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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『二重奏』

 

 

 二重奏

 

《ささやかな手書き譜ひと束、

 わたしはここに心のすべてを込めました》

             ――ヴジェーヌ・イザイへ贈られた手稿より

             セザール・フランク(1822~1890)

 

  f:id:kp4323w3255b5t267:20150516052604j:image 初稿の原稿

 

【Ⅰ】アレグレット・ベン・モデラー

 

 昼休みの校庭では男子たちがサッカーボールを追い回している。今週から衣替えだ。紺色のブレザーとベストはもう見あたらない。白いシャツが眩しく映る。

 田宮陽子は躍動する彼らの姿を三階の窓から見下ろしていた。

「だれを見てるんだ?」

 浅川朱美が背後から肩を叩く。「さっきからずっと男子見てるよ」

「べつにだれも」

 嘘だった。陽子はその中のひとりだけをずっと追っかけていたのだ。いままさにボールを奪い、ゴールに向かって一直線にドリブルしていく彼、松本祐二を。

「陽子にも遅い春がやっときたか、って」朱美が茶化す。

「そんなんじゃないってば」

 陽子は朱美の二の腕を叩く。半袖になった朱美の腕に陽子の撓る指があたってピシッと小気味よい音がした。

「あ、ゴメン」

「痛いなあ、陽子。あんたピアニストなんだから……指の力だけはすさまじいんだからね」

 そのとき、校庭から歓声があがる。祐二がゴールを決めたのだ。誇らしげにガッツポーズをして、屈託のない笑みを満面にして。

「お、オンゾーシ、やるじゃない」

 朱美はもう気を取り直し、グランドのサッカーに注目していた。オンゾーシとは御曹子。松本祐二のニックネームである。

 ――そのオンゾーシに悩まされているのだわ。

 心の中で陽子は呟き、小さなため息をついた。

 

 先週のことである。

 田宮ちょっといい? と祐二に呼びつけられた。松本祐二は別のクラスだ。背後で二、三人の冷やかす声がした。とりあわず陽子は祐二の後を追って、階段の踊り場にたどり着いた。

「あのさ、お願いがあるんだけど」

 祐二は階段の手すりに腰かけ、いたずらっぽい目をしてみせた。

「なにかしら」

 陽子は緊張していたが、努めて平静を装った。

「また、伴奏やってくれない?」

 ――やっぱり。ちょっと期待はずれ。期待はずれ? いったい私、なにを期待したんだろう。

 陽子は顔を朱色に染めた。悟られまいとうつむいた。

「私なんかでいいのかな」

「おおっ、いいとも。バッチリさ。『春』みたいな感じでいいよ」

 

 二ヶ月前にさかのぼる。卒業式に続く送別会で、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』第一楽章を演奏したふたりである。

 祐二のヴァイオリン。陽子のピアノ。

 全校生徒の前で弾くのはとてつもなく緊張した陽子だったが、祐二は余裕しゃくしゃく、微笑を浮かべつつ優雅に弓を運んで、終始一貫陽子をリードした。演奏が終わると一瞬、講堂はシンと静まりかえり、それから万雷の拍手をふたりは浴びたのだった。

 

「で。私、なにをすればいいのかな」

 おかしなことをきくんだな、といった表情で、祐二は口の端を片方持ち上げる。

「ピアノに決まっているじゃないか」

「そうじゃなくって。なんのために演奏するのかな。練習のため、それとも発表会のため? いつまで? なんの曲をするの?」

 そうせっつくなよ、いまから説明するからさ――祐二はコホンと咳払いして天井を仰ぎ、よしっ、と決心して言い放った。

「フランクのヴァイオリンソナタ

「フランク?」

「そうだよ。知らない? 有名な曲なんだけどな」

 知らなかった。陽子はクラシックピアノのレッスンを何年間も受けてきたのだが、ピアノ曲以外にはまるで疎かった。

「いい曲だよ。オレ大好きなんだ。前からやりたいって思ってた」

 ――しーっ、声大きいって。誤解受けちゃうよ、その言葉。

「七月初旬までに第二楽章まで仕上げて、第一次予選を突破する」

「ちょっと待って。いまなんていった? 予選って……」

「決まってるだろ、新人コンクール、あざみ野記念音楽祭」

「えーっ!」

「選曲自由だし、年齢制限もなし、こりゃあいいって思ったんだ。頼むよ。田宮のピアノって合わせやすいんだ。頼りにしてるんだ。引き受けてくれないか、お願いッ」

 正面で手を合わせて拝んだ。今度は陽子が天井を仰ぐ番だった。

 ――コンクール、か。

 

  共通模擬試験を終えて会場のS大から帰宅する途中、陽子たちは市の中心街でバスを降りた。日曜日の繁華街は人、人、人でごった返している。高三の陽子には、どの顔もみな一様に幸福な表情に映る。いや、自分だけが暗い表情をしている気がする。

「朱美、ちょっと寄りたいところがあるの。つき合ってくれる?」

 どこにいくの? 人混みをかき分けながら朱美がたずねる。

「んー。ちょっと、楽譜を捜しにね」

 陽子は足早に交差点を渡って、古いビルのなかに吸い込まれた。

「あわてるなー陽子ぉ」朱美は懸命に追いかける。

 エスカレーターに飛び乗った。この地方都市で唯一、まとまった輸入楽譜が常備されている楽器店である。三階まで吹き抜けになった店舗の一角に陽子は足を踏み入れ、迷わずヴァイオリン譜のある棚の前に立った。ありますように、と胸に手をあて祈る。

「ピアノじゃないの?」

「ヴァイオリン、なのだなこれが」

「あーっ、もしかしてオンゾーシ?」

 素っ頓狂な声で叫ぶ朱美。

「うん。松本くんと。また演奏するんだ」

 陽子は顔がかーっと熱くなるのを感じた。

「へーっ。そうかぁ、そうなんだ。やっぱり、なるほどねー」

「勝手に納得しないでよね――あ、あったこれだ」

 ビニール袋に詰められた楽譜には、確かに“FRANCK”の綴りがあった。3,500円の値札シールが貼ってある。

 高いな。どうしよう――ここは思案のしどころだ。

 陽子は結局買うことにした。CDなどの音源を聞く前に、先入観抜きでアナリーゼ〈分析〉しておきたい。どれだけ読譜できるのか分からないけれど、まずは無心で楽譜と対峙してみたい。そう決心すると陽子は、

「朱美お願い。一千円だけ貸してくれない? 来週返すから」

 唯一無二の親友に泣きつくのだった。

 

「曲はもう聴いた?」

 帰ったらすぐに祐二から電話があった。携帯にではなく、自宅の電話にかけてくるのは珍しい。祐二だけかもしれない。

「ううん、まだ。さっき楽譜は買ってきた。開けてみてないけど」

「なんだよ、いってくれればちゃんと用意するのに」

「お構いなく」楽譜の自前は陽子のささやかなプライドだった。でないと、御曹司はなんでもお膳立てしてしまう。

「ま、いいや。それより参考にしてほしいCDがあるんだけど」

「いまはまだいいよ」

「とにかく聴いて。こんなふうにしたいって目標なんだ、なんならいまから持ってこようか」

「いいよ、学校でもらえればいいのだし」

 陽子は電話を切ってはあーっとため息をつく。

 これだ。この性急さが祐二の苦手な部分だ。思いこんだらこうだと突っ走る性質。慎重な陽子にはそこが合わない。先行き不安だ。

 うまくいくんだろうか、この二重奏は。

 

「陽子。松本くんって、あの松本祐二?」

 横から姉、佳子がひょいっと顔を出す。四月から信用金庫に勤め始めた佳子は、陽子の通う高校を卒業したばかりだ。

「そうだよ。聴いたでしょ、送別会のとき」

 あれは良かったわぁー、と佳子は遠くを見る仕草をみせる。少々わざとらしい。すると振り向きざまに陽子の肩を強く揺さぶった。

「ぜったい捕まえておきなさい。いいこと、これは姉からの忠告。相手は松本家のおぼっちゃま。チャンスだよ、陽子」

「そんなんじゃないったら!」

 陽子はぷうっと頬を膨らます。朱美も姉もなにか誤解している。

 

 楽譜とにらめっこ。それから何小節かを弾いてみる。これをもう何時間も繰り返している。なのに。すっかり煮詰まって、ピアノの蓋を閉めて、あーっと叫んで手足を伸ばす。

 きれいな和音。不思議な音の連なり――。

 いままでに陽子が弾いてきたハイドンやバッハやブラームスとはまったく違う色彩の音楽だ。音符の連なりは難しくないのに、音楽として成立してくれない。

 どうしよう。ぜんぜん弾きかたがわからない……。

 テーブルの上を見る。一枚のCDが置いてある。祐二は月曜日、つまり電話のあった次の日、学校に早速持ってきたのだ。

「金曜日の放課後、音楽室で練習。一楽章、さらっておいてね」

 指先を開いて伸ばす運動を繰り返す。

    ――まったくひとの気も知らないで、いい気なもんだわ。

 陽子は愚痴る。

 ――あんたみたく英才教育受けてないんだから。譜読みするの遅いんだから。

 しかしその一方、私ってそうとう頑固だ、とも思う。

 ――外側をなぞるだけでも聴いてみたらいいじゃない。

 もうひとりの陽子が囁く。迫ってくる練習日を前にして、弱気な陽子が顔を出す。

 ――ダメダメ。最初の練習までは聴かないって決心したのに。

 最初の練習が一番肝心なのだ。祐二がどう弾いてくるのか、いっさいの夾雑物ぬき、全身で感じてみたい陽子だった。

 

