鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

感想にならない返信

 

 なにもないところから新しいことばを紡ぎだすのは、ほんとうにしんどい。だけど何故ぼくは辛苦を厭わないのだろう。書く過程は苦痛である一方、書きあげることは快楽である。汲めども尽きないぼくの情熱は、どこから来ているのだろう。

 今年の春このブログに『春休みの友』という短編小説を掲載した。反応は無きに等しかったが、昨日このような記事を書いたとお知らせいただいた。

 まずはその記事を読んでいただき、さらに時間の余裕があれば、小説の方も読んでいただきたい。

 表現の現在―ささいに見える問題から ④(表現の無意識に触れ)下 - 回覧板

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 小説の内容は、記事を書いたnishiyanさんが簡潔に要約してくださっている。

教育実習生で熊本にやってきたあや子先生に、構って欲しくて仲良し三人の二人が悪戯したり無礼を働いたりしたので、中一の春休みに謝りがてら大牟田に住む先生に会いに行く話。本心としては、友達三人で遠出する心躍りのある、久しぶりに先生に会うのを楽しみとした旅行であった。

  

  さてこの記事は、ぼくがいま現在突き当たっている問題、すなわち文章の書き方と深くかかわっているようである。

 文章――とりわけ小説という体裁をとった文章には一種の構えがある。その構えとは、「ただいまより小説が始まりますよ」という宣誓含みの、独特なたたずまいである。それはたんに思いつくまま書き連ねれば出来あがるものではない。着想をいったん棚に上げ、上下左右から眺めつつ、さてどうやって料理してやろうかと吟味したあげくに、こしらえていく過程が大切なのである。もちろん構成を練りにねるタイプの書き手もいれば、一気呵成にエイヤッと仕上げるタイプの書き手もいるが、いずれにせよ小説には「小説でなければならない必然性のようなもの」があるように思う。

 ぼくは以前にも書いたように読書家ではないし、古今東西の小説に通暁しているわけでもないから、断言するのは憚られるが、小説の良し悪しとは畢竟、文章そのものにかかっているのではないかと思うときがある。「描写」ということばに示される、情景ないし心理を巧みに描き写したものが、優れた作品として尊ばれる傾向があるように感じる。が、小説を面白がる要素とは、いうまでもなく筋書きによるものである。物語は必ず次の局面へ展開しなければならないし、主人公は葛藤を余儀なくされなければならない。しかし、それは小説という文章スタイルの絶対的な条件ではない。ドラマチックな要素が必要不可欠なわけではない。小説は日々のささいな出来事を綴ることでも成立するし、疾風怒濤が発生しようのないミニマルな作品なぞいくらだってある。回りくどくなったが「小説とは必ずしも面白くあるべき」ではない。面白さを担保するものは、その時代の社会のありようと密接に関係してくるものだから、時の移ろいとともに、面白さのコードもまた変化していくものだ。

 小説の読み手は、小説を読みはじめるときに、小説に示された世界に、身を置かなくてはならない。その用意が、心の準備がじゅうぶんでない場合、示された世界に興味が持てない場合、読み手は早々に本を放りだす。導入部が肝心なのだ。最初の1ページ、いや最近では初手の3行で読むか読まないかの判断が下される。次のページをめくらせるには相当な工夫が要る。のんびりと主人公の生い立ちを紹介したり、いちいち場面の説明をしたりする余裕はないのだ。

 説明をなるべく省略したかたちで、如何にすんなりと小説世界に導入させられるか。その手腕を書き手は試されるのである。

 

 長々と、わかりきったことを書いたのは、ぼく自身、小説のことがまるでわかっていないからである。さらに「文学」となると、まったくお手あげである。小説は好きだが文学は好きじゃない。ここで考えたいのは、あくまでも小説について。なぜ人は小説を読みたがるのか。わざわざ貴重な時間を割いて。そしてなぜ人は小説を書いてみようと試みるのか。

 あくまでも主観だけで、考えを進めてみよう。

 ぼくは、いわゆる情景描写が不得手である。もっといえば、書くのも読むのも好きではない。いったいどのくらい説明すればちょうどいいのか、さっぱりわからない。かといって説明をいっさい省くと、真っ白なホリゾントに人物を登場させる破目になる。登場人物がことばを発したり行動を起こしたりするための舞台は、やはり設定されなければならない。が、いずれにしても冗長な説明は避けたい。古典作品の緻密な描写は、読む意欲を減退させる。高級な家具や磨きぬかれた調度品の説明を饒舌にされたって退屈なだけだ。それはいいから主人公はいったいどうしたいんだよと、読み飛ばす結果になる。(追記:それだから、ヘミングウェイドストエフスキーが、他の海外小説よりも日本の読者に受け入れられやすい理由は、情景描写が簡素だからかもしれない。つまり導入の煩雑な手続きが省略される。上掲ブログ記事を読んで、そんなことを考えた。)

 そこで現代の書き手は工夫を凝らす。情景に心理を絡めようともくろむ。なぜここにドアがあるのかと、意味を問うのだ。ドアは開けられなければならないし、ドアが閉じたままだとすれば、なぜ閉じられたままなのかを、小説が終わる前までに解かなければならない。そのドアが引き戸なのか自動ドアなのかで、意味合いはまるで変わってくるだろうし、ドアがスムーズに開くのかギシリと軋んだ音を鳴らすかでも、意味合いは変わってくるだろう。そうして作者は幾重にも情景に情報を重ねていく。読者はその張り巡らされた情報の体系に身を委ねることで、小説の結界に侵入していく。ことばは悪いが、共犯関係が成立するのだ。

