鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

愛と哀しみの『ボレロ』

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                   Maya Plisetskaya dances Maurice Ravel’s Bolero

 

 わたしたちは、たくさんの情報に囲まれている。そして、たくさんの娯楽に身を委ねていられる。

 さまざまなエンターテインメントのいずれを選択するかは、個々人の自由である。けれども、真・善・美の三つを兼ねそなえた表現に出会うためには、多少の修練と経験を要する。

 芸術を受けいれる・受けいれられるためには、ある程度の忍耐も必要であるのだ。

 

 モーリス・ベジャールが演出した、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』を観たのは、ご他聞にもれず、クロード・ルルーシュ監督の映画『愛と哀しみのボレロ(原題: "Los unos y los otros")1981年』Del film "Los unos y los otros"-bolero de Ravel (baila Jorge donn) en formato MPEG-4 - YouTube において、である。複雑に錯綜した人間模様に混乱しつつも、ラストシーンの、エッフェル塔の下で繰りひろげられるジョルジュ・ドンの「メロディ」に、ぼくは圧倒された(ミッシェル・ルグランとフランシス・レイが共作したテーマ音楽も忘れがたいことを書き加えておこう)。

 ジョルジュ・ドンは1992年にエイズでこの世を去るが、その強烈な印象はずっと頭の片隅に生き続けていた。誰が形容したのかは忘れてしまったが、「まるで焼けた鉄板の上で飛び跳ねるいけにえのような」姿が、まぶたの裏に灼きついて離れなかった。生前のかれを観たGによると、かれが舞台に登場するなり、場内の空気が一変したという。それ、観たかったなあ。

 だから『ボレロ』といえば、ジョルジュ・ドンが極めつけだと、ぼくは決めつけていたのだが。

 

 昨日、マイヤ・プリセツカヤの訃報を知った。89歳 プリセツカヤさん死去…20世紀バレエの象徴 - ライブドアニュース 。多くの人が弔意を寄せていた。ぼくはバレエの世界には明るくない。マイヤ・プリセツカヤが希代のバレリーナであることは承知していたが、それがどれほどのものなのかは、まったくわかっていなかった。

 かの女を象徴する一曲とされる、『瀕死の白鳥』(サン・サーンス作曲)を観てみた。息を呑んだ。度肝を抜かれた。いや、そんなことばでは換言不可能だ。これを正確に言い表すなら、世阿弥のことばを借用するしかない。すなわち「幽玄」の境地。

 それからマイヤの『ボレロ』を観た。ぼくは認識を書き換えざるを得なかった。モーリス・ベジャール演出の『ボレロ』は、ジョルジュ・ドンのみの演目ではなかったことに、遅まきながら気づかされたのである。それを痛感したのは、もう一人の天才バレリーナシルヴィ・ギエムの『ボレロ』も、あらためて観たからである。

 シルヴィ・ギエムは今年を最後に舞台の世界から引退するが、シルヴィ・ギエム、現役最後となる2015年ファイナル・ツアーを発表!:What's New:NBS日本舞台芸術振興会 、かの女の『ボレロ』もまた、きわめて優れた表現であった。

 さあ、ここで三者三様の『ボレロ』をじっくり堪能していただきたい。


Jorge Donn, Bolero-1982. 

 

 


Maya Plisetskaya - Bolero (choreography by Maurice Béjart)

マイヤ・プリセツカヤの『ボレロ』。重力をまるで感じさせないしなやかな動き。

 

  
Sylvie Guillem - Bolero @TOKYU SILVESTER CONCERT 20151231

シルヴィ・ギエムの『ボレロ』。東京バレエ団の群舞とシンクロする精確な動き。既に伝説となった2015.12.31~2016.1.1のカウントダウンを!

