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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

なにも描かれていない部分こそを読め 『海街diary』

Review

 

 吉田秋生の作品が好きである。 

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 とりわけ鎌倉を舞台にした『海街diary』(小学館・現在6巻)は、近年まれに見る傑作である。

 映画の宣伝になるみたいでちょいとシャクだけど、連載誌『月刊フラワーズ』7月号の表紙をみればわかるとおり、今週の6月13日(土)には是枝裕和が監督した映画が全国公開される。主人公「浅野すず」を演じるのは話題の美少女「広瀬すず」、シャチ姉こと「幸」は綾瀬はるかである。

 映画『海街diary』公式サイト | 6.13(土)全国公開

 原作とイメージが違うぞ、と異を唱えたくなるのはガマンしておこう(言っているも同然だね)。

 このマンガの魅力を語りだしたら、ずいぶん文字数を費やすことになるだろうが、今日は控えめにしておこう。

 

 吉田秋生の作品って、まず初っ端から問題が提示される。主人公と主人公をとりまく登場人物が抱えきれないほどの、重大な出来事があって、かの女かれらは流されまいと懸命に身がまえる。最初のとっつきは必ずしもよくない。人間関係はギクシャクしている。だけど、それは相互理解が進むにつれ、しだいに緩和されていく。もちろん問題の根っこが解決するわけではない。ないけれども、やり過ごす。やり過ごすという言いかたが悪ければ、うまく解消しようと努める。

 その過程において、さまざまな軋轢や葛藤が発生する。けれどもそれらはつねに日常から逸脱しない。日々の暮らしの中に、苦しみや悲しみが混在している。そのありようを吉田秋生はていねいに描写する。慈しみをこめて、あるいはユーモアをまじえて。けっして登場人物をどん底まで突き落としたりはしない。それは中期の傑作である『吉祥天女』や『BANANA FISH』ですらそうだった。一言で片づけたくはないけれど、それは人間性を回復する過程を描いたドラマだ。作者の作風はデビュー以来、一貫している。

 だから、最初はピリピリしているさ。シャチ姉のせりふなんて、刺さるささるグサグサッと。気ィ張っているから。でも、だからこそ、すずの「助けて」をキャッチできる。こっちにおいで一緒に暮らそうと、確信を持って言える。

 ここで冒頭の絵を見てほしい。すずの横顔と、見惚れる風太の表情を。息が止まりそうな瞬間を、鮮やかに切りとってみせる。その手腕は凡百の漫画家にはとうてい真似できない領域だ(西炯子はいいセンいっているが)。しかし吉田秋生はこの状態を維持しようとはしない。むしろ積極的にシリアスを解体しはじめる。

 なぜなら、それが人間の生き様(よう)だからだ。センシティブで、触れれば壊れそうな関係が、徐々に、ゆっくりと解凍してゆく。その過程において、翳りを担う登場人物は静かに退場していく。朋章が佳乃の前から、椎名が幸の前からいなくなる。どこへ? 海の向こうへ。

 四人の姉妹は、それぞれの場面で、そういった決定的な喪失を経験する。そういうときにどんなことばが適切であろう。マンガっていいな、マンガってずるいなと、たまに思う。ことばを剥ぎとってしまって、絵だけで伝えられるメディアだもの。

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 吉田秋生は「ここぞ」ってときに、横顔のアップを据える。次の俯瞰の構図がさえる。

 しかし、吉田秋生の真骨頂は、決定的なダメージを食らった直後に、食いかけのサンドイッチやらとんびやらサーファーなどを登場させ、ごく自然なかたちで、かの女らを日常に帰還させるところである。そして、悲嘆にくれるまもなく、次の展開が用意されている。都合よく? いいや違う。そんなものなんだよ人生は、って調子で。

 葛藤や喪失は、癒せない傷跡を残しながらも、やがて日々の暮らしの濁流に、呑みこまれてしまう。人は疼きに気づかないふりをしながら、生きていかねばならない。

 