 つまり小説は、能動性を発揮せざるを得ないメディアとして、映画やマンガよりも敷居が高いのだけども、いったん同盟を結んでしまえば、作者と読者の関係は強固なものとなる。作者の与えた文脈に、読者が応じるという形で、契約が結ばれるのだ。ただ、そのプロセスに負担を感じさせてはならない。あくまでもスムーズに、ストレスを感じさせることなく誘導するのだ。それが――それがすべてではないにせよ――小説を読む/書く醍醐味であることは否定できまい。

 ぼくの小説にかんしていうと、登場人物の言動を規定するにあたっての舞台は、なるだけ一行で済ますようにしていた。多くても二行、それ以上は書かないでおこうと縛りをかけていた。引用していただいた箇所を例にとるとわかるが、

特急の通過待ちで停車中の窓を開いて、ぼくは水気をたっぷりと含んだ風に顔をさらした。福岡の雨が熊本まで追いついた。ただしいまは霧雨だ。ホームの看板に〈木葉〉と記されている。駅のすぐ裏手に小高い山が迫り、石灰質の山肌をあらわにしている。午後五時過ぎの空には夜の帳が降りて、稜線との境目は判然としない。

 凝縮するだけ凝縮している。この各駅停車が特急の通過を待つ駅は、なにも〈木葉〉である必要はない。停車駅は無名でもかまわなかった。が、書き手のぼくが想像力を拡げるための舞台として、木葉駅である必要があった。木葉駅の裏手には小高い山が迫っているし、岩肌は露わである。実際の情景を具体的に思い浮かべることで、書き手であるぼくは迷いなく書ける。その「書き進められる」ための舞台が、必要だったのである。

 けれども、ちょっと独りよがりなのではないかという懸念が、ぼくの裡に発生した。ぼくはこの小説を着想した段階で、舞台を郷里の熊本とし、主人公を自分とその友達ふたりに定めた。実際に起こったことを順番に書き連ねるだけだから、設定が決まれば、すらすらと書きおおせた。じっさい、初稿は書くのに二日もかからなかった。原稿用紙にして20枚程度であった。

 ここで種明かしをすると、ぼくは「熊日文学賞」に応募するつもりだった。その賞の規定では、じゅうぶんな枚数だった。ところが熊本日日新聞に問い合わせると、県内のみの応募であり、県外者は受けつけないという(当時は関東に住んでいた)。そこでぼくは狙い目を別に定め、岡山県笠岡市の「木山捷平賞」に鞍替えした。すると規定の枚数に足りなかった。もう少し話を膨らませる必要があった。

 熊本ローカルでないとすれば、熊本およびその周辺に住む以外の読者にも理解できるような通路を作っておかなければならないとも感じた。しかし、熊本弁での会話のやりとりと熊本/福岡の地域性(距離感だとか微妙な文化圏の違いだとか)は残しておきたかった。そこで第二稿では、説明する代わりに「現実に起こっていること」を書き加えた。登場人物のモデルである友人ふたりとの電話でのやりとりやら、家族と連れ立って旅行したときのエピソードやら、時の政権(第一次安倍内閣のころだ)が「強制連行はなかった」としたことへの憤りやらを、挿入し、肉付けしていったのだ。そのことで初稿にあった抒情性はかなり薄まったが、その代わり、情緒に流されない今日性を獲得したと(当時は)思った。結果として芥川の『藪の中』みたいな、「人の数だけ真相は存在する」という裏のテーマを引き出すこともでき、意外と重層的な作品に仕上がったなと、自己満足までしていた。

 さらに呻吟したのち、第三稿を決定とし、ポストに投函した。

 三ヵ月後、最終選考2作には残ったけれども、受賞は逃した。そのときお褒めを頂戴した川村湊氏ではないもう一人の審査員、佐伯一麦氏はこう評していた。

「柳川の情景描写などはありきたりで、もう一工夫が必要である」

 さすが佐伯氏、ぼくが図書館から借りてきた観光ガイドを斜め読みしながら、柳川の町並みを「描写」したことなど、お見通しであった。 

 

 ぼくはなるたけ無心に書きたいが、反面、読む人を退屈させたくないという、サービス精神がある。自分の思いのたけだけをつづったら、誰も見向きはしないだろうと自覚している。だから、このブログにしても、ツイッターにしても、他人が読んだらどう思うだろうかと、常に意識している。本来は誰にもおもねる必要はないのだ。職業作家ではないのだし、プロのライターではないのだから、好きなように書けばいい。

 だけど、どうしても意識してしまう。どうせ読まれるなら、一箇所くらいクスリと笑わせてやろう、あわよくばホロリとさせてやろうという、よこしまな企みが頭を過る。だから、ぼくの文章には、どこか純粋ではない、よそよそしさと気取りがある。

 それを解消するにはどうしたらいいのか、ただいま思案中なのである。

(それもまた企みの変奏曲なのかもしれないが)

 たぶん、ぼくの中の批評家が、いちいちツッコミを入れているんだろうな。

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 で、こうやって読み返してみて、これじゃまったくnishiyanさんへの返答になっていないことに気づいた。明日ブログの感想を書きますと約束しておいて、この体たらく。まったく情けない。

 今はただ、ぼくの拙い「作文」を採りあげてくださったことに感謝する次第である。

 貴方の記事は膠着状態にあったぼくの意識を揺さぶり、書けない書けないの自縄自縛に陥っていたぼくの怠惰を起動してくれた。

 ありがとうございます。