読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

北岡自然公園と「阿部一族」

Review

 

 先週の葬儀の帰り、熊本駅の近くに風情のある公園を発見したので、気になっていた。一週間後にもう一度、九州新幹線の高架沿いにクルマを走らせていたところ、紅葉が見事に染まっていたので下車し、白い塀に囲まれた公園へと足を踏みいれてみた。

 北岡自然公園。受付で貰った栞には「細川家菩提寺・妙解寺(みょうげじ)跡」と記してある。なるほど細川氏ゆかりの庭園か。ぼくは栞には目を通さずに、きれいに掃き清められた庭園を散策し、赤く色づいたカエデの樹の葉を何の気なしに写真に収めていた。

f:id:kp4323w3255b5t267:20141126192835j:plain

 しかしそのもみじの葉の先に、裏山へ続く鬱蒼と茂った竹林を分け入る小径が見え、ぼくは足の赴くまま急な階段を上ってみた。そこに何があるかなど想像もしていなかった。ただ、何というのだろう導かれるような、自動的に躰が動いているような不思議な感覚だった。

 丘の頂に至ると、そこは古い墓所だった。あゝ墓かと思いつつ墓石の銘を確かめた。細川家所縁の場所らしく殆どに「細川某」と刻まれている。そこで漸く栞を開いてみた。栞には細川家霊廟としたためられている。この丘の何処かにあるようだ。南側にやや下りの通路がある。ぼくはさらに奥へと踏み入った。するとそこに栞の写真にあるのと同じ、三代細川忠利、忠利夫人、四代光尚を祀った霊廟が目前に現れた。

 ぼくは格子塀を巡らした唐門をくぐり敷地の中に入った。霊廟は質素なもので華やかさはない。小ぢんまりとした方形の造りをしばし眺めたのち、その廟を取り囲むように建てられた墓石に目を留めた。墓石の傍には案内板があり、殉死者の墓と記されている。右側には忠利の、左側には光尚の没後に後を追った武士たちの墓が、それぞれ並んでいる。

 ここにきてぼくは漸く或る小説を思いだしていた。

 森鴎外の「阿部一族」を。

 <飽田郡春日村岫雲院遺骸を荼毘して、高麗の外の山に葬った。この霊屋の下に、翌年の冬になって、護国山妙解寺が建立せられ>たのである。

 阿部彌一右衛門通信(みちのぶ)の墓も、そこにあった。

  白状するとぼくは「阿部一族」を若い時分に読んで、面白くない、つまらんと本を放りやった経験がある。そんな自分の浅墓さに辟易してしまうが、まさかこんなところで邂逅するとは思いもよらなかった。それは正しく「不意打ち」だった。

f:id:kp4323w3255b5t267:20141126193044j:plain

 この階段の先に墓所があった。写真は撮っていない。

ちょうど荼毘の最中であった。柩の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」と言う声がした。境内の杉の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒の上に笠のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。(中略)井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明、明石という二羽の鷹であった。そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も殉死したのか」とささやく声が聞えた

 島原の乱で功名を成した細川忠利が亡くなった後、臣下の十八名が殉死した。彼らは忠利の生前に主の後を追うことを許されていた。が、希望の叶わぬ者もいた。その一人が阿部彌一右衛門通信である。忠利は、彌一右衛門を疎んじていたのだ。

人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が彌一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし彌一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。それは親しい友達の少いのでわかる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。(中略)そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。

  松本清張は「 阿部一族』は「阿部茶事談」を現代語にしただけであり、鴎外の思想・感想はまったくないが、国文学者はしいてそれを求めようとしている」と述べている。ぼくは原本に目を通したわけではないから判断できないが、鴎外が、現代文に「翻訳」する過程において、講談調は否応なく整理され、ここに表されたような心理描写としての客観が備わったのではないだろうか、と推測する。

