鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『離してはいけない』(再掲)


 一枚のアルバムをご紹介しよう。
離してはいけない』。1996年9月に発表した、岩下啓亮(ぼく)唯一の自主制作盤(CD)である。
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【写真①】
 1996年4月から制作をはじめ、約3ヶ月かかって完成した。作詞・作曲・編曲・演奏・歌・録音・編集・表紙イラストのすべては岩下自身による。使用した楽器はカーツウェルK1200、ローランドJD800、ヤマハDX7ギブソンSG / 72年、トーカイのプレシジョンベースモデル、その他パーカッション類いくつか。もちろんぜんぶ手弾きで自動演奏は一切ナシ。機材は簡素なもので、TEAC234 / 4トラックカセットレコーダーに収めたものをSONYのDATレコーダーに落とした。また、パートナーが録音の最中に適宜アドヴァイスしてくれたので「道案内」とクレジットを記した。当時はCDRもパソコンもなかったので、マスタリングと印刷は代々木のコジマ録音に頼んだ。
 500枚、ダンボール5箱を発注した。2000円の価格をつけたが、純粋に「売れた」のはせいぜい200枚程度。あとは方々に配りまくった。いま、自分の部屋に1箱と5枚、未開封のディスクが残っているから、395枚は世間に出回ったという計算になる。
 全7曲。30分10秒。どんな内容かは、『ミュージックマガジン1997年1月号』の「自主制作盤」の欄(266~267ページ)に行川和彦氏が手際よく紹介してくれているので、そのまま書き写してみる。スヌープ・ドギー・ドッグのイラストが表紙の号だった。

離してはいけない(レーベル、番号なし)【写真①】は、ピアノの弾き語り主体の7曲入りCD。エルトン・ジョントッド・ラングレンピート・タウンゼンドらの静かな曲に通じるなめらかな流れ、にじみ出るポップセンス、切なくなる歌声と旋律など、心に残るものがある。


 が、もちろんこれは好意的な方で、大抵は厳しい評価を受けた。歌が貧弱だとか、編曲がおとなしすぎるだとか、インパクトに欠けるだとか、凝りすぎだとか、表のイラストが格好つけすぎ(?)だとか、まあ散々だった。とりわけ多かったのは歌詞への注文で、抽象的でわかりにくいだの、人称が定まっていないだの、文学的すぎるだの(これは「紹介屋」さんの評ね)、指摘されても自分でどこが悪いのかが、さっぱりわからなかった。もちろん今では頷ける意見ばかりだけれども。
「こんなものを作りたいために会社を辞めたのですか?」と元同僚に言われたときにはさすがにめげた。だけど、これが世に問うってことなんだ、趣味道楽とは違うんだからと、批判を甘んじて受けた。
 時が経つにつれ、ぼくはこのアルバムを聴きかえさなくなった。どんなコードだったか、どう弾けばいいのかは、身体が覚えていたし、自分自身、あまり出来映えに満足していなかったので。
 そして、これを作ってから10年間、音楽を制作し続け、10年後にきっぱりと辞めた。音楽をナリワイとするのはどうやら不可能だと、遅まきながら悟ったのである。そのときぼくはすでに40歳を過ぎていた。夢を見ている時間が、他人よりも長すぎたのだ。


 ぼくは、中学2年のころからだから、30年近く音楽を創り続けた。作曲した数は500を下るまい。その大半はガラクタだけど、中には「まあ、これなら人様に聴いてもらってもかまわないかな」と思う楽曲が、20曲程度はある。そして、『離してはいけない』に収まった7曲は、自分にとってはやはり特別な一枚だし、これが代表作だよね? と問われたら、そうですねと今では素直に肯ける。
 最後に行なったライブは、地元の熊本で、出身高校の同窓会的なイベントに参加したときだった。そのときの模様はヴィデオに収められ、主催者はそれをインターネットにアップする予定だったようだが、ぼくは頑なに拒んだ。自分が切り売りされるようで嫌だったのだ。今だったら、どうぞどうぞ遠慮なくと言えるのだが、当時のぼくはプライドが高かった。おれの音楽をタダでやり取りするなという了見の狭さ、さもしい根性があった。
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40歳。歌詞を見ながらでないと歌えないのがぼくの致命的な欠点。

 そのときぼくは、30分の持ち時間で6曲のうち『離してはいけない』の中から3曲を選んだ。1曲めの「Z橋で待つ」 、4曲めの「運命のままに」、そしてラストの「抱擁」を歌った。出来は悪くなかったと思う。音源があるなら聴いてみたいものだけど、今さら聴かせてほしいという資格は、ぼくにはない。
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 おかしなことがあるものだ。
 誰かが知らせてくれたのだ。「こないだ田崎のB○○K○FFにいったときに、イワシタのCDが並んでいたぜ」と。
 情報を聞いて、ぼくはいたたまれなくなった。それが本当ならば早く救出してやりたかった。休日になって、複雑な気持ちを抱えながらクマモトの西の方へ向かった。恐るおそる棚の「イ」を覗いてみると、ああ確かにあった、ぼくの唯一のCDの、395分の1が。
 このまま置かれていたって、誰も買いやしないだろう、無名の男の歌った、自主制作盤なんて。
 ぼくは急いでレジカウンターに持っていった。250円ですと店員は告げた。盤面は、きれいなものだった。新品同様といってもいいくらいに。
《売るなよな……》
 とぼくは独りごちた。売るくらいなら、捨ててほしかった。自分だって、何年も聴いてなくて、埃かぶらせてるくせに。
 クルマをしばらく走らせたのち、落ち着いたところでCDをかけてみた。久しぶりに聴く自分の歌声だった。なんだそれほど悪くないじゃん、とぼくはつぶやいた。
《リバーブかかりすぎで風呂場みたいだ、そこはもっと溜めて歌えよな、あーっパンチインした箇所が丸わかりだぜ》
 といちいちツッコミ入れながら、自宅へ戻るまでに2回も聴いた。
 ぼくは手元に帰ってきた106枚目のCDを書棚に収めながら、「おかえり」と声をかけてみた。センチなようだけど、それは実感だった。ぼくはぼくの歌を、1996年、確かに歌っていた。これは、その記録だから。

 音楽を、裏切れない。いつかまた、あらゆる責任から免れたら、ぼくはまた音楽を再開するだろう。往年のように高い声域は出せないし、腕はなまっているだろうが、この喉が、指が、身体が、どんなふうに歌えばいいか、どのように弾けばいいのかを記憶している。だからそのときまで、音楽を手離すわけにはいかない。
 そう、『離してはいけない』んだ。

 


 【追記】
※ だけど1ヶ月後、またもB⚪︎⚪︎K⚪︎FF北部店にて救出してしまった(苦笑)。