 鎌倉好きならぼくも人にひけをとらないが、吉田秋生の描く鎌倉の表情は柔らかくやさしい。ていねいに描かれた風景。けれども主人公のおんなたちは絶対に埋没しない。かの女らをとりまく「空気」は、あけっぴろげで、しかもむなしい。その空間は埋められない種類のものなのだ。舞台の景色が濃密であればあるほど、気配りが高じて先回りしすぎにさえ感じられることばのやりとりも、なにも描かれていない空白を埋めつくしてはくれない。

 f:id:kp4323w3255b5t267:20150531104924j:image この空虚な間を、どうやって現実に写せる?

 ことばに言い表せないもどかしさ。

 すずはどこにでもいそうな、「フツー」の中学生だよ。とくべつじゃ、ない。

 

 さて、吉田秋生作品の傾向として、物語の緊張は徐々に緩和されるという指摘は前に述べた。ここで第1巻のすずと風太と、7月号掲載のふたりを見比べてみよう。

 f:id:kp4323w3255b5t267:20150611173938j:image 第1巻。まだどことなくあどけないね。

f:id:kp4323w3255b5t267:20150611185613j:image 7月号の一コマ。風太がたくましくなった。

 絵を見比べたら一目瞭然だけど、ふたりの表情はずいぶんくだけた、悪くいえば弛緩したものに変化している。下に示したコマは修学旅行での京都の風景だけど、風景ですら、ある種「書割」に思えてしまうほど、最近の『海街』はユルくなっている。

 だけど、油断してはならない。問題は少しずつ解決し、上の三姉妹はそれぞれの新しいパートナーと好い関係を育もうとしている。しかし、すずは違う。風太とせっかくいい感じになれたのに、かの女はおそらくサッカー留学を決意するだろう。そして「四月になれば彼女は」、風太の手の届かない遠い場所へといってしまうのだ。ネタバレのようで申しわけないが、それを知ったとしても、この先の興味がいささかも減じることはないと保証する。だから、もう少し語らせてもらうと。

 ぼくは別離のふたりを、吉田秋生がどう描くか、に興味が向かう。

 おそらく格別の余韻が残るような、みごとなカットを用意してくれるだろうと期待している。

 それは吉田秋生だからこそ寄せられる信頼感なのである。

 

 ぼくは二十歳かそこらの時分、引っ越した先の部屋の押入れに、先住者の置いていった別冊少女コミックが積まれているのをみつけた。そのまま捨ててしまわずに、冒頭の作品を読んだ。『河よりも長くゆるやかに』。それを読んで以降、ぼくは吉田秋生の語り口に、絶大な信頼を置いている。

 風太をみていると、トシちゃんこと能代季邦を思いだす。かれはクールで少しませた高校生だったが、舞台である福生の浅川の流れを、久保田深雪(男です)と見つめながらボソボソとことばを交わすのだ。

 そのときのせりふを、ちゃんと覚えてはいない。だけど吉田秋生は、物語のテーマともいうべきを、かれらに語らせていた。人生は川のようだと、最初の流れは急で、けれども徐々にゆるやかになって、最後は海へと注ぎこむのだ、と。

 上流の水はきれいだけれども、下流になるにしたがって、水は濁ってゆく。あれはどちらが問うて、どちらが答えたのだろう。季邦か深雪か? もう一度あのシーンを読み直してみたいのだけれども、あいにく手元に単行本がない。

「澄んだ水と濁った水、どっちがいい?」

「うーん、おれはどちらかというと……」

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【追記】単行本が(震災で)見つかったんで確かめてみると、このシーンは1巻の177ページに載っていた。ラストシーン近くというのはぼくの勘違いです。

 そして、最後は仮装大会で深雪ちゃんの女装だったっけ? あんなふうに、見事な結末=オチを、吉田秋生は用意しているに違いないとにらんでいるんだ、ぼくは。

 

 

 なんか支離滅裂な文章になっちゃった。詳細は既刊のコミックスを読みたまえ。

 

 

 

【参照】 

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com