「八分の九拍子。大きな三拍子を感じ取って」

 祐二は練習になると容赦しない。たっぷりと注文を付ける。全然優しくない。いいかもう一回、さあ始めて――。

 四小節ピアノ前奏の後ヴァイオリンが重なる。跳躍の多い旋律。どこかもの悲しく、なぜか懐かしい。せつなくなるメロディー。

 ああそうか、こんな曲なんだ……。

 祐二が弾きはじめて、やっと呑み込めてきた。

 ヴァイオリンのパートは、いくらピアノを弾いてみたところでわからない。二つのパートがひとつになって、初めて成立するものだ。そのあたりまえを認識して、陽子はたまらなく嬉しくなる。

 しかし、クレシェンドより頂点に達する寸前で、弓を動かすのをやめてしまう祐二であった。

「ストップ。なんか違うんだよな」

「どこか、間違えてるかな」

「いやそうじゃなくって」

 祐二は口にこぶしをあてて、ふうんと唸る。

「つまり、ひとことでいったら固いんだよ。古典派のように聞こえる。もっとこう、なんか……」

「もっと滑らかに弾いたらいいのかな」

「あのさ、田宮」

 祐二はヴァイオリンをグランドピアノの上に置いた。

「CD、聴いてくれた?」やや、詰問口調になっている。

「白状すると。じつはまだ聴いてない」

「やっぱりな。そうだと思ったよ」

 祐二はヴァイオリンをケースにしまい始めた。

「今日はおしまい。来週にしよう」

「えーっ、なんで」

 陽子は抗議した。まだ始まって十分も経っていないのに。すると祐二はうつむき加減で呟く。

「どうして聴かなかったんだ」

「だって、先入観が入っちゃうし。まっさらでのぞみたかったの」

「それじゃダメだ。わかりっこないよ」

 ちゃんと聴いておけよ! 祐二はそう言い残すと、ケースを肩に引っかけて足早に去っていく。扉を乱暴に閉める音が廊下じゅうに鳴り響いた。

 夕日が射し込む音楽室に陽子はひとりぽつんと取り残された。

 

 職員室。音楽専科の柏木に、陽子は音楽室の鍵を返却した。

「あれ、練習はもう終わり」

 はい。力無く陽子は答えた。その様子が気がかりになった柏木は、「田村さん、一緒に帰ろうか」と声をかけてくれた。

 プラタナスが並ぶプロムナード。正門から向こうはかなり勾配のある坂道が続く。下りていく教師と生徒。ふたつの影はどこまでも長く伸びている。

「新人コンクールに向けての練習だったわね。なにを演奏するの」

「フランクです。フランクのヴァイオリンソナタ

「あれはいい曲よねー」

「そうなんですか。そんなに有名なの」

「有名っていうより、そうね、個人的に好きだわ」

 柏木は手を伸ばして、うーんと深呼吸をした。声楽科出身のよく通る澄んだ高音で、その声を聞いていると陽子は少し元気になる。

「あの、先生。フランクっていつの時代のひとですか」

セザール・フランクは近代。音楽史的にいうとロマン派ね」

「古典派じゃないんですね」

「そうよ。ベルギー出身。後にフランスで活動した。バッハを敬い、宗教曲をよく書いた。オルガンの曲なんかもすてきなのよー」

 歌うような調子で教えてくれる。陽子は弱音をつい漏らす。

「私、なんにも知らないんだな」

「なにいってるの、だいじょうぶよ、自信持ちなさい」

 柏木は陽子の背中をどんと突いた。

「あなたと松本くんのふたりならきっといい音楽がつくり出せるって、先生保証するわよ」

 楽しみにしてるわね、と柏木は手を振ってバス停へと向かった。その後姿に向かって、ありがとう先生、と礼をした陽子だった。

 

『ヴァイオリンソナタ イ長調

 二重顎の中年男性。ヴァイオリンをケースから取り出す写真が、CDジャケットの表紙に使われている。仕草が祐二に似ている。

 さっき音楽室での出来事を思い出してしまった陽子は、胸の奥がちりちりと痛む。

 ――聴かなくっちゃ。

 陽子は決心してプレーヤーのボタンを押した。

 一聴して魂のふかくに到達するなにものかを感じる陽子だった。心臓を抉られるような衝撃と、祈りにも似た安らぎを同時に得た。大脳の、まだ使われていない部分を、開かれていく快感があった。

 第一楽章冒頭。

 ほの暗い色彩を帯びた空間の奥底から物憂げな和音が鳴り響く。これから始まるヴァイオリンの会話を暗示するピアノの前奏は、「どうぞ、いつでもいい、話してごらん」と語りかけているよう。

 そこへヴァイオリンがさりげなく応答する。

 軽やかで滑らかで柔軟、けれど力強い響き。弓運びは澱みなく、わずかな躊躇いも感じない。弦との摩擦が激しい。松やにの匂いが漂ってきそうだ。倍音も大いに出ている。間近で聞くとわかるが、ヴァイオリンの音は結構うるさい。実際の演奏もきっと相当でかいはずだ。野生的、といってもいい。

 しかし矛盾するようだが、その表情たるや恐ろしく繊細なのだ。厚塗りの漆器のような、艶やかでふくよかな音色――。

 もう一度ジャケットを確かめてみる。

 細面の祐二と違って、ディスクの主人公はおよそ繊細とは程遠い魁偉な要望だ。大胆不敵な面構えをしている。

 だがそういった男ほど、こころのなかに小さな花束を抱えているらしい。ピアニストはそんな男の純情をよく理解しているようだ。

「いいよいいよ。きょうはまあじっくり語り明かそうじゃないか。つき合うよ」といった風情の、的確な演奏をもって支えている。

 麗しい友情のさまを、ヴァイオリニストは高らかにうたいあげていく。遊ぶように踊るように、無邪気にあるいは恥ずかしそうに。

 

 両者丁々発止のせめぎ合いが展開される第二楽章。天上界に届くのではと思わせる崇高さと、相反する官能を併せ持った第三楽章。春の陽光を思わせる可憐な響き、愉しげにヴァイオリンとピアノがカノンを奏でる第四楽章――。

 陽子はすっかりこの曲のとりこになった。

 夕食もそこそこに自分の部屋に戻ってもう一回聴いた。中間試験の勉強も来週の宿題もきれいさっぱり忘れた。入浴もしなかった。気がつくとパジャマにも着替えずに眠っていた。

 何度も何度も繰り返して聴いていたのだ。CDを受け取ってからこれまでの時間を、必死で取り戻そうとするかのようだった。

 

「そういった弾き方は感心しないな」

 百目鬼先生は渋い表情を浮かべた。小一のときから十二年近く、この老人にレッスンをつけてもらっている陽子だった。

「練習不足とはいわないが、いつものきみじゃないようだ」

 二重奏に取り組んでいること、コンクールに応募することなどを実は百目鬼に伝えていない。前回の『春』のときには「まだ早い」と反対されたせいもある。ただ、あの送別会の演奏を誰よりも喜んだのも彼である。終演後にすぐさま駆け寄って、涙を流してくれた。自慢の愛弟子なのだ。陽子はそれを自覚しているだけに、なおさら言えない。複雑な心境なのである。

「ハノンは欠かしていないね。基本をおろそかにしてはいけない」

「はい。すみません」

「もう一度やってごらん。ハイドンの秘訣は明瞭さにあり、だよ」

 百目鬼の苛立ちは理解できる。

 古典をこよなく愛する彼にとって過剰な表現は禁物なのである。ところが陽子ときたら、ハイドンソナタを弾いているときでさえ、頭のなかではフランクを思い描いているありさまなのだ。

 先生が困惑するのも無理はないな、と思う。

「もういい陽子くん。きみは気もそぞろだね」

「先生、あの――」

 よっぽど言ってしまおうか。ヴァイオリンソナタをいま練習しているのだと。これぞ弾きたい曲なんだと。ぜひみてもらいたいのだと。しかしそこは、ぐっと思いとどまる陽子であった。その代わり、

「おからだの具合はどうですか」とたずねた。

「ああ、もうすっかりいいよ。薬も減らしてよいそうだ」

 百目鬼は顔をしわくちゃにして笑った。最近まで肺炎をこじらせ、入退院を繰り返していたのだ。この人に心配かけちゃならないな、やはり黙っていよう、と思う。ピアノ教師の百目鬼を尊敬しているというより、陽子はこの老人を純粋に好いていた。

「ぼくはまだ、食べて飲んで笑っていたいのだ」

 せんせいもういいのー。次に控える子どもがドアからひょっこり顔を覗かせた。ああいいよ、入ってきなさい。と百目鬼は微笑んだ。

 その子と入れ替わりに陽子は、深くお辞儀をして退室した。

 

 遠い山の緑が日毎に濃くなっていく。ひばりが高い空へと歌いながら昇っていく。貨物列車が遠くの鉄橋をゆっくりと渡っていく。さっきから第三楽章レティタティーヴォが耳の奥で反復している。