 さて、城下に於ける阿部彌一右衛門への評判は日ごとに悪くなる。こんな具合に。

二三日立つと、彌一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪に油でも塗って切ればよいに」というのである。彌一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。悪口が言いたくばなんとも言うがよい。しかしこの彌一右衛門をから見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。

 松岡正剛の言うように「いったいどこに『価値の基準』があるかはまったくわからない」。現代の視点からみれば、主君を追って殉死するなどとは全くもって非合理的な、理解し難い精神構造である。が、果たして簡単にそうだと言いきれるだろうか? 現代にあっても世間からの過剰なパッシングに耐えかねて死を選ぶという人間が少なからずいるではないか。それとどこが違うというのだろう。私たち現代人もまた、死を余儀なくされる状況にいつ追いやられるやもしれぬ。それは意地もあり矜持もある者ほど容易く陥りやすい穽なのである。生き恥を晒すより死んだほうがナンボかましだ、の理路により、自死の結論へと導かれてしまうのだ。

 兄弟家族を前にして切腹し果せた彌一右衛門だったが、これを細川家の跡継ぎ・光尚は快く思わない。殉死の名誉により保障されるべき家督相続は分割され、阿部一族の千五百石の知行は細かにいて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。

 そして先代の殿様の一周忌の席において、思い余った彌一右衛門の嫡子・権兵衛は次のような所業にいたる。

儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退きしなに、脇差の小柄を抜き取ってを押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった

  光尚はこれを藩への重大な謀反であると捉え、阿部権兵衛を切腹ではなく罪人同様の縛り首に処してしまう。この、二度に及ぶ阿部家への恥辱を雪ぐべく、残された阿部一族は決起、家屋敷に立て籠る。反乱に光尚は討伐を命ずるが、討手の筆頭として抜擢された竹内数馬もまた死地を求めていた。少し長く引用する。

数馬は傍輩の口から、外記が自分を推してこのたびの役に当らせたのだと聞くや否や、即時に討死をしようと決心した。(中略)自分は御先代の引立てをこうむったには違いない。しかし元服をしてからのちの自分は、いわば大勢の近習のうちの一人で、別に出色のお扱いを受けてはいない。ご恩には誰も浴している。ご恩報じを自分に限ってしなくてはならぬというのは、どういう意味か。言うまでもない、自分は殉死するはずであったのに、殉死しなかったから、命がけの場所にやるというのである。命は何時でも喜んで棄てるが、さきにしおくれた殉死の代りに死のうとは思わない。今命を惜しまぬ自分が、なんで御先代の中陰の果ての日に命を惜しんだであろう。いわれのないことである。畢竟どれだけのご入懇になった人が殉死するという、はっきりした境はない。同じように勤めていた御近習の若侍のうちに殉死の沙汰がないので、自分もながらえていた。殉死してよいことなら、自分は誰よりもさきにする。それほどのことは誰の目にも見えているように思っていた。それにとうにするはずの殉死をせずにいた人間として極印を打たれたのは、かえすがえすも口惜しい。(中略)殿様に棄てられたのは忍ぶことが出来ない。島原で城に乗り入ろうとしたとき、御先代がお呼び止めなされた。それはお馬廻りのものがわざと先手に加わるのをお止めなされたのである。このたび御当主の怪我をするなとおっしゃるのは、それとは違う。惜しい命をいたわれとおっしゃるのである。それがなんのありがたかろう。古いの上を新たに鞭うたれるようなものである。ただ一刻も早く死にたい。死んですすがれる汚れではないが、死にたい。犬死でもよいから、死にたい。

  島原の乱は、勝利した側であるはずの武士の心にも大きな痛手を残した。竹内は島原で武勲を挙げたかったが叶わず、忠利の後を追いたかったがこれも叶わなかった。竹内数馬の心境は立場は違えども阿部一族と同一である。そして島原の戦は当の細川家にも暗い影を落としている。話題が逸れるので詳しくは述べないが、細川忠利の母は玉子、すなわちかの細川ガラシャである。だからこそ忠利は、キリシタン討伐の島原へ率先して向かわなければならなかった。徳川家への忠誠を示すために。Liege & Lief!

阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内をく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸を埋めた。あとに残ったのは究竟の若者ばかりである。

  討入りの当日、阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。そして討手により火がかけられ、山崎町(細川家の邸宅があった花畑町は一キロも離れていない、つまり目と鼻の先である)の家屋敷は全焼、阿部一族の死骸は熊本市の中心を流れる白川の)井出の口に引き出して、吟味せられた。

 森鴎外の筆致は余分な解釈を加えない「簡浄を努めた」文体である。ただ事実を淡々と書き記すことによって物語の内部にある「問題点」を炙りだす仕組みになっている。当時の読者は事実の羅列から(明治から大正へと移行する時代の)いまに通じる「日本」の社会構造に思いを馳せる。それは21世紀の私たちにとっても共通し関連する問題である。

 殉死に「藩政のリストラクチャリング」を読み取ってもいいし、徳川幕府が殉死を禁止するのは阿部一族事件から数えて三十年後のことであるが、そこに「制度の成立」を見出すのもいいだろう。あるいは作劇上の微調整――史実では、阿部弥市右兵衛の自刃は他の十八名と同日に決行され、阿部権兵衛の処刑は事故後速やかに執行されたという――に鴎外の凝らした工夫を発見しても構わない。

 森鴎外は書かずして、書いた。説明を省くことで、説明した。後世の読者がそこにさまざまな解釈を加えていく。しかし「物語の原型」は簡素でなくてはならない。そして、簡素であるからこそ美談や悲劇として回収されることなく、近代人の意識の深くへ到達したのである。この「簡浄を努めた」文に、私たちはつい現在社会の様相を重ね合わせたくなる誘惑を抱きがちだが、そういった意味でも「阿部一族」は優れたテキストであると言えよう。

 f:id:kp4323w3255b5t267:20141126192929j:plain

 墓所を辞したぼくは石畳を設えた急な階段をゆっくりと下りていった。何故か知らんが酷く頭が痛かった。上通の喫茶店「H」で休憩し、世間話で気を紛らわしていたが、頭痛の治まる気配はなかった。

 さっき北岡自然公園に行ってきたんだと打ち明けると、あゝあそこは今でこそきれいに整備されているけど、昔は昼なお暗い感じの、ひと気のない不気味なところだった、と言う。街中に生まれ育った者の証言は生々しい。神秘的な事柄に興味がない人だけに、その淡々とした口調があべこべにリアリティを感じさせる。

「熊本城の周りには、何か気配を察するスポットが何ヶ所かある。さまざまな歴史がそこかしこに刻まれているからね。地元の婆さんたちは、何処そこは夜一人で歩いちゃいかん、って言うもんね」

「北岡自然公園も?」

「いや、あそこはきちんと祀られているから、違うよ」

 家に帰って入浴した後、ぼくは本棚の奥から「森鴎外全集」を引っ張り出してみた。なんだ面白いじゃないかと夢中になって読み進めた。そして一時間後に読了したとき、あれほど酷かった偏頭痛はピタリと治まっていた。

 自己暗示にかかっていたのかもしれないが、嘘じゃない、ほんとうの話だ。

 

 

 

 

【註】

 今回ぼくは講談社の文学全集を読んだが、引用する際には青空文庫森鴎外 阿部一族 を参照した。これは旧仮名遣いをそのまま書き写すのにたいへんな手間ひまがかかるのと、文字化けを防ぐことの二つの理由からである。

 また、今回は 758夜『阿部一族』森鴎外|松岡正剛の千夜千冊 に多くを拠っている。

 なお、北岡自然公園が手入れの行き届いた居心地の良い庭園であることは、強調しておきたい。観光ナビ 熊本県観光サイト なごみ紀行 くまもと

 ※ ちなみにBGMはコレ。Fairport Convention - Liege & Lief (Full Album) - YouTube