昭和天皇が逝去した日のことは、よく覚えていない。前年から危篤状態が続いていたので、そろそろだろうと巷ではささやかれていたが、翌朝になって、そのことを強く実感した。どのチャンネルも特番で、コマーシャルひとつ流れなかった。
記録をみれば、当時の異様な様子が克明に記されている。ここに改めて上書きするまでもない。ともあれ、ぼくはテレビをつけっぱなしの居間にいるのが苦痛で、とりあえず家を飛びだした。
学校はまだ始まっていなかった。だのにぼくは御船の学校へと向かった。校門は閉まっており、人の気配はなかったが、校庭の掲揚台には半旗が掲げられていた。
ぼくは緑川の河川敷にクルマを停めて、しばらくぼーっとして曇り空を眺めていた。少し眠ったかもしれない。ただ、こうしていても埒があかないやと、クルマを発進させ、市内に戻った。
水前寺の電停前で接触事故をみた。赤いスクーターが横倒しになっていた。見覚えのあるスクーターだなと思ったら、顔見知りの女性が青ざめた顔で警察官から事情聴取されていた。後で聞いた話だと、カーブでトラックにひっかけられたんだそうだ。「知ってるよ、現場の傍を通ったもん」というと、かの女は「まァ薄情ね」と膨れっ面をしてみせた。
「あれはまだ、昭和64年だったよね」
「そうね、まだ平成にはなってなかったわ」
となると、あれが昭和最後の印象ってことになるのか。
家に戻ると、画面の中で小渕恵三が「平成」の文字を掲げていた。それが新しい元号らしかった。平成ねえと独りごちていると、電話がかかってきた。リュウジからだった。
「どうしてる?」
「いや、なにも」
「ひまなら、出てみらんや」
リュウジと合流したぼくは、記帳に行こうかと提案した。さっきニュースで言ってたけど、全国に記帳所が設けられたそうだ、クマモトは県庁だってさ、とリュウジに説明した。かれは黙って頷き、(この日ふたたび)水前寺方面へハンドルを切った。
県庁にはかなり大勢の人が集まっていた。弔意を表すべく名前を記すため。冷やかしのぼくらもその列に並んだ。テントの下に長机が数脚並べられ、これも長い和紙と、筆ペンが用意されていた。
名前をしたためると、もうすることがない。これからどうするや? とリュウジは訊いた。どこにもなにも、行くあてがなかった。しかしまっすぐ帰る気にはなれなかった。
「鮨でも食いに行くか」とぼくはいってみた。白川橋を渡ったところに旨い鮨屋があるというよ、そこへ行ってみようぜと。リュウジは、「そりゃまた不謹慎な」と吹きだしたが、かれもその提案にのるのにやぶさかではなかったようだ。
駐車場へ向かう道すがら、雨粒がポツポツと落ちてきた。クルマに乗りこんだとたん、雨は本降りになった。天も泣きよらすよ(天も泣いているようだよ)と冗談を口にしてみたが、そのニュアンスはリュウジに伝わらなかったようだ。かれはつぶやいていた。
「果たしてこぎゃん日に鮨屋は開いとるだろか?」
はたして「甚八」は開いていた。ただし客は一組もいなかった。若造ふたりはカウンターに座り、ひととおり握ってくださいと頼んだ。いくらかかるかわからなかったから、少し心細かった。
鮨はうまかった。あんなに旨い鮨をクマモトで食べたのは、後にも先にもあのときだけである。ふたりはほとんど喋らなかった。なにを喋っていいのか、よくわからなかった。ただ黙々と口に運んだ。
勘定を済ませ、のれんを翻すと、外はとうに暗かった。雨脚はいっこうに衰えを知らなかった。
「市内の方さん(方へ)めぐってみようか」
行き交うクルマの数は少なく、日頃の混雑がまるでウソみたいだった。辛島町電停で、はじめて信号にひっかかった。
ぼくは車窓ごしに新市街のアーケードをながめていた。街はいつもと変わらない光彩を放っていた。しかし、その日はいくぶん昏く感じられた。
辛島町電停より新市街を望む(平成27年)
「これからどうするね」とリュウジは訊いた。
「さあ、どうするかね」と気のない返事をした。
ぼくは卒業を控えていたが就職先は決まっておらず、これから先は未定だった。
1989年1月8日、昭和は平成に改号された。
いま目の前に映る風景は平成のそれだった。