 光の交差、まんじりと動かない空気、退屈な午後の授業、呪文のような化学式……。

「田宮、授業中だぞ。外ばっかり眺めていないで」

 陽子の心ここにあらずの態度に、煮えた教師が注意を促す。それもまた音楽に聞こえてしまう、最近の陽子である。

「陽子、陽子ってば」

 朱美が目の前で手のひらを振る。ハタと陽子は我に返る。

「陽子、授業は終わったよ。どうしたの、あんた病気」

「病気かもしれないな」そう呟くと。

 よし、帰ろう。やにわに立ち上がると陽子は猛然と教科書を鞄につめて教室を飛び出す。あーん待ってよー、と朱美が後を追う。

「帰り、アイスでもしませんか」

「悪い、朱美。私一刻の猶予もならないんだ」

「つまんないよー、また練習。ここんとこ毎日じゃないの」

 今週中に第二楽章までさらってしまおう、そう決心している。

「陽子、あんた余裕なさすぎ。だいたい……」

 と、靴箱のある渡り廊下の向こうから祐二が歩いてきた。朱美は口を閉ざし、興味津々ふたりの様子をうかがう。すれ違いざま――

「おう」

「やあ」

 するりと祐二は横を通りすぎる。陽子もかまわず靴箱へ急ぐ。

「どうしたのあんたたち。パートナーじゃなかったっけ」

「あいつ」

 陽子はローファーをコンクリートの土間に叩きつける。

「ぜーったい、あっ、といわせてやる。見てろよ松本祐二!」

 唇を噛みしめて目をらんらんと光らせている。燃えているのだ。頭のなかではぐるぐると第四楽章のコーダ部分が鳴り響いている。

 そんな陽子を見て朱美が呆れかえる。

「重症……」

 

 あっ、と言わせることに成功した陽子だった。

 ただしそれは演奏の習熟というよりも、第一楽章が終わると直ちに第二楽章に突入したからである。裕子は目を丸めて驚くと、陽子の強引な挑発に乗ってきたのだが、しばらくするとくすくす笑いはじめ、しまいに大笑いして演奏を中断したのだった。

「いや、まいったよ。思わず弾かされちまった」

 祐二はなお、おかしくってたまらないといったふうに笑い転げ、しばらく演奏を再開しそうになかった。

「真面目にやろうよ、練習」

「ああ、悪い悪い。ゴメン。じゃもう一回最初っから」

 祐二は腕まくりして弓を持ち直し、ヴァイオリンを構えなおし、照れくさそうに、しかし思いっきり芝居がかったセリフを発した。

「田宮陽子。やっぱりきみは最高だよ!」

 今度は陽子が吹きだした。

 

「楽しそうにやっていたじゃないの」

 鍵を返しにいくと、柏木が笑顔でふたりを迎えた。

「ええ、でも先生。だれかさんのおかげで余分に弾いてしまった」

「余分ってなによ。こないだはさっさと帰っちゃったくせに」

「あンときはオマエが練習不足だっただろう」

「オマエって、何様のつもりよ」

「はいはいはい。ふたりとも落ち着いてちょうだい」

 柏木が提案した。

 学校で練習するのはいっこうにかまわないんだけれど、来週から合唱部も本格的に練習するのよね。となると音楽室は使えないってわけ。そのかわりにね――

「練習室を使わせてあげるわ。狭いしアップライトピアノだけど。あそこだったら毎日使ったっていいわよ」

「本当ですか、先生」陽子は飛び上がって喜んだ。

「うーん、でも」と、祐二が浮かない顔をした。

「先生、あのピアノさ、かなり調律狂ってるんだよね。聞いていて気持ち悪いよ」

「あら、そうかしら」柏木先生、いたってノンシャラン。

「狂ってるよ。ちなみにいうと、音楽室のだってオレ気持ち悪いんです。A=442のコンサートピッチがいいんだよね、ホントは」

「イヤなヤツ。絶対音感自慢してるんだ」

「そんなんじゃねえ」

「まあまあまあ……」

 このふたり、仲いいんだか悪いんだか。柏木は延々と続きそうな口げんかを、それでも微笑ましく見ていた。

 

「あ、そうだ忘れていた。ほら、これ」

 帰りしな、祐二は陽子の顔の前にひらひらと紙を振りかざした。

「募集要項ならびに応募用紙。オレのとこは記入しておいたから。来週の末が提出締め切りだから、はやめに書いてよこしてくれ」

「うん、わかった」

 ざっと目を通していると陽子の目は一点に集中した。

「……なに、これ」

「どうした、なんか問題でも?」

「ひょっとして親の同意が必要なの?」

「仕方ないだろ。十八歳未満、未成年者なんだし」

 陽子は目の前が急に真っ暗になった。父親に何と告げよう。

「さあ、腹へった。帰ろ帰ろ」

 祐二は陽子の心配など全然気づいていない様子だった。

 

 

【Ⅱ】アレグロ

 

 緊急家族会議。

    父と母、姉の佳子と陽子の四名が卓袱台を囲む。議題はもちろん、コンクール出場問題について、である。

「陽子、いま何年生だ」まず父親が口火を切った。

「高校三年、です」

「ふむ。それじゃいまどういう時期なのかはわかっているね」

 父、田宮征三は絶対に激高しない。訥々と諭すのだ。それだけにこたえる。悪いのは自分だといつも思い知らされる。

「最近のきみの様子は母さんから逐一聞いている。毎日毎晩ピアノを弾いてばかりいると。深夜まで同じ曲を何度も聴いていると」

「担任の先生からも連絡がありましたよ」

 母が話題を引き継いだ。

「授業中うわの空だって。どうかしましたかって聞かれちゃった」

 母、澄恵は必要以上に深刻にはならない性質だ。だけどさすがにこの件は捨て置けない。正座する姿がそれを物語っていた。

「コンクールに、出たいんです」

 消え入りそうなほど小さな声で、陽子が主張した。

「なぜ、いまなのだね。来年大学に合格した後でもいいだろう」

「他ならぬ松本くんだもんね。あの財産家の……」

「佳子は黙ってなさい」ピシャリと征三が諫める。

「きみは成績も悪くない。このあいだ『進学したい』といったね。それなのに。ぼくは理解できない」

「いまじゃないと、ダメなの」

 陽子は、なぜいまじゃないとダメなのかを、うまく説明できない。理路整然と説得する自信がない。

「なあ、陽子。聞いてくれ」

 征三は煙草をたぐり寄せて火をつける。父親の紫煙が部屋を漂いはじめるのを、一同は目で追った。

「ぼくが高校の時分、同じクラスにピアノの上手な女子がいてね。ハギワラさんというのだが」

「あこがれていたりしてね」佳子が混ぜっかえす。

 ん、まあなと征三が詰まる。澄恵が夫を睨んだ。

「そんな話、はじめて聞いたわ」

「いいじゃないか別に。それはそうと、『バラード1番』という曲を知っているだろう? ショパンだったかな」

 ――知ってるもなにも。大好きな曲。

「ハギワラさんは、学内演奏会でその『バラード1番』をそりゃあ見事に弾いたよ。すごかった。プロみたいだったね」

 征三は若いころ、ロックバンドをしていたと話に聞いている。耳は確かだと陽子は思っている。いまでもビートルズザ・フーを車の中でよくかけている、音楽愛好家だ。

「卒業後ハギワラさんは周囲が予想したとおり、東京の音楽大学に合格した。ぼくらは『絶対にピアニストになるぞ』と噂したものさ」

 父は少し饒舌になっている、と陽子は感じた。

「だけど、その夢は叶わなかったんだ。このあいだ同窓会で彼女に久しぶりに会ってね」

 征三は煙草をもみ消して口の端をわずかにゆがめた。

「ぼくが『ピアニストになったのか』とたずねると、ハギワラさんは『とんでもない、無理だった』と答えた。それからこうもいった。『田宮くん、全国にショパンのバラードを弾く人なんて、それこそゴマンといるものよ』とね――彼女は普通に結婚したそうだ」

 

「でも、それって」陽子の気持ちを代弁して佳子が口をはさむ。

「陽子のいまとは関係ないことじゃない」

「その通り。陽子とは関係ないことだ、だがね」

 あらためて家族を見渡し、征三は説き伏せる。

「それが真実じゃないか。厳しいが現実なのだよ。仮にだ」

 こんな激しい口調の父親は、佳子も陽子も初めてだった。

「陽子にありあまる音楽才能があったとしよう。あったにせよだ。我が田宮家はそれを支えることはできない。きみを立派な音楽家にしてあげたくても、ぼくの稼ぎで音楽大学に入学させることなど、とうてい無理なのだ」

「お父さん違う。私、音大に行きたいとか、そういうわけじゃない」

 陽子は誤解を解こうとするが、征三は取りあってくれない。

「ぼくはあと五年で定年を迎える。だがこの不況ではその保証すら心許ない。勤める会社の状況も、決して良くはない昨今なのだよ。幸い今年佳子は就職してくれた。見通しは立った。あとは陽子だ。そう思っていた」

「私は単にはやく働きたかっただけ。勉強キライだったし」

 自分はさておいて、姉は妹を庇った。

「でも、少なくとも陽子は本気よ。それは認めてあげたら」

「本気だから、いかんのだ!」

 ついに征三は声を荒げた。握るこぶしが怒りを物語る。

「陽子。答えなさい。きみは受験勉強をないがしろにしてこのままピアノを弾き続けるつもりなのか」

「両立するわ」

 陽子は頭の芯がキーンと唸るのを感じた。

「両方するからお願いします。ピアノを弾かせて」

 

