読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

埋立地に咲くバラ(10月22日 水俣)

 10月22日、水俣市へ行った。熊本市から約90Km離れた小さな町である。
 今回の目的は、水俣市内にある「エコパークバラ園」にあるバラを観ることである。どんな品種があり、どのようにレイアウトされ管理されているか、それを調査しに行ったというよりも、見学させていただこうという心積もりであった。
 
 と、ここまで書いて、これじゃ出張復命書みたいだなと思った。前回のエントリで感情が高ぶった挙句、大見得を切ってしまった反省もあるし、その続編は努めてクールに書こうともくろんでいたのだが、いや、なかなかすべり出しが上手くいかない。だからこれからあとは、いつもの調子でつらつらと書き連ねていこう。
 
 午前10時ごろ八代市を過ぎ、国道3号線のバイパスでないほうをゆっくりと走らせる。ぼくの前後も対向車線にもほとんどクルマが見当たらない。途中で買った日奈久竹輪をほお張りながら、沿道に柿がたわわに実る三太郎峠のトンネルを通り抜けていたときに、ふとこんな思いが過った。
《星野富広の美術館があったはずだ、ちょいと寄ってみようか》
 峠と峠に挟まれた芦北町の中心部からやや外れたところに、その美術館はあった。

星野富弘美術館-芦北町

 正直いって、星野富広の作風はあまり得意ではなかった。読んでいて照れくさくなるというのか、素直に受け入れがたい自分がいやになるからだ。ただ、じっさい作品に目を触れると、筆先の揺れや震えに、選ばれたことばののっぴきならない切実さに、胸を衝かれる。

 ぼくが美術館の来訪をTwitterに投稿すると、さっそく反応が返ってきた。かの女は星野さんの絵と詩を、<「濡れて」いる、そして芳しい>と表現した。そして<星野さんには大変失礼な比較だと思うけど、「みつを」からは決して感じられないものだ>とも。同感である。じつはそれまで白状すると、「みつを」みたいなもんだろ? と敬遠していた。その偏見はあっけなく覆された。最近、こんな経験がとても多い。

 星野富広は、花と、花の真っ盛りを描くことについて、くり返し自らに疑念を投げかけている。ただ徒らに、ああきれいだねと称揚しているわけではない。花の咲く一瞬の向こう側にある果てしない闇をも凝視している。だが、ことさらに悲観はしない。そればかりかユーモラスなことばで戯れてみせる。そこにぼくは共感した。

男タルモノ 花になど 見とれていて よいのか

しかし男タルモノ 花の美しさもわからず 女の美しさを語るな

 あまり使いたくないことばだけど、ぼくは「勇気をもらった」。花のいちばん美しい瞬間を撮ることへの疚しさから少しだけ免れられるような気がした。そしてぼくは雨が激しく降りだした芦北の町を出発し、三番目の峠をぬけ、水俣市街へと入っていった。

 

 鹿児島との県境にある水俣市(川内からは70kmしか離れていない。つまり熊本市よりも、近い)は風情のある町だ。山に囲まれた小ぢんまりとした街並になかなかの情緒がある。湯の児・湯の鶴といった温泉も湧いており、水俣湾の海面は空を映す大きな鏡のように穏やかだ。

 しかし、エコパークに到着したときがいちばん雨風の強い時間だった。ビニール傘が反りそうになるのをこらえつつ、ぼくは前かがみでバラ園の門をくぐった。国道にほど近く、誰もが気軽に入られる、無料の公共施設。<350品種のオールドローズコレクションをはじめ、600種5,000本のバラ達が(HPより)>ぼくを迎え入れてくれた。木やつるに、たくさんのバラが咲いているわけではなかったが、雨の降りしきるなか、みごとな色合いのバラが、そこかしこに、ひそやかに咲いていた。

水俣市 エコパーク水俣バラ園

 ぼくは夢中になってiPhone5Sのシャッターを切った。ここにある花たちの、なんと清楚で慎ましやかなことだろう。(ぼくの職場であるNG公園のバラ園と)同じ品種のバラでさえ、まったく違った印象を受ける。天からふりそそぐ雨水のしずくを花弁のうちに溜め、しっとりと濡れた表情にぼくはうっとりし、「とり憑かれてしまった」。その写真の数々は、こちら ↓をご覧ください。

イワシ タケ イスケ(@cohen_kanrinin)/2014年10月22日 - Twilog

 少しだけ職業的な観点から言い添えると、水俣エコパークのバラ園はイングリッシュローズやチャイナローズなどのラインナップが充実している。ハイブリッド系などの大柄で見栄えのするものよりも、花は小柄で、樹木と込みで楽しむためのガーデニング的な要素が強いように思えた。それはある意味、「花を観せる」に特化したわがコーエンとは様相を異にする部分でもある。どちらが優れているかという比較はあまり意味をなさないが、見習う点がおおいにあると感じた。<障がい者の人たちや地域住民と一緒になって6年がかりで作ってきたバラ園(HPより)>であることも含め、職員のバラにたいする愛情がひしひしと感じられる、開放的で居心地のいい空間。バラ好きのかたのみならず、多くの方々に足を運んでもらいたいなと思った。

