今日は、ぼくの初恋のひとを紹介しよう。
アッソーリ。
河出書房より刊行された『カラー版 少年少女 世界の文学 22』に、『金星探検』とカップリングで収められている。箱の表は『金星探検』だから、メインはそっち。
箱の裏。責任編集のそうそうたる面々を見よ。
初版刊行は昭和42年7月10日。この全集を買ってもらったのはその2,3年のちだが、当時の590円はけっして安価ではない。
本の背表紙。装幀は沢田弘。
小学2,3年のころ毎月、勤め帰りの母より届けられたが、この巻は他の巻と違ってとっつき辛かった。とは言っても『金星探検』のほうは、すらすらと読んだのだが。
金子國義のサインがはっきりと認められる。
『深紅の帆』をちゃんと読んだのは、おとなになってから。そのときでさえ難しく感じた。原卓也氏の硬質な文体にもよるが、最初に抵抗があったのは、さし絵だった。
エグリの傍らに置かれた黒い鞄が子ども心に気になった。
金子國義による艶めかしいタッチの絵柄は、小学校中学年には得体のしれないもののように映った。ぼくは文章を読むどころか、絵を見るまいと目を閉じてさえいた。
富豪の息子、グレイ。
少女趣味とは違う、なにかいけないものに触れてしまった感じ。しかし、その名状しがたい妖しさに魅かれていったぼくは、こっそりと隠れるようにページをめくった。
個人的には、セーラー服の、イメージの原型。
なんだろう? どうしてぼくはこの絵に惹きつけられるんだろう? どきどきしながら絵ばかりを眺めていた。それを背徳の感覚だと知るのは、あと数年ほどのちになる。
最初に見たときは、あわててページを伏せた。
とくにこのページには目を奪われた。森の中に眠る少女アッソーリ。その肌の色と、桃色のワンピースと、すらりと伸びた脚のかたち。グレイとの、運命的な出会い。
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<髪の毛は、ばらばらにみだれていた。首のあたりのボタンがはずれて、はだの白いくぼみをみせている。ひろがったスカートからは、ひざがのぞいていた。ひとふさの黒い髪でなかばおおわれた、ういういしい、よくめだつこめかみ、そのこめかみのあたりで、まつ毛がほおにまでかかっていた。頭の下にあった右手の小指が、うなじのほうへすこしまがった。(『深紅の帆』 275ページ)>
パイプ。酒。水夫たち。大人の男たちのたたずまい。
先にも言ったように、さし絵のとりこになったぼくは、小説そのものを長いこと読めずにいた。頭のなかにこしらえたイメージが崩れるのを、おそれたためである。
父親はなぜ、あらぬかたを眺めているのだろう?
ところが後になって読んでみると、ぼくの想像していた「お話」と、小説のあらすじは驚くほど似通っていた。さし絵によって指し示されたイメージは正確だったのだ。
このシーンも忘れ難い。背負い袋の青と白い線。海沿いの家。
ぼくの美意識(のようなもの)や嗜好を育み、決定づけたものは、まぎれもなく金子國義のさし絵の色合いであり、描かれた衣装であり、かれ・かの女らの容姿である。
ことあるごとに、この面影を探してしまう。
そしてぼくは、アッソーリのような娘と出会うことを夢みた。
今回、さし絵のすべてをアップしています。
巻末に「SFは、なぜおもしろいか」という題の解説を星新一が書いているが、『深紅の帆』を読んだぼくの印象は、サイエンス・フィクションというよりも、きわめてリアリスティックなディテールを持つ幻想小説、である。ロシア的な要素はことごとく排除されているにもかかわらず、人間社会のありようを透徹なまなざしで捉えた描写には重たげな暗渠が流れている。乱暴なたとえになるが、アレクサンドル・グリーンは東のレイ・ブラッドベリだといえよう。その水脈はどこか深くで通底している。
『深紅の帆』の最終ページはこの絵で終わる。
さて『深紅の帆』 とは、なにを象徴しているのだろう?
おおげさにいえば、それはぼくの後半生に課せられた命題でもある。
この幸福な結末の絵を見てもなお、胸の裡にざわめきが鳴り続けるのは、なぜか?
この仕事を引き受けたとき、金子國義はどのような気持ちで筆を奔らせたのだろう。
この子ども向けの本を手に取るたび、今ここにいる大のおとなは落ち着かなくなる。
この本を開くたび、ぼくは未だに描かれた世界の虜になってしまう。
【追記】
この記事を見たかたからTwitterにとても嬉しい反応があった。
初めまして 私もきっと同じ深紅の帆を読んでいました。この映画があるのご存知ですか? もしかしたら、金子国義はこの映画見たのかな、見てなくてもぴったり同じ感じが驚きでした
1961年ソヴィエトの映画『深紅の帆』。リンク先を掲げておきます。(7月31日)