「だけどいまの状態だと、陽子どうかしら」

 母、澄恵が静かに問いかける。

「無理してるんじゃないの。中断するのも手段だと思うけれど」

「ぼくはなにもピアノをすっぱりやめろといっているんじゃない」

 征三の能弁は止まらない。

「ひとつの習い事をやめずに続けることは、きみの生きていく糧になると思ったから、ずっと応援してきたつもりだ」

 それは痛いほどわかる。わかるがゆえに辛い陽子だ。

「大学に入って続ければいいじゃないか。たとえば教育大学とか。音楽科だってあるだろう。一年間ぐらい我慢できないのか」

 できない。陽子は思う。それは絶対にできない。いましかない。祐二と二重奏できるのは、おそらくこれが最初で最後だ。

「ほら、ヴァイオリンの松本くん。あの子のおうちだったら、思う存分支援してあげられることでしょう。うちとは事情が違うもの」

「そういうことだ」

 澄恵の言葉に対し、過剰に反応した征三である。

「しょせんは道楽なのだ。ピアノで、音楽でメシが食えるか!」

「ひどいわ」

 陽子はついに爆発し、立ち上がって訴えた。

「私やめない。やめたくない。将来のことなんかどうだっていい」

「聞き分けのないことを」

「ひとりだったらいつだってやめられる。だけど私ひとりじゃないもの。松本くんと演奏できるのは、いましかない」

 ――ワタシヒトリジャ、ナイ。

 祐二の名前を発したときに、身体の芯が熱くなった。

「きみは熱に浮かされているだけだ」

「それのどこが悪いの」

「とにかくだ」清三は声を震わせて宣言した。

「ぼくは反対だ。勝手にするがいい」

 

 遠くの稜線も低層ビルの町並も、みんな霞んでみえる。午前からずっと雨は降り止まない。憂鬱そうに陽子は頬杖をついている。

 第一楽章の出だしはショパンの『雨だれ』に似ている。ぽつん、ぽつんと落ちる水滴みたい。ああ、また思い出している。イヤだな、私、まだあの曲のとりこになっている……。

「お待たせ。さあ練習に行こうぜ」

 祐二がずかずかと教室に乗り込んでくる。周囲の視線なんか全然眼中にない能天気なヤツ。陽子は席に座ったまま動こうとしない。

「どうした田宮。表情暗いぞ」

「私、今日練習パス」

「どうして?」

「今日も明日も、それから先もずーっとパス」

「……とにかく教室出ないか」

 祐二が促すと、陽子はしぶしぶ従った。

「今日は練習ナシでいいよ。一緒に帰ろう」

「うん……ゴメン」

 本当は一緒に帰りたくない。先日の父親との諍いを話したくない。でも、心配そうに様子をうかがう祐二の表情は、いつもと違って、とても優しい。

 傘を差したふたりは、濡れて光る坂の道をゆっくり歩いた。

「なにかあったの?」

「父親に、反対されたの」

 隠したって仕方がない。陽子は思いきって全部をうち明けた。

「なんだ、そんなことか」

 意を決して話した陽子に対して、あっけらかんと答える祐二。

「うちなんかしょっちゅうだぜ。オヤジはいつもオレにいってる。『オマエは才能ないんだから、やめろ』って何度も」

 陽子はうつむいて、濡れた靴の先を見つめている。

「笑えよ。ここ笑うところでしょ」

「笑えないよ」

 やっぱりオンゾーシなんだな、と陽子は思う。デリカシーがないというか。このポシティヴィティにつき合う気力が、いまはない。少しは他人の痛みをわかってくれると期待したけれど。

「オヤジさんの意向なんか無視しちゃえよ。田宮陽子は陽子だろ、自分のことは自分で決めればいい」

「そういうわけにはいかないよ。うちにはうちの事情があるし」

「陽子、それ間違ってるよ」

 祐二なりに懸命に盛り上げようとしているのはわかる。けれども陽子の心は晴れない。話は平行線のまま、気持ちは繋がらない。

 小さな橋を渡って川縁の土手を歩いた。足元の小川は増水していまにも溢れだしそうだ。灰色の濁流はまるで陽子のこころ模様。ぶつかって渦を巻いて、押し流されていく。

「もし祐二くんがいいんだったら」

 そんなこといいたくなかった。いうつもりもなかった。

「だれか他の伴奏を探して」

「おい待てよ。どういう意味だよ」

 立ち停まってしまった祐二を振りきって、陽子は走り去った。

 

「陽子。ご飯よ」

 澄恵が襖を開け、顔だけを覗かせる。

「私いらない……」娘はベッドにうつ伏せたままで返事する。

「食べなきゃダメよ。おりてらっしゃい」

 食卓が億劫だ。父親の苦虫も佳子の作為的なおしゃべりも――。耐えられない。味がしない。喉を通っていかない。

公定歩合の引き下げって、なに?」

「信用金庫にいてそんなことも知らないのか」

「だれも教えてくれないんだもの」

「信じられないな。それでよく勤まるな」

「いいから教えてよ」

 そのとき、玄関からチャイムの音がした。はーい、ただいま。澄恵は軽やかに返して、エプロンを律儀に畳み、玄関へ向かった。

「だれかしらいま時分」と訝しがる佳子。

「さあな」征三は飯を流し込む。「ご近所だろう」

「陽子、あなた、松本さんがいらっしゃったわ」

 えっ。

 陽子も征三も箸が止まった。

「松本祐二くんよ。ほら、ふたりとも急いで」

 玄関の三和土に、所在なさげに突っ立っている祐二がいた。

「どうしたのいったい」

 陽子の問いに答えず、祐二は直立不動の姿勢。そしていきなり、

「陽子さんのお父さんでいらっしゃいますか。ぼくは、松本祐二といいます。突然遅くに押しかけまして申しわけありません」

 と、棒読み調子の大声で宣誓した。

「本日はお父さんにお願いにあがりました」

「……用件をきこうか」

 さすがに吃驚した征三だったが、威厳を保とうと落ち着き払って祐二の無礼を受け止めた。

「陽子さんとぼくはいま、二重奏の練習をしています。来る七月のあたま、あざみ野記念音楽祭新人音楽コンクール、その第一次予選突破を目標にして頑張っています」

「それは知っているよ、だがしかし……」

「どうか陽子さんと一緒に演奏させて下さい。お願いします」

 祐二は深々と頭を下げた。

「いちピアニストとして、それから気持ちの通じ合う仲間として、ぼくは陽子さんが必要なのです」

 ――うーん男だねえ、痺れるー。

 佳子が無責任にエールを送る。それにかまわず征三は、

「うちの子を買ってくれるのはありがたいが、しかしそれはきみの都合だろう」

 諄々と諭すモードに入った。こうなると手強いのが征三である。

「ぼくからしてみればきみも陽子も、問題を先送りしているだけにすぎない。つまり受験から逃避しているように映るのだが」

「それは、違うと思います」

「違う? そうかな。陽子ははっきりとぼくにいわないよ。高三のこの時期、なぜ音楽に没頭するのか。理由を示して説得しようとしない。きみはどうなんだ」

「ぼくも。説明できません」

 陽子が心配げに祐二を見ると、彼の膝はがくがく震えていた。

「説明しようがありません。だけど、おそらく陽子さんの想いは、ぼくと同じじゃないかと思ってます」

 同じ想い。

 その言葉を聞いて、陽子の頬から涙が一滴スーッと零れ落ちた。

 わかってくれていたのだ――。

「いましかない、と思っています。いまを逃せば二度とできないと。お願いです、もう一度検討して下さい」

 必死な願いの後、征三の沈黙は永遠に続くように感じられた。

 

「ふーむ」

 征三は腕を組んだまましばらく思案し続けていた。が、やがて。

「こういうのは苦手でね。母さん、あれを持ってきてくれ」

 澄恵は、はいはい、といいながら台所の奥へと向かった。

「つまりきみたちは説明したくないと。そういうわけか」

 自嘲するかのように征三はにが笑いを浮かべた。

「それなら大人のぼくはこういってやる。陽子にはもう宣告したのだがね――勝手にしやがれ! だ、悪役は退場するよ」

 そこへタイミングよく澄恵が差し出したのは、件の応募用紙。

「ぼくの名前は書いてある。持っていきなさい」

 祐二の目がぱっと輝いた。

「ただし」征三は念を置くのを忘れなかった。

「来年受験に失敗しても、それを言い訳に使うなよ」

 ひとこと言い残して茶の間に引き上げる父親の背中に向かって、再び深々と頭を下げる祐二、それに陽子だった。

「ありがとうございます」

 澄恵と佳子は、良かったあー、と手を取り合って喜んだ。陽子、松本くんに感謝しなくちゃね。母と姉からの応援に照れつつ、祐二は朗らかに声をかけた。

「明日から練習再開だ。頼むぜ陽子、さん」

 目じりを拭いながら陽子は無言でこくりとうなずいた。

 

「本日はわたくし浅川朱美の案内でお送りします。突撃しますのはいま話題のデュオ、松本祐二と田宮陽子であります」

    ――カーット!