 

 じっさいここまでくると、単純に優劣はつけられない。ジョルジュの激情も、マイヤの優美も、シルヴィの精緻も、それぞれがあまりに素晴らしく、ため息をつくばかりである。ただ、強いてあげるとするなら、マイヤが最後のさいごにみせた「表情」には、抗いがたい魅力がある。苦痛と法悦が入れまじったような歓びの顔に、心を寄せてしまう今のぼくがいる。

 

 わたしたちは恵まれた時代に生きている。こうして、第一級の芸術を、ユーチューブなどで、瞬時に触れることができる。ぼくのようなしがない、文無しのボンクラも、極上のエンターテインメントに接することができる。

 それはうわべだけなのかもしれない。とば口に立ったばかりで、真髄まで到達していない、門外漢の勘違いであるかもしれない。

 だが、感じることはできる。その「表現」がなにを指し示しているかを。十五分間の演舞を観るあいだに、ぼくは自動的にさまざまなことを考えていた。

 人間の肉体について。その神経のゆきとどきについて。視線の配りかたについて。指先の暗示について。音楽の律動とつま先から踵にかけての動きの同期について。また、その僅かなずれについて。筋肉の緊張について。筋肉の緩和について。成長について。衰えについて。感情の増幅について。あるいは抑制について。食について。職について。生殖について。性差について。そしてまた、人間の生死について。

 かれ・かの女らの動きは、そのことを示唆する。多くのことを考えさせられる。思考を促される。そのことが、わたしたちを舞踏に、音楽に、そして芸術に向かわせる根源的な働きなのではないか。

ボレロ』からもっと多くのことを、ぼくは発見できるだろう。それは最初に『愛と哀しみのボレロ』を観たときから、ぼくの内部で、ずっと育まれていたものだ。

 そしてそれは、いまなお成長中である。

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 【関連記事 1】

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

【関連記事 2】Twilogより転載

2011年12月30日(金)

イワシ タケ イスケ@cohen_kanrinin

モーリス・ラヴェルの書いた「ボレロ」のことを、ずっと考えていた。書きはじめた動機や経緯は、ちょっと調べればすぐにわかる。アイディアの基となったものは何かということも。しかしあの特異な旋律、一度聴いたら決して忘れることのできない音の並びは、いったい何に起因しているのだろう?posted at 06:16:18

「ボレロ」はスペインの民族舞踏を基に書かれた作品であるという。では、あの特徴的な旋律は、スペインの民謡にもともとあるものなのか?ラヴェルはそれを剽窃した?まさか。ヒントになった楽曲はあるだろう。アイディアの萌芽を促す音列を見出すことはあっただろう。しかしあくまでも「動機」だ。posted at 06:24:00

なぞは残る。あの息の長い旋律を紡ぎあげたのが先なのか、曲全体をクレシェンドにするという構成に後からあてはめていったのか、その過程が凡人には想像し得ない。しかし、いずれにせよ「ボレロ」の旋律は、誰もが一度聴いただけですぐ記憶に焼きついてしまうほど、非西洋的な、強い匂いを放っている。posted at 06:33:34

「ボレロ」を、いわゆるクラシックだからと構えて鑑賞せずに、柔軟な態度で臨んでみるといい。そこにはいろんな発見があるだろう。ぼくはモダンジャズの「モード」に相脈通じるものがあると感じる。低音部のオスティナート(一定の繰りかえし)に土台を委ね、弦楽器による和音の敷きつめをあえて排し、posted at 06:40:56

旋律の遊べるスペースを設定したラヴェルの目論見は、マイルス・デイヴィス的モーダルな響き方に酷似しているし、あるいはホルンの奏でる旋律のうえにピッコロが平行に動くことで第3倍音を被せるという手法は、オルガンのストッパーを模したものだというが、まさしく「音響派」的な発想だし。posted at 06:49:41

そういった観点からラヴェルの「ボレロ」を聴くと、じつに愉快な気分になりますが、それはぼくだけか。ともあれ、誰もが知っている超有名曲「ボレロ」を、最初から堪能してみてはいかが?ジョルジュ・ドンやシルヴィ・ギエムの踊りつきでも、もちろんかまわない。旋律の魅力の虜になって。posted at 06:54:31

【おまけ】

RAVEL'S BOLERO, amazing youngest flashmob ...