 

 バラを撮りまくっているあいだに雨もあがった。これから福田農場( 熊本県水俣市湯の児スペイン村福田農場_トップ )にでも行って、遅いランチでもしゃれこもうかと思った。が、ぼくのなかで、もう一つの考えが頭をもたげてきた。

《このエコパークは、水俣湾を埋め立てて造成されたんだっけ……》

 午後2時をまわっていた。ゆっくり昼飯をとるよりも、ほかに見るべき場所があるだろう? とぼくは考えなおした。

 14時20分、Twitterに<透明な雫が煌めくバラ・バラ・バラ…の連投写真がとてもきれい。名前も素敵>という反応が着いた。ぼくはかの女に、<いまからバラ園から1キロ先の水俣病資料館に入館します>と返信した。こんな返事は迷惑だったろうけど、そう宣言せずにはおれなかったのだ。

水俣病資料館

 水俣病の経緯について概観をつかむには、ここをまず見学するのがやはりベストだと思う。かつては岬の突端であっただろう小高い丘の上に、資料館と水俣病情報センターと環境センターの三棟が建てられている。ぼくが到着したときは入館者も少なくひっそりとしていたが、受付のかたが、まず15分の映像をご覧くださいと、ぼく一人のために映写室で上映してくれた。

 水俣病のあらましについては、原田正純の「水俣が映す世界」や、ユージン・スミスや桑原史成の写真集、そして石牟礼道子の「苦界浄土」といった書籍でだいたいを把握しているつもりでいた。しかしそれはまったくの断片だった。ぼくは15分の映写を観ながら、ああ、おれは生半可にしか知らないやと思った。そしてその後の展示物や年表、そしてモニターテレビでみられる数々の貴重な映像をみながら、これだけ厚みのある資料館は滅多にないなと、ため息を漏らしつつ館内を巡回していった。

 けれどもぼくのこころの底には、もう一つの疑念のようなものが流れていた。

《なにか、隔たりを感じる……》

(1977年当時の環境庁長官だった)石原慎太郎が原告の川本輝夫さんに宛てた追悼文を読みながら、要するに石原は川本さんの「侠気(おとこぎ)」を意気に感じただけであって、水俣病患者や原告にたいしての贖罪意識はみじんもないみたいだなあ、と感じていた。そしてそれと同時に、資料館の目する主張が水俣の「再生」のほうに少し傾いているようで、それが気にかかった。

 確かに環境の保全は大切だし、これからの未来を展望し、公害のない社会を創っていくのは私たち市民の宿願であり行政の責務である。が、その中から零れ落ちていく記憶の、あえていうなら滓のようなものが、この資料館からはあまり伝わってこないと感じた。それは資料の一つひとつをじっくりと吟味していないからというのが最大の理由だけれども、なにか遠い、なにかが足りないというぼくのないものねだりは、館外に出たあとも胸のうちにわだかまっていた。

 鈍色に光る干潮時の水俣湾を横目にみながら、さて、これからどうしようかと考えた。と、駐車場に戻ったところでひとりの男性と目が会った。互いに軽く会釈して、それぞれのクルマに乗った。それからぼくは、やっぱり行ってみようと決心した。なんの予備知識もないけれど、さっき国道沿いに小さな標識を見つけたところへ。

 

 水俣病歴史考証館は、小さな公営の集合住宅が何棟も建ち並ぶ先の、丘というよりも山の中腹の、細い道のどん詰まりにあった。

 入り口のガラス戸を叩いてみるが、誰も出ない。仕方なくインターホンを押すと若い男性が出てきて、見学の旨を告げると中にどうぞと案内してくれた。小さな館内には案内係ともうひとり、さっき資料館の駐車場で目を合わせた男性がいた。案内の女性がぼくに微笑みかけ、

「こちらのかたは、福島からいらっしゃたそうです。あなたは?」

 と問うた。ぼくは熊本市内からですと答えた。かの女はゆっくりとうなずくと、では、簡単ですが説明いたしますといって、パネルの前にぼくらを導いた。

 そこからの説明を詳細に記すつもりはない。ただぼくは、かの女の口から語られる水俣という地域の歴史と背景、それから雑多に置かれたようにみえる漁民たちの実際に使った漁具やランプや小舟などの展示物が、資料館で感じた「隔たり」を埋めていくように思えた。

 それは数多の、プラスチックにコーティングされたパネルや液晶画面の向こうに映しだされる「資料」よりも、断然リアルに迫ってきた。かつてきのこ栽培の工場に使われていたという館内は、お世辞にも立派だとはいえない。しかしその中にある数々の「歴史的史料」は、水俣病を生みだした原因である「風土」と「記憶」を、記録として風化させることなく伝えていこうとする意思にあふれていた。