「浅川、悪のりしすぎだよ」

 映像部の面々が苦情を申し立てる。

「いいの。続けるよ、スタート押して……エートただいまわたくしたちは音楽室の前に来ておりますが、おやどうしたのでしょう。練習室前はすでに黒山の人だかり。どうやら合唱部のみなさんですネ」

 朱美は扉に耳をそばだてている彼らにマイクを向ける。

「お話をうかがいましょう。こんにちは。新聞・映像部の合同取材です。みなさん、いまなにをなさっているんですか」

「松本さんと田宮さん。ふたりの練習を盗み聞きしてます」

「それはまたどうして?」

 朱美の質問に、一同調子に乗って答える。

「だって、ねえ。これを聞かずしてなにを聞くというのでしょう」

「だいたいこんなの隣で演奏されて合唱の練習をしろったって、ね」

「そりゃ、無理ってモンですよ。迷惑な話だよ」

「反則よね」「そうよね」……かしましくさえずり始める。しかも、

「あんまりです。彼らを聞くとやる気が失せる。凄すぎるんだ」

 銀縁眼鏡の合唱部部長ですら弱気な発言をする。

 朱美もそれを受け、取材活動にいそしむ。

「以下の発言、校内新聞に掲載してもよいでしょうか」

 するとそのとき。

「こらぁ、きみたちなにを騒いでいるんだ」

 柏木教諭の登場。合唱部の一同はしずしずと音楽室に向かった。

「まったく。んで、浅川さんたちなにやってんの」

「取材です。許可は取ってあります」

「ふたりを取材するのかな」

「そうです。あの、先生からもひとことコメントを」

「コメントもなにも」柏木呆れている。「べつにないわ。それより」

「それより」

「見ればわかるわよ。ふたりの練習を見学したらいいんじゃない」

「入っていいんですかー」取材班いっせいにわぁっと声を上げる。

「ただし条件があるわ。カメラはナシ。神経質になるから」

 映像部カメラクルーは、えーっ、と不服の意をあらわにする。

「浅川さんだけ入室見学を許可します。田宮さんの親友だもんね」

 横暴、ひいきだ、の声を後目にふたりは練習室に入っていく。が、実は結構その気になって、ワクワクしている柏木先生であった。

 

「お邪魔しまーす」

 朱美が小声で唱えながら二重扉をゆっくりと開けるやいなや。練習室は怒号と罵倒が飛び交う、いわば一種の戦場と化していた。

「ぼさっとするな、もう一回だ。練習番号のD」

「いわれなくたってわかってるわよ」

 陽子は猛然とディミニッシュスケールを駆けのぼる。

「いまやってるのは第二楽章」柏木が耳打ちする。朱美はメモる。第二楽章、練習番号のD、っと。

 すると唐突に演奏が中断される。

「そうじゃないだろ、タメろよここは」

「そんな記号は書いてない」

「書いてなくたってわかるだろう。フレーズのてっぺんだ。もっと長く伸ばしたいんだ、この音。」

 ほら、こうだと、祐二はヴァイオリンのパートを独奏して示す。

「な、だからオレの音をよく聞いて待てよ」

「祐二のは伸ばしすぎ。イヤらしいよそれって」

「オレのどこがイヤらしいんだよ」

「だってそんなふうに弾いてなかったよ。もっとインテンポだよ」

「他人の演奏だろ。CDは参考に留めろっていってるじゃないか」

「文句があるんだったら、あんなスゴい演奏を聴かせないでよね」

 ふん、と鼻息荒く、祐二は再び弾き始める。一小節後には直ちに食らいつく陽子だ。下からぐいぐい突き上げるような旋律の周囲を、一六分音符のアルペジオが絡みついてゆく。

 壮絶! 朱美は思う、これのどこが悪いんだろう。

「先生。私ふたりの呼吸、バッチリに聞こえるんですけど……」

「確かに。気持ち悪いほど寄り添っているわよね」柏木はうなずく。

「ユニゾンがひとつの音に聞こえるわ。息はピッタリよ」

「このふたり、なにが不満なんでしょうね」朱美は首をかしげる。

 またもや演奏は途中でストップ。

「いいか、陽子。レコードはそうかもしれないけどな。現実もっとダイナミックに表現しなきゃならないんだぜ。フォルテが弱いよ」

「私はそう思わない。この楽章はそんなに大げさじゃない」

「じゃあどうしたいのさ」

 祐二は前髪を掻きあげて額にしたたる汗を拭く。

「もっと端正な。うまくいえないけど。精確なテンポでいきたい」

    陽子は自分のハンカチを取り出す。そんな心遣いにも気づかない祐二は、伴奏者の意見をせせら笑う。

「楽譜通り、お手本通り。くそまじめでつまんない。それをなんていうか知ってる?」祐二は時おり恐ろしく残酷にもなる。「お嬢様ピアノっていうんだぜ」

「誰がお嬢様ですって。私違うわ」ハンカチを握りしめる陽子。

「祐二こそなによ、御曹子のくせに」

「その呼び方よせっていってるだろう、キライなんだよ」

「なんどでもいうわ、オンゾーシ。目立ちたがり屋、分からず屋。こう弾いたら審査員に受けるぜ、なんて、そんな魂胆が丸見えよ」

「てめえ許さねえぞ」

 怒りをぶつけるようにもう一度弾き始める祐二。応える陽子のピアノ。激しく火花を散らし、再開のゴングが鳴った。

 

「先生。退散しましょうか」朱美はついにギブアップする。

「なんか見てるだけで、こっちまで息が詰まってくる」

 そうね、と柏木は同意する。それから独り言を呟く。

「これは闘争的な音楽ではないんだけどなあ……」

「これじゃ記事にならないなあ」廊下に出た直後、朱美もボヤく。

「先生。音楽やってるひとたちってみんなああなんですかね」

「まさか」柏木は慌てる。「あれは特殊な例よ、見たことないわ」

「そうですよね」朱美は壁にもたれかかって、ほうっと息を吐く。

「でも、うらやましいな」

「そうよね。一期一会。あんなに曝けだしあえる間柄はそうそうないものね」

「それを聞いて安心しました」朱美は安堵の表情を浮かべる。

「いつの間にかあのふたり、名前、呼び捨てあってますものね」

「ちょっと妬ける?」

「全然」

 少し間があって、それからおおいに笑う教師と生徒だった。

 

 

【Ⅲ】レチタチィーヴォ~ファンタジア

 

 百目鬼先生はレッスンの前に紅茶を淹れる。砂糖は入れない。砂糖なしを生徒にも勧めて、それから自分の分を啜る。好きな煙草は医者に止められている。よもやま話をしながら百目鬼は生徒の心理状態を計る。一種のカウンセリングのようなものだと陽子は思う。幾度か悩みを相談したものだ。

「コンクールに出るそうだね」

「あ、はい……」

 ――どこかで聞いたのかな。ばれてしまった。

「水くさいな陽子くん。出るならでるといってくれればいい」

「すみません」

「こないだきみのお父さんがいらっしゃったよ」

「えっ。父がですか」驚いて紅茶を零しそうになる。

「きみのお父さんから聞いたのだよ。コンクール出場をどう思われるのか、とね。ぼくが知らないというと、なお狼狽していた」

「うちの父、失礼なことをいいませんでしたか」

 陽子は消え入りそうに尋ねた。「音楽でメシが食えるか」の暴言をにわかに思い出したのだ。あの剣幕で百目鬼に詰め寄ったのかと。

「いやいや。いたって真剣だったよ」紅茶茶碗を机の縁に置く。

「お父さんは率直にこういったよ。私にはどうすればわからない。コンクールに出場させてあげたい。ただしいまは時期が悪い、と」

「ほんとうですか。私てっきり……」

「うむ。それでぼくはこう答えたんだ。人生一度きりです、好きなようにさせたらよろしい、と」

 それから立ち上がって腹の底から笑い放った。

「青春に安全な株を買ってはならない、と。だれかの受け売りなのだがね――さあ陽子くん弾いてみたまえ、フランクのソナタを」

 

 いつもの倍緊張して、第二楽章までを弾き終わった陽子である。ひとり通しで弾くのも、思えば今日が初めてなのだ。乱暴な部分が多々あった。呼吸が乱れ、終わったら息があがってしまった。

 ――ダメだこんなの。先生、全部お見通しでいらっしゃる。

「たいへんよろしい」

 しかし陽子の予想とは反対に、手を叩いて誉める百目鬼だった。

「予想以上に弾けている。随所に注文なきにしもあらずだが、いまのきみだったら、自分で修正できるだろう」

「いいえ先生わからないのです」

 陽子は訴えた。どう弾けばいいのか、正解が見つからないのだ、と。その問いに答える代わりに百目鬼は、逆に陽子を試した。

「第三楽章を弾いてくれないか。あの、至上の三楽章を」

 陽子はまったく準備していなかった。楽譜も持ってきていない。

「覚えているところまで弾きたまえ」

 待ったなし。

 観念した陽子は目を瞑り、呼吸を整えて、鍵盤に指を静かに下ろした。頭のなかでおぼろげに浮かんでいる第三楽章の音像が結ばれていくのを感じた。陽子は鍵盤に指を沈めて、最初の和音を奏でる。楽譜なしでも覚えているものだ。指がひとりでに勝手に動く。なんと不思議な感覚。

 しかしすぐに休止。ここは独奏の部分。

 陽子の脳裏に、祐二の音色でヴァイオリンの鋭いトリルが鳴っている。この曲唯一のカデンツァ。祐二だったらおそらくこのくらいの滞空時間で先半弓を伸ばしきるだろう。

 たっぷり待った陽子は、細心の注意を払ってピアニッシモの音を丹念に置いていく……。

「そこまで」静かに百目鬼は制す。

「よく相手の音を聞いている」

「先生、私――」

「いまそこにかれがいただろう、それを感じたね」

「はい」

「それでいい、それでいいのだ。それこそが二重奏なんだ」

 百目鬼は陽子に近づき肩を叩いた。嬉しくてたまらない様子で。

「それでこそぼくの愛弟子だ。ありがとう」

 

