鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

「クリスマスキャロル」 『ペタンク』第4章より抜粋

 クリスマスキャロルの〈キャロル〉ってどんな意味ですか?

 この唐突な質問に、支倉はいささか面食らった。
「キャロルはろうそくって意味じゃないのかな」
「それはキャンドル!」
 声をそろえて誤りを指摘され、まいったなと頭を掻いた。
「ウチら、クリスマス会の準備をしてて、こんなに遅くなったの」
 と茉耶。
「演劇クラブの出し物が、ディケンズのクリスマスキャロルで」
 と松永さん。
「それで、誰もキャロルの正しい意味を知らなかったんです」
 と岡本さん。
「松永っちと岡本っちゃん。このふたりが知らないなら、他の子は全滅。ね、支倉さんならわかるでしょ? 宮本さんいわく、博識だそうですから」
「キャロルねえ……」
 博識ぶりを披露したいところだが、正確な意味を思い出せない支倉は、
「そういえばキャロルってバンドが、むかしあったよ」
 と見当違いなことをつぶやいて、お茶を濁すのがせいぜいだった。ところが質問ほったらかしで、女のこらはキャッキャッとおしゃべりに興じている。
「ご近所の迷惑だろ。ちょっと静かにできないか」
 ムッとした支倉が口すっぱく注意すると、小六の児童たちは、はあいと神妙に応える。が、すぐさまもとの調子に戻る。狭い路地裏を横いっぱいに占めながら和気あいあいと行進し、そのうちなんともナンセンスな歌を、声を揃えて歌いはじめた。
「大根(だいこん)、人参(にんじん)、蓮根(れんこん)、南瓜(かぼちゃ)……」
 先導する支倉が振りかえると、子どもらは歌うのをやめ、正面になおるとクスクス含み笑って、またもや歌いだす。
《やれやれ、おれはからかわれているらしい》
 それでも支倉にとって、子どもたちとの他愛のない交流は新鮮だった。こそばゆい感じがつきまとうが、それがむしろ快かった。
 巡回パトロールを終えて帰宅するやいなや、支倉はさっそく英和辞典をひっぱり出して〈carol〉の意味を確かめた。それからいったん表へ出て、登録してある〈片桐〉の番号を呼びだした。
 断続的な電子音が聞こえると、支倉は年甲斐もなく緊張し、心臓の動悸が治まらなくなる。杏子の面影がまざまざとよみがえったのだ。むかし観たフランス映画に杏子さんそっくりの女優がいたと宮本はいうが、支倉の印象は違う。伏し目がちで静かに微笑む杏子の横顔は、十七世紀のデルフトの画家、フェルメールの描いた「天秤を持つ女」にそっくりだと感じていた。そしてその印象は日増しに濃くなっていき、いまでは目を閉じるたび、杏子の面影をくっきりと思い浮かべられるようになっていた。
 高層マンションとマンションの狭間に、青ざめた月がぽっかりと浮かんでいた。携帯電話を耳に押しあてつつ、支倉は無数の部屋の光を見つめていた。
 あの灯りのいずれかに彼女は住んでいる。
 
 誰ですか? 繁はぶっきらぼうに応対した。
 茉耶ちゃんに代わってもらえるかな? と相手は告げた。
 聞き覚えのない声だが、なれなれしいと繁は感じた。
「妹は、ともだちのところに寄るって、まだ帰ってきてませんが」
〈じゃあ杏子さん、……おかあさんはいらっしゃる?〉
 繁はキッチンに向かって、ママと呼んだ。誰からーと杏子は訊いた。誰か男の人、と繁はつぶやきながら受話器を渡した。
〈まだ、茉耶ちゃん帰ってきてませんか〉
 杏子は、なんだ支倉さんだったの、と穏やかだった。
「茉耶は岡本さん宅に寄ってくるって。同じマンションの同級生なんです」
〈ああ、そうですか。ならよかった〉
「茉耶に、どういったご用件ですか」
〈えー、キャロルの意味を伝えようと思って〉
「はあ、キャロル、ですか?」
〈じつはついさっき、茉耶ちゃんに訊かれたのですよ。クリスマスキャロルのキャロルはどういう意味なのと。とっさに答えられなくて、家に帰って、あわてて辞書を繰ってみたんです〉
「まあ、そんなわざわざ。で、どんな意味だったの?」
 音大を卒業した杏子が知らないはずはなかった。が、支倉の口から意味を聞いてみたくなった。
〈歓びの歌です〉
 歓びの歌? 杏子には意外な解釈だった。
〈そうです。クリスマスを祝福するお祝いの歌の意味だって、茉耶ちゃんにお伝えください〉
「歓びの歌かあ。支倉さんらしいな。茉耶に、そう伝えておきますわ」
 支倉は浮かんだ月を眺めながら、続きの言葉をまさぐった。
「……お会いするのは年明け、三が日過ぎてからになりますね」
〈そうね。ところで支倉さん、お正月はどこでお過ごし?〉
「ぼくは野老で。杏子さんは?」
〈年末から主人の実家の、千葉の佐倉で迎えます〉
「そうですか。ではよいお年を」
 支倉は電話を切ろうとした。ところが杏子、
〈野暮だなー、それではせっかくのムードがだいなし〉
 と吹きだした。
〈あのね、こんなとき、ありきたりのせりふで締めくくってはダメなの〉
「では、どういえばいいんです」
 支倉は急いて尋ねた。すると杏子は低い声でささやいた。
〈メリークリスマス〉
 吐く息は白かったが、支倉の胸の裡はほんのりと温かくなった。商店街のスピーカーからジングルベルが賑やかしく流れている。そこで杏子と同じ言葉を、支倉も使ってみた。
「メリークリスマス」
 
f:id:kp4323w3255b5t267:20141224212835j:plain フェルメール「天秤を持つ女」部分
 
「ペタンク」2006年4月27日初稿。400枚。
 
 
 
 【関連エントリ】

 

「義父との対局」 『ペタンク』第4章より抜粋 - 鰯の独白 (上の話の続きです)

ダンデライオンは嘘をつかない - 鰯の独白 (茉耶ちゃんと杏子さんが登場します)