鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『Soliiste〔ソリスト〕』 寺田和代の描いた線

 

 小さな、薄い本である。機内持ち込みバッグに詰めこめるくらいの。現代詩文庫と同じサイズだ。簡潔明瞭な文章だから一気に読みおおせる。だけども中身はぎっしり詰まっている。情報量が半端ない。

 もしきみが漠然と、旅行に行きたい、国外に出てみたいと考えているのなら、この本は格好の指南書となるだろう。いやその前に、はげしく旅情をかきたてられる、起爆剤の役目も果たすだろう。
 寺田和代の『Soliste〔ソリスト〕』を、きみに紹介しようと思う。
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 帯カバーを解くと、シンプルな装丁だ。コインランドリーのテーブルにも映える。
 
 まず読んで驚くのが、著者の用意周到さだ。半年前に始動する、航空チケットの手配から周囲への根回しまで。それくらいの準備期間が、ひとり旅には必要であるとの経験則からである。行き当たりばったり、思いつきでは行動しない。しかしそのプロセスを、著者は楽しんでいる。あれやこれや思いめぐらしながら、旅支度を整える。まるで準備することさえもが、旅の途中であるとでもいうふうに。
旅を重ねるうちに、自力でできる部分を少しずつ増やしていく。最終的にインターネットを使って計画や予約のすべてを自分でコントロールできるようになると、ひとり旅のおもしろさはケタはずれにアップする。(54ページ)
  そのノウハウがぎっしりと詰めこまれている。こんな薄い本によくこれだけ、と唸ってしまうほどに。それを著者は「マイ手作り弁当」と形容するが、まるで旅慣れた人のスーツケースの、収納の奥義を見る思いだ。ちなみに寺田和代のスーツケースは、外寸54×34×22cm、容量約28ℓのソフトタイプ(106ページ)だそうだ。
 
 20年間に28回の渡航歴がある著者のように、初心者であるきみが同じようには準備できないと思う。けれども、学ぶことはできる。最初は誰でもビギナーなのだ。他人の線を模倣したっていい。それはリーズナブルに旅するための方法だから。アプローチの仕方を、本からどんどん真似すればいい。たとえ線をなぞるだけでも、きみは多くを得るはずだ。きみが見た景色は、それでも著者と同一のものにはならない。それぞれに違った景色が、遭遇した場面が、出会いが待ち受けている。それは同じ楽譜を使っても、ソリスト一人ひとりが、まったく違う音色を奏でるのに似ている。
 
ソリスト』は、実用本の一種に数えられるだろう。そういう体裁をとってはいるけれども、ちょっとしたところに、寺田和代の魅力的な側面がちらほらと表れていて、興味をそそられる。
  たとえば、こんな述懐。
(マダムと呼ばれることに)ふだん言われ慣れず、扱われ慣れないためか、一瞬にして心が温まってしまうほど滋味に満ちた経験なのだ。あっ、いま、こうして書き連ねていくだけで、その時の幸せな気持ちがよみがえって口元がほころんでしまう。それくらいうれしい。(55ページ)
 そしてさらに、トラブルに遭ったときのことも。
死ぬまでにもう一度あのホテルを訪ねて(長い友人のように励ましてくれた)バージニアに会えたら、あの時のあなたは地獄に仏だった、感謝の気持ちを忘れたことはなかったと伝えたい。(71ページ)
 旅は旅したものの心に、確実ななにかを残してくれる。追体験こそ、かけがえのない、代替不可能なスーベニアなんだ。独りで異国に立ってこそ得られる、個人的な経験こそが、人生の宝物になる。『ソリスト』は、旅先という舞台で、ふだんよりも鋭敏に研ぎ澄まされた意識を自覚しつつ、自分の旋律を奏でていくんだよ。
 
 ぼくは、第4章の「プラハからの手紙」ともいうべきところが、もっとも好きだ。むかし偶さかBSで観て、観たいみたいと思っていた、チェコ国立マリオネット劇場の一幕が挟みこまれているんだもの。そこに庶民が権力に抵抗する姿を見るだろう、あるいは人形の表現の巧みさに驚くだろう。ああ想像しているだけで居ても立ってもいられなくなる。

 ただし、と著者は第5章で戒める。リスクマネジメントを意識しなさいと。
もうこりごりという思いをできるだけ自分にさせない、運悪くこりごりな目にあってしまったら、自分の心のために最大限リカバリーの努力をしておくこと。それが、長い目でみたときにひとり旅を楽しく続ける力になってくれると思う。(155ページ)
 これこそ達人の構えであり、旅を成功に導く秘訣である。「異国では人を信用しないこと、日本ほど安全な国は他にありませんもの」とのたまう某女史との、なんたる違いよ。このしなやかな動線を、なぞってみるのもいいんじゃないかな。それはたぶん、きみのような若い人にも、あるいはぼくみたいな哀愁の中年男にも、通行可能な筋道だと思う。
 そう、この本を「おとな女子専用」にするのはもったいないな。おとな男子にもビビッと響く内容を備えているからね。いずれ旅立つ余裕ができたら、ぼくも『ソリスト』をバッグにしのばせるつもりだ。
 なんだか、手紙だか書評だか感想だかわからない、とりとめもない雑文になっちまったけど。ともあれ、きみがこの本を手にとってくれたらと、ぼくは切に願うよ。
  f:id:kp4323w3255b5t267:20150624133417j:image 世界中どこへいっても、若者と海は似合う。そのさまを捉える寺田和代のまなざしは、かぎりなくやさしい。(※ この写真は『ソリスト』には収められていません)
 
 小さな、薄い本である。機内持ち込みバッグに詰めこめるくらいの。だけど旅情がぎっしり詰まっている。願わくは第4章みたいな「旅先からの手紙」風エッセイを、もっとたくさん書いてほしい。寺田和代の易しくも優しい文章は、たとえば須賀敦子を読んだ人々が異国への憧れに身を焦がしたように、多くの人の旅情をかきたてるに違いないから。
 (写真借用・敬称略をお許しください。鰯)