「ふうん。そんなことがあったんだ」

 昼休み。祐二はサイダーをラッパ飲みする。瓶のやつをいまどき飲めるなんて貴重だぜ、購買さまさまだよな、といいながら。

 「でね。祐二にお願いがあるんだけど」

「なんでしょう」

「次回のレッスン、一緒に来てほしいの。百目鬼先生にみてもらいたいから。ね、いいでしょ」

「オレはかまわないけど」

 祐二は意地悪そうな顔をしてみせる。

「へんな具合にいじくられるのはゴメンだぜ。予選、間近だしな」

「それはないと思う」

 陽子は祐二の厭味にもかなり慣れた。いってみせているだけで本心ではないと、手に取るようにわかってしまうのだ。

「先生はおっしゃるの。ぼくにはもう教えることはないって」

「それを真に受けてんの?」

「自分は古典の範疇しか示してやれない、ロマンの時代はきみ自身で解釈したまえって。どういうことなのか、祐二わかる?」

「オマエそれもわかんないのかよ。それでよく……」

「ピアノ弾いてるな、でしょ。いわれなくたってわかってるって」

 陽子は芝生の上に仰向けになる。爽やかに晴れた空を仰ぎ見る。その抜けるような青が眩しい。遥か上空、飛行機雲が伸びていく。

「先生にね、聴いてほしいんだ」

 ひとり語りのように陽子は呟いた。

 ――もうすぐ夏、か。

 

 澄恵は最近、陽子のピアノを聴くのが好きだ。陽子の弾く音が、以前とまったく違って聞こえる。穏やかになってきたと思う。

 実はずっと苦痛だった。夕餉の支度の時間と重なる陽子の練習が煩くて辟易していたものだ。いつからだったろう、そんな感情を抱き始めたのは。陽子が中学に入学した頃だろうか。

 澄恵にとって、娘の弾くクラシックは理解範疇の外側にあった。いつもピアノと格闘している印象だった。なにかしら大きな存在と対峙して、それを克服しようとしているかのようだった。

「ふはぁ、のど乾いた」

 陽子が台所に入ってくる。勢いよく冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出してコップに注ぎ、一気に飲み干してしまう。それから、

「ね。お母さん。教えて」とニッコリ。

 ――たしかにこの娘は変わったわ。

「あのさ。お父さんと知り合ったときって、どんなだった?」

「なんですいきなり藪から棒に」カーッと顔が熱くなる澄恵。

「いいじゃない照れなくたって」

 母子の会話も年頃になれば、微妙に変化する。陽子とは娘らしい話をした覚えがついぞない。だから困る。戸惑う澄恵である。

「ま、出会いは普通だったわね」

 動揺を押し隠して語り始める。

「いつも不機嫌そうで、なんだか怒っていて。一度こうと決めたら頑固で。私はあんまり得意じゃなかったな」

「へえ、そうなの」

「それだけならいいけど。理屈が多くって。観念的というのかな、ずっと苦手だったわ――結婚するまではね」

 陽子もまたこのように過日を語る母は初めてで、意外だった。

「ひょっとしていまもキライ?」

「まさか」澄恵は笑い飛ばす。

「大好きよ、出会ったころよりも」

「よかった!」

「あなたたち佳子と陽子が生まれてからかな。急に優しくなった。ふたりはぼくの宝だ、ずっと守ってやる、なーんてね。大変身よ」

 それから澄恵はいいことを思い出し、目を輝かせた。

「ね。陽子、あれ弾いてくれない?」

「あれって、なにを」

「えーっと、確かシューベルトの。ほら五年生のときの発表会の」

「楽興の時?」

「そうそう。あれが聴きたいわ」

 了解っ、と告げて、陽子はピアノのある部屋へ向かった。

 おもむろに弾きはじめる『楽興の時・第三番』である。もちろん暗譜、そらで弾ける。

 大好きだったから。お父さんが「よくやった、すごいぞ陽子」と誉めてくれた、特別な曲だったから。

 澄恵もまた思い起こす。

 あのときの征三の喜びようといったら……。でも、いまの陽子が弾くシューベルトはもっと艶やかで柔らかい。こころに沁みこんでいくよう。

 そしてようやく理解する。娘が、いままでなにに立ち向かってきたのかを。ここまで成長してきた道のりを。

    短調から長調へと、さりげなく転調を重ねる小品を聴きながら、ふたりのわずかな隔たりが和やかさに溶けていくのを、澄恵は感じていた。

 

「まえから疑問に思ってたんだけど」

 新聞部の朱美は、常日ごろ好奇心旺盛な質問をする。

「松本くんってさ、携帯持ってないの?」

「持ってないよ、キライだもんね」

 陽子が代わりに答えてあげる。

「あんなもの持っていて縛られんの、まっぴらゴメンだね」

 足元の小石を蹴った。石は放物線を描き小川に着水する。

「こないだもゲルギエフが振るからって観にいったんだ。そしたらどっかのバカが着信しちまって『春の祭典』が台無し。許せねえ」

「怒ってますねー」

「そうですねー、じゃ次の質問。オンゾーシの呼び声高い松本くんですが、実際どういう資産家なのか、謎に包まれておりますが」

「謎でもなんでもないよ」

 祐二、肩をまわしたり伸びしたり。ぶっきらぼうに答える。

「不動産業。パチンコ屋。温泉センター。サウナ風呂。焼き肉店チェーン。ちょっと金利の高い金貸しと、手広くやってます、松本興業」

「すごいですねー」

「そうですねー、では最後の質問」

「オマエらオレをバカにしてねえか?」

 辺りじゅうに響く怒鳴り声。

「してません。陽子のお師匠さんは百目鬼先生だけど、松本くんの先生は一回も登場してません。これも謎です」

「たぶん登場しません」

 興味なさげに草笛を吹く、ピーッ。

「教えられないんだ」「プライベート詮索されるのホント嫌がるね」

 朱美は小声でケチ、と囁く。陽子はクスクスっと笑う。

「まあ、いろいろとご意見もあるでしょうけれど」

 キザったらしく前髪をぱさっとかきあげ、

「ひとりぐらい謎めいたヤツがいたっていいじゃないですか」

 言い捨てるやいなや、あっかんべーをして走り去っていく。

 

「朱美チャンにはああいったけど」

 祐二は耳をそばだて慎重に調弦する。

「オレはたくさんの指導者に習った。でも師匠と呼びたくなる人はひとりもいないんだ」

 祐二の家に来るのは今日で三回目だ。部屋はコンクリート打ちっ放しで天井が高い。音がよく反響する。天窓から陽光が差し込む。ここに来るたび陽子はいつも、いいな、うらやましいと思う。

「オレは陽子がうらやましいよ。尊敬できる先生についていて」

 祐二は片目をつぶって弦高の具合を確かめる。

「唯一オレの信頼できる先生、いないでもないけど。そいつはいまアメリカに住んでいる」

 ヴァイオリンをそっと置き、続いて弓を仔細に点検する。

「兄貴だよ。カーティス音楽院でチェロを学んでる。この夏にはタングルウッド音楽祭に参加するってさ」

「すごいんだ」

「そうでもないよ……」フウッとため息をつく。

「なあ、陽子。オヤジさんの話で『ショパンが弾けるひとは全国にゴマンといる』っていうのがあっただろう。ヴァイオリンもそれと同じく、さ。いやもっと大変なのかもしれない、弦楽全体は」

「そうかな。祐二くらい弾けたらどこへいっても通用……」

「するもんか。オレぐらいの年齢だったら、すでに世に知れてなくちゃダメなんだ」

  祐二は弓毛の張りを確かめ、少しネジを絞め、グリスを塗る。

「こんな地方で燻っていたってさ。オヤジは口癖みたいにいうぜ。ヴァイオリンでメシが食えるか、って」

「それ、私もいわれた」

 陽子は必死で祐二を持ち上げようとする。

「でも、祐二ならプロになれるよ。上手だもん」

「オヤジはこういうんだ」

 祐二は陽子の話などまるで聞いていない。

「『この不況だ。バブルの頃ならともかく、今日びクラシックなど聴く層はますます減っている。一方、演奏家は増えるばかり。よほど突出した才能がないと成功はまず無理だろう。周りを見まわしてみろ。みんなが聴くのはたいていがポップス、ロック、ラップの類。クラシックのニーズはもはやない』ってな」

    左中指の爪を噛む。

「『衰退していくものには見切りをつけろ。兄の教育に失敗した、オマエは経済学部に進んで、簿記と不動産鑑定士の資格を取れ』だとさ」

 

「じゃあそうすれば」

 陽子は聞いているうちにだんだん腹が立ってきた。祐二の父親にではない。祐二にである。さっきから言い訳ばかりではないか。

    祐二、ずるいよ。陽子は詰め寄る。

「こないだウチに来てさんざんカッコいいこといってくれたよね。あれはぜんぶ口からでまかせなのかな」

「どうしたんだよ。いきなりいきり立って」

「いましかない、っていったよね。想いは同じだと思うって。ねえあれはみんなウソ? 私、あのときとっても嬉しかったよ」

「ウソじゃない。オレはただオヤジのセリフをいったまでで……」

 今度は陽子が冷静さを失い、聞く耳を持たなくなった。

「わかってくれてるって思ったよ。気持ちが通じてるって。それ、私ひとりで思いこんでいただけなのかな。祐二は……」

 陽子は言葉が詰まる。だけど泣くもんか、と思いとどまる。

「祐二はぜんぜん違ったってワケ。そんな気持ちでいただなんて。私バカみたい。信じてたのがバカみたい」

「陽子待てよ、誤解だよ。オレ、そんなつもりでいったんじゃ」

「私、もう弾かないから!」

 陽子は乱暴にドアを開け、足早に去っていった。祐二のまわりをしらけた空気が取り囲んだ。コンクリートの壁に頭を当てこぶしを叩きつける祐二だった。

 ――最低だ、最低だオレって。

 

 ――最低、最低だ私って。心にもないことをいって。怒っているだろうな、きっと。オレこそ演奏するもんか、って思ってるはず。

 陽子は夕闇迫る町を走る。どれだけ走ったのかわからない。いまこの辺がどこだかわからない。ただどうしようもない気持ちを振り切ろうと遮二無二走る。頭がズキズキする。心臓が破裂しそうだ。

