた。

還暦を過ぎたら、ぼくはバンドを組みたい。C.C.Rみたいにシンプルな、ある程度の腕前があれば誰でも参加が可能な、窓口の広い音楽を演奏したい。バンドには人間関係の構築が必要である。プロ/アマを問わず、エゴのぶつかり合いでバンドはダメになる。そうならないよう、ぼくは一歩退いた位置に立ちたい。弟ジョンの活躍を支えた兄トムのように、ひたすらリズムストローク、地道にコードを刻みたい。そいつがおれの夢であり、希望だよ。

 たぶんボウイがティン・マシーンを組んだのは、そういったココロじゃないかな? ずっと独りで突っ走っていたから、一度はバンドの一員に収まってみたかったんだよ。Tin Machine - Live at the Docks Hamburg October 24 1991 - YouTube

 

 

 

 

 

【音源】 

 

David Bowie - Sue (Or In A Season Of Crime) - YouTube

David Bowie - The Drowned Girl - YouTube

David Bowie - Station to Station (Live 1978) - YouTube

David Bowie ft. Mike Garson - My Death (Live) - YouTube

 

Jacques Brel - Les adieux à l'Olympia (1966) - YouTube

Jacques Brel Le Cheval Adieux Olympia 1966 - 16 titres - YouTube

Jacques Brel - Amsterdam - YouTube

Jacques Brel - La Mort (+ paroles) - YouTube

 

Cortot, Casals, Thibaud Trio - Mendelssohn: Piano Trio in d mvt 1 - YouTube

Cortot, Casals, Thibaud Trio - Mendelssohn: Piano Trio in d mvt 2 - YouTube

Cortot, Casals, Thibaud Trio - Mendelssohn: Piano Trio in d mvt 3 - YouTube

Cortot, Casals, Thibaud Trio - Mendelssohn: Piano Trio in d mvt 4 - YouTube

 

Creedence Clearwater Revival - Lookin' Out My Back Door - YouTube

Creedence Clearwater Revival - "Born On The Bayou" - YouTube

Creedence Clearwater Revival - "Fortunate Son" - YouTube

John Fogerty - Centerfield - YouTube

 

 

 

 

 

 

 【カジュアルな感想例】

①いや、『★』はフツーにカッコいいです。2曲目「ティズ・ア・ピティ・シー・ワズ・ア・ホア」なんかとくに。サキソフォンのアーバンな感じ。

 デヴィッド・ボウイはサックスを吹けるからね。あしらい方を心得ているんだ。

②できればやっぱり、切れぎれではなく、アルバム通しで聴いたほうがいい。たとえば6曲目のバラード「ダラー・デイズ」から、7曲目の「アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ」に移りかわる瞬間は、ムソルグスキー展覧会の絵』の「バーバ・ヤーガの小屋」から「キエフの大門」への移行を思わせる、息を呑む傾れこみである。