 黒地に白抜きの「怨」の文字の幟がある。原告団が胸にまとったゼッケンがある。そして細川一(窒素付属病院長・当時)博士が水銀中毒の実験を施した猫を飼っていた小屋もある。黒白ぶち猫の「400号」は、20mlの有機水銀をえさに含まれ、70日目でついに発症したのだった。件の小屋はそののち農家に譲られ、鶏小屋として使用されていたという。それも館内に展示されていた。 

水俣病歴史考証館 | 一般財団法人水俣病センター 相思社

 ぼくが館内を見終わり、受付に戻ると、先ほど説明してくれた女性から感想を求められた。ぼくは、感想を述べられるほど分かっていないのですが、と前置きしつつ、

「でも、原告団の家に投げこまれた匿名のハガキやら、原告団の座りこみを中傷する新聞の折り込みビラを読むと慄然としますね。最近、ヘイトスピーチといって、在日の人や中国・韓国を罵る団体が増えていますが、そういう者たちと、口調が酷似している」と嘆いた。

「わたしたちは、水俣から、多くを学ばなければなりません」

 かの女は、ことばを慎重に選びながら穏やかな口調で答えた。そして、やや首を傾げながらわずかに微笑んだ。

「じつはわたしも、分からないことだらけなのです。なにが問題で、なにが解決の道であるかは。でも、水俣で起こった数々のできごとを、未来の礎にするためにも、語り継いでいかなくちゃならない。たとえそこに、歴史的な『負』の部分があろうとも」

「じつはぼくね、あの『怨』の幟を見た世代なんです。下通の、大洋デパートの前を、原告団が行進している写真パネルがありましたね。あれと同じ光景を、ぼく、覚えているんです」なにをおれ告解し始めてんだろうと自らを訝しんだが、ぼくの喋る口は止まるところを知らなかった。「……さらに白状しますと。ぼくの父は地方公務員で。ずっと農林畑だったのに、74年に公害規制課に出向してるんですね。そのとき上司に、『一年間ガマンしろ』といわれたそうです。そんな親父も、いまじゃ歩けなくなってますが。『あン仕事がいちばんキツかった』って、最近になって思いだしたように、当時を語ってくれますね」

「そうですか……行政の側にとっても、水俣病は辛い出来事でしたよね。それはおそらく、加害者であるチッソという企業にとっても。チッソって、じつは優れた企業なんですよね。ベンチャー企業のさきがけともいえるような、発想の柔らかさが社風にある」

「ええ、開発分野も幅広い。液晶なんかも、世界に先駆けている」

「だからこそ、見つめなきゃいけないと思うんです。なぜ排水を止められなかったのか。誰も『やめよう』と言いだせなかったのか。『そんな雰囲気じゃなかった』と当時の社員が証言していますが」

「それはいまの、福島にも通じますね」

「ええ」かの女は扉の向こう側を見やった。おそらくかれは、まだ熱心に見学しているだろう。「福島から来館するかたが大勢いらっしゃいます。なにか解決の糸口があるんじゃないかと思って、とおっしゃいます。だけど水俣も、いまなお解決してないんですよね、なにも……」

 午後5時に近かった。遅くなるからと断って、ぼくは歴史考証館をあとにした。が、福島のかれと話すべきだったような気もして、ちょっと後ろ髪を引かれた。かれがなぜ水俣に来て、なにを識ろうとし、なにを感じたかを聞いてみたかった。けれども、ぼくの側から語るべきはほとんどない。ぼくはまだ、なにも知らないに等しい。

 

f:id:kp4323w3255b5t267:20141024132014j:plain
 水俣湾の夕景

 註:1974年に仕切網に隔てられた水俣湾は、1990年にはヘドロ処理事業が完了し、汚染のひどかった湾の内側は埋め立てられた。1997年には安全宣言がなされ、仕切網も撤去された。いまの水俣湾はサンゴの生息も確認されている。

 

 ぼくは、 水俣にほんの数時間滞在しただけの、いわば通りすがりにすぎない。それだのに、こうして性懲りもなくたくさん書いてしまった。つい先日も、「何かを言ったような気にならないでほしい」とたしなめられたばかりだけれども、またしてもここに自意識をまき散らしてしまった。いい歳こいてぼくはいつまで少年のふりをしているのだろう。

 人を諭せるような知識を自分が持っていたら、思うさま開陳したい。だが、いまのぼくに言えることは、この日に学んだ、ただこれだけである。

「あなたも一度、水俣に来てみるといい。水俣湾から吹く潮風をかぎながら公園を散策するといい。埋立地に咲くバラは、息を呑むほどきれいだ。それから水俣病にかんするさまざまな歴史を知るといい。きっと驚くほど立体的な水俣の像が結ばれるだろう。」

 ぼくは水俣の街並が好きだ。その、好きな理由を探してみたい。だからこれからも足しげく通うと思う。陣内の「柳屋の美貴もなか」も買いそびれたことだしね。

 

 最後に。谷川健一氏のことばを借りて、この稿の終わりとしたい。

水俣水俣病より大きい」
熊本日日新聞 2013年8月26日朝刊 新生面より】