 予選前のこんなときだから、不安に揺れる祐二を理解しなくちゃいけないのに。ただ不快なだけで、祐二との絆を断ってしまった。パートナー失格。逃げるだなんて卑怯。悪いのは絶対に私。

 そのとき。

 クラクションが鳴る。陽子ー、と呼ぶ声がする。

「陽子、きみこんなところでなにをしてるんだ」

 声の主は征三だった。営業まわりの最中だった。

「お父さん?」

    ようやく陽子の足が止まった。

「いいから乗りなさい」征三の指図に素直に従う陽子だった。

「ずいぶん走ったようだね」

 陽子は荒い息のまま押し黙っている。なのに征三ときたら、

「しばらくそこら辺をドライブでもしようか」

 などという。こんなに優しげな父は久しぶりだ。

「いいのサボって? 仕事の途中でしょ」

「子どもが心配するんじゃない」

 征三は右に大きくハンドルを旋回させた。

 

「私、松本くんと決裂しちゃった」

「そいつはまずいな」

「許してくれたお父さんに申しわけないけど――ゴメン」

「修復不可能か? それは」

「たぶん。ムリだと思う」

 山道を走る。この標高の低い山から町全体を見下ろせる。征三はこまめにギアを変え、曲がりくねったカーブをゆるやかなスピードで登ってゆく。

 ――お父さん、意外と運転上手なんだ。陽子は素直な気持ちになる。乱れた調律が正確にチューニングされていくみたい。

 今日の経緯を陽子は徐々に打ち明けた。

「なるほどね。ぼくは松本氏の気持ち、痛いほど理解できるな」

「どっちの松本氏?」

「どっちも。しいていえば父親のほうかな」

 やがて車は山頂のパーキングに停まる。征三は煙草に火をつけて少し窓を開ける。

「なあ陽子。ぼくはこれでも楽しみにしていた。今回の演奏をね。少し考え方を変えてみたのだよ。クラシックも最近好きになった。ほら、いまこれを聴いているんだ」

 カーステレオのプレイを押した。壮大なオーケストレーションチャイコフスキーの『弦楽セレナード』だ。

「悪くないね。ぼくはロック一辺倒だったけど、陽子をみてるとクラシックもありかなと思うよ」

 あまりにも綺麗、しかも大袈裟。灯りはじめた町並の眺めが妙にマッチしていて。チャイコフスキーはなんだか元気が湧いてくる。

「その表情だよ、その表情が陽子の一番いい顔だ」

「そんな、照れるよ」

 ――なにいってんだか、お父さんたら。

「その表情だったら会いに行けるね、かれのもとへ」

「お父さん?」

「このあいだは松本くんが男をみせた。今度は陽子、きみの番だ」

「……うん」

「さあ、いくぞ。松本の家まで送ってやるよ」

 征三はイグニッションキーを回し、勢いよくエンジンを吹かせた。

「ところでな。もう一曲陽子に聴いてもらいたいんだが」

 ディスクを入れ替える。快活なエイトビートとハーモニカの朴訥な響き。陽子は即座に気づく、征三の大好きなビートルズだ、と。

「これ、『プリーズ・プリーズ・ミー』でしょう」

「ご名答。それでこの曲なんだけどな――」

 まるで少年のように目を輝かせて、珍説を披露する征三だった。

「さっきの『弦楽セレナード』と似てないか。影響を感じるんだがどうだろう?」

 思わず吹き出してしまう父と娘であった。

 

 

【Ⅳ】アレグレット・ポコ・モッソ

 

  いままで緊張とはおおよそ無縁の祐二だったが、今日は違った。

 ――こんな凄みのあるじいさんははじめてだ……。

 普段同様に百目鬼はポットに注意深く湯を注いで紅茶を淹れる。祐二にも勧める。砂糖壺は見あたらない。苦いのが不得意な祐二は閉口するが、えいっとばかりに飲み干し、話題のきっかけを探り、

「先生は古典以外は指導なさらないのですか」と問うた。

「それは誤謬がある。正確にいう。古典ならある程度範を示せる。そういう意味だ」

 祐二はのっけから百目鬼のただならぬ迫力に気圧される。

「ロマン派や印象派を否定しているのではない。ただし得意ではない」

 先生は男に厳しい。でも、と陽子は思う。キビシすぎるみたい。

「松本くん、といったね」

「はいっ」祐二は思わず姿勢を正しくする。

 ――なるほど確かに陽子の師匠だ。彼女の頑固さ、妥協のなさはこの老人によるものか。いつもこんなじいさんを相手にしていたら気丈にもなるだろうな。

「ぼくはヴァイオリンの奏法など知らない。楽器の構造も知らぬ。むろん弾けやしない。ただし善し悪しは分かるつもりだよ」

 祐二はもう凍りつきそうな心持ちだった。

「では弾きたまえ。もちろん四楽章全部をだ」

 

 ある意味ホームグラウンドにいる陽子は、比較的冷静だった。

 ――どうしたの祐二、落ち着いて。平常心でいこう。

 陽子がどっしりと構えれば構えるほど、焦る祐二である。

 ――わかってる。でも、ダメなんだ。どうしようもなく緊張しているんだ。なんだか自分じゃないみたいなんだ。

 ――いいよ、ついておいで私に。

 フランク、ヴァイオリンソナタイ長調。第一楽章の演奏開始。

 陽子はいざとなると肚が据わる質である。その度胸満点のピアノに導かれて、及び腰のヴァイオリンが引っ張られていく。

 序盤、弓を持つ手が震えるほどあがっていた祐二だが、少しずつ軌道修正して調子を取り戻す。陽子の提示するフレーズに対してもビビッドに反応する。

 ――そうか、そう来るか。ならばこうだ。

 第二楽章に入る。普段の感覚が蘇り、ようやくふたりのバランスがイーブンとなった。伸ばす伸ばさないで意見が分かれた部分へとさしかかる。

 陽子は一瞬間を置いた。僅かにタイミングをずらして着地する。ダッ、ダーン!    和音連打は絶妙に、ヴァイオリンの奏でる旋律の頂を裏側から照射する。陽子は掴めたっ、と心の裡で快哉を叫ぶ。祐二も敏感に反応し、音で応えた。

 ――これだ、この間合いだ。もう忘れないぞ。

 よかった。いつもの祐二に戻ったと安堵する陽子だった。

 続く第三楽章は、ふたつの音の交歓である。光と影が絡み合い、あるいは分断され、再び平行に相対し、やがて合致し高みに至る。

 ――このまま終わらないでいたいな。ずっと弾いていたい。

 陽子の切なる想いは第四楽章にそのまま引き継がれる。ふたつのパートは同一の旋律を交互に繰り返す。カノンだ。陽子がうたうのを祐二が追う。音を通じてじゃれあっているようだ。

 ――ここまでおいで。

 どこまでも続くような愉悦の旅路。ふたりは手に手をとってクライマックスへと向かう。

 

「たいへんよろしい」

 百目鬼は立ち上がり手を叩き迎え入れる。

「爽やかな演奏だった。じつに見事だった」

 ふたりは弾き終わった後もしばし呆然としていたが、我に返ると百目鬼に向かって感謝の意を捧げた。

 ――ありがとうございます。

「陽子くん、よく、ここまで到達したね」

 百目鬼は陽子に握手を求める。

「きみはぼくの誇りだ。もはやぼくが教えることはない」

「先生――」陽子は言葉にならない。

「飛んでゆきたまえ。きみはもう巣立つときなのだ……」

 祐二はそんな師弟を羨望した。そして百目鬼の言葉を待つ。

「松本くん、陽子くんをよろしく頼むよ」

 その言葉に祐二は、はい、と答えて――しかし。

百目鬼先生。どうかほんとうのことをおっしゃってください」

「どういう意味かね」

 百目鬼の眼光が鋭く祐二を射抜く。

「知りたいのです。オレ、いや私になにが欠けているのかを」

 祐二は必死で請うた――教えてください、と。

 

「技量をいえば、きみは満点なんだよ」

 百目鬼は西洋椅子に座って、祐二を上目遣いで睨めつけた。

「陽子くんとケタが違う。それは自覚していると思うが」

 やっぱりそうか、といささかがっかりする陽子だった。

「腕前には文句のつけようがない。ただし」

 出た、先生の「ただし」が。陽子は祐二をそっと見守る。

「どうしてそんなに簡単に弾くのかね」

「簡単に、ですか?」

「そうだ。きみのヴァイオリンは響きこそ華麗だが、ただそれだけなのだ。懊悩も逡巡も煩悶も悔恨も、まるでない」

「……」

「音符をただ連ねるのが音楽じゃないよ」

「先生。それってひどすぎます」

 陽子の反論に、百目鬼は応じず。祐二の臓腑をえぐりとる。

「例えばだ。先日陽子くんが独奏で第三楽章を弾いてくれたがね。彼女がイメージしたきみのヴァイオリンは、現実のきみなんかよりずっと良かったよ」

 祐二は力無くうなだれる。さらに追い打ちをかける百目鬼

「陽子くんの想像力にすらきみは達しておらんのだ。すなわち」

 容赦なく切り結ぶのだった。

「精神が未熟なのだ、音楽家として」

 

 しばらく無言で立ちつくす祐二だったが、やっとの思いで言葉を絞り出す。

「私は、これから、どうすればいいのでしょうか」

 百目鬼は黙して磨り硝子の向こうに見える山河を仰ぐ。おのれのなかに沈殿する感情をそっと取り出してみる。

 ――老いぼれの境地は短い。残された時間などほとんどない。ぼくは嫉妬する。きみの若さに、きみの無自覚に。ありあまる才を有しながら、徒に浪費するきみを。陽子を独占するきみを――

「ヴァイオリンをどこで買ってもらった」と、祐二に問い質す。

「覚えて、いません」

「いくらだ」

「わかりません……」

 祐二は恥じる思いで消え入りそうだった。

「そうか。だがこれからの音楽家がそれでは困るな」

 錯綜する感情にやっと折り合いをつけた百目鬼は静かに微笑み、

「知ることだ――」一閃の雷、轟くが如く喝破する。

「知ることだ。その一挺のヴァイオリンにどれだけの歴史が潜んでいるのかを。どれだけの富と権力が費やされてきたのかを」

 百目鬼は祐二の両肩に手を置き、渾身の力を込めた。

「きみたち若者にとって、困難な時代の始まりだ。この世の憤怒や社会の不条理を乗り越えてゆく覚悟はあるか!」

 祐二も陽子もその迫力にただただ圧倒される。

「怠惰や憎悪にうち克ってゆくのだ。そのために学ぶのだ。培った才能を弄んではならぬ。音楽がなすべきはなにか。美とはなにか……考えることだ」

 老人の言葉に胸を衝かれるふたりだった。

 おそらく半分も理解できなかった。祐二にも陽子にも正直言って難しすぎた。

 ただ、想いだけは残るだろう。

 これは百目鬼から若いふたりに贈られた、心づくしの花束なのである。

「智を携えるものこそが、真の愛を獲得できるのだ」

 

 

「メッタメタにやっつけられちゃったね」

「ああ……もうズタズタボロボロ」

 祐二はよいしょっといって、河原に腰を下ろす。せせらぎが耳に心地よい。学校の行き帰りにいつも通る小川の土手である。陽子は祐二の横に座る。しばらくのあいだふたりは黙りこくっていた。

「でもさ、オレ不思議だったんだけど」

 祐二はぽつり、ぽつりと語り始めた。

「図星、言い当てられて、カーッとなって。最初はコノヤローと思ったんだけど、なんか納得しちゃって。でも――」

 傍らにあった野草を摘み、適当に指で扱く。唇にあてフッと息を吹きつける。ピーッ。祐二お得意の、草笛の完成。

「なぜかイヤな気分じゃなかった。むしろスッキリしたよ」

 祐二は『故郷の空』を吹く。まさに夕空は晴れている。

「でも。すごいね祐二は」

「なにが。草笛か」

 違うよ、と陽子はいった。

「あんなに激しい先生を見たの、初めてだったもん。私になんか、なんにもいってくれたことがないよ。ちょっとうらやましかったな」

「陽子はマゾかよ。オレちびりそうだったぜ、実際」

「それだけ見込まれたんだよ……」

 百目鬼のいう「もう教えることはない」はおそらく真実だろう。今後先生から教授されることはない。甘えは許されないのだ。そう思うと陽子は少し寂しくなった。

 終わりと始まり。

    師弟関係は終焉を迎えた。しかし陽子の隣には信頼できる新しいパートナーがいる。

「さっきからなんだよ。ブルーになったり、ニヤニヤしたり」

「……教えない」

 ――この野暮天。だいッ嫌い。

「オマエ、気味悪いぜ」

「あーっオマエっていった。いうなっていったじゃない」

 陽子は祐二を突き飛ばす。バランスを失って斜面につんのめる。祐二は怒鳴る――なにすんだよ、危ないじゃないか。

 それを見て陽子は笑い転げる。それにつられ祐二も笑い始める。冗談めかして陽子は言い放つ、思いきって芝居っけたっぷりに。

「松本祐二、やっぱりきみは最高だよ!」

 屈託ないその笑みに、祐二の気持ちはいつになく素直になった。

 

「陽子。実際どう思ってる? オレのこと」

「えっ」

 急になにを言い出すのだ、陽子は焦った。

「やっぱり先生がおっしゃったように、簡単に弾きすぎてるかな」

 ――ああなんだ、ヴァイオリンのことか。

「これでもオレなりに努力しているんだけど。なんとか表現しようとな。その、懊悩だとかなんだとかはわからないにせよ、そんなに薄っぺらに弾いてるかな」

「薄っぺらとか先生いわなかったよ」

「オレがそう思っちゃうんだよ。深みに欠けるってさ」

「あのね、祐二ね」

 陽子は率直な気持ちを伝えようと思った。

 

「私、祐二のヴァイオリン、大好きだよ」

「えっ」

 思わずドキッとしてしまう祐二である。

 ――どうしたオレ、なにを期待してるんだ。瞬間、身体の芯がカアーッと燃え上がる。

「どんなところが、だよ。その……」

 しどろもどろ。でも、訊かずにはおれない。

「ぜんぶだよ。雄弁なんだよね、祐二のヴァイオリンって。私ね、練習のあいだずーっと、ああいいなーって思ってる」

「ホントに?」

 信じられないといった表情を浮かべる祐二だ。

「うん、ホントだよ。第一楽章でグイッってポルタメントかけるでしょ。あれ最高。それと低音に飛躍するとき指板がキュイって鳴るでしょ」

「ああ、なるたけ鳴らさないように気をつけてる。欠点なんだ」

「そうなの? あれがいいのに」

「あれがいいのか? ヘンなの」

「あれがいいの――あと、第二楽章のダブルで駆け上がるスケールも背筋がゾクゾクしちゃうし。それから第三楽章はじめのカデンツァも。フォルテッシモでズッ、ザーン! カッコいいっ、あそこでいつも鳥肌立つんだ」

 ――陽子ってこんな性格だったっけ。目の奥がチカチカしてくる。

「でもね、いちばーん好きなのは第四楽章。祐二っていつも最後はアッチェレランドかけるじゃない。極端に速くなるでしょ」

「あれは、楽譜にそう指示してあるだろう」

「でも祐二ハシるよ。行けーって。それがたまらなく、いいの」

 ――そんなこと大声でいって。だれかが聞いてたら誤解するぞ。

「あなたから出てくる音のぜんぶ。甘ーくうたうところも、乱雑にスッ飛ばすのも、せっかちなテンポも、おおげさなボゥイングも。みーんなみんな大好きだよ」

 陽子は心底そう思う。ありのままの祐二でいてほしい。

「だから。心配することないって。私なんかでよければ保証する。祐二ってばすごいんだから。自分を信じて、お願いッ」

 

 黄色く太った満月が地平線すれすれに顔を出す。あちらこちらの家屋の灯がともる。せせらぎは永遠に、流れはとどまることを知らない。寝台特急の赤い機関車が鉄橋を横切る。犬が遠吠えする。どこかで子どもが泣いている。

 陽子にはそのすべてが音楽に聞こえる。まるでシンフォニーだ。

「いよいよ予選だね」

「うん。アッという間だな」

 遍在する交響楽に祐二もまた耳をそばだてている。

「朱美が観に来るっていってた。あと柏木先生も」

「べつにいいのに」

 祐二は小石を川面に投げる。ポチャン。

「みんな来るっていってるよ。市民会館近いから。授業終わったらソッコーで駆けつけるってさ。合唱部も新聞部も映像部も。そうそう、うちもみんな来るよ。お父さんもお母さんも姉さんも」

「一次で落ちるって思ってるんじゃないのか、みんな」

「弱気になるなよ祐二。最強コンビっていわれてるンだぜ」

    陽子が背中を叩く。バシッと小気味よい音が響く。痛えなあー。

「無敵のタッグってか、じゃあさ、反則もありってワケだ」

 とっさの思いつきに祐二は、いたずらっぽい目つきになる。

「演奏時間の都合で第二楽章までしか弾けないなんてつまらないと思わないか。それで他のエントリーが上手だったらやけくそでさ、落選を覚悟、止まんないで第四楽章まで演奏しちゃおうぜ」

「落選覚悟っていうのはぜんぜん感心しないけど」

 陽子もまたその計画に加担しようと決意する。

「いいよ。第四楽章までやってしまおう」

「本気かよ?」

「あたりきよ、相棒」陽子はニカッと笑ってみせる。

「だって、フィナーレまでやんなきゃ気がすまないじゃないの!」

 

 祐二は土手の法面に身を横たえ仰向けになり空を見上げている。傍で陽子も同じく横になっている。茜色の空は紫に変わっている。

 ――ずっとこのままでいたいな。

 祐二はどう思うだろう。陽子がそう考えていると知ったら。

「オレさ、さっき弾いていて――」

 唐突に祐二が思い起こす。

「終わるな、終わらないでくれ。そう思ってたんだ」

 横にいる陽子に顔を向けて祐二は告げる。

「おかしいか? おかしいよな、それって」

 陽子は無言のままで微笑む。

「右腕はもう上がんないし左の指は火傷しそうなのに。顎は痛いし頭はぼうっとしてるのに――やめたくないって思ってるんだよ」

 陽子は黙って空を見上げて、天頂の星を発見する。

「やっぱりヘンかな」

 ベガって名前の星だっけ……。

 陽子はわざとほかのことを考えてみる。

「ずーっと終わるなって、願って弾いていたんだ」

 ふたつの音が遥かな高みまで運ばれていく。らせん状になって成層圏を突き抜けていく。そんな想像を陽子がしているだなんて、祐二はいつになったら気づくだろう。

 おりしもすい星が、白く長い尾をたなびかせ、西の空へと消えていった。

                                  〈了〉 

 

 f:id:kp4323w3255b5t267:20150518153014j:image 脱稿:2003年5月19日。400字詰原稿用紙99枚。           

 松山市主催:第8回坊ちゃん文学賞